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血色の花嫁は雨夜に囁く  作者: 篠崎依月
冥闇

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16/31

 意識が浮上した瞬間に最初に感じたのは、全身にのしかかるような重だるさだった。


 真っ先に感じたのが痛みではなかったことに細く安堵の息を吐く。同時にユルリと(まぶた)を押し上げたが、光源のない部屋は(ろく)に視界が効かなかった。そのことにビクリと体が強張るが、跳ねた体が自由に動いたことを知った瞬間、その緊張もやわやわと解けていく。


 どうやら今は夜明け前の時間帯であるらしい。部屋が閉め切られた外にも深い闇が広がっていることが感覚で分かる。一日の中で一番深くて静かな闇は、視覚だけでなく五感の全てを塗り潰すような深淵に満ちている。


 ──ここは……?


 そんな暗闇の中にいながら恐慌状態に(おちい)らなくて済んだのは、部屋に充満している香りが決定的にかつてとは違ったせいだった。同時に、掛布の上から掛けられた外衣の感触が、己の意識を『今』に留めてくれる。


 ──この香り……


 薫香らしからぬ爽やかな香気は、嗅ぎ覚えがあった。おそらくこの香が(ワン)(モー)(リー)(ファ)の禁断症状を抑制してくれているのだろう。鎮痛作用がある、薫香と言うよりも薬に近いものなのかもしれない。


 ふと麗華(リーファ)の脳裏に、この香りを常に纏っている人物の姿が(よぎ)った。常に煙管(キセル)でこの香を焚き続けている彼は、今なおこの香に包まれていなければならないほどの後遺症に悩まされているということなのだろうか。


 その事実に行き着いた瞬間、(リー)(ファ)は己の体に掛けられた外衣を握りしめていた。


 ──(れん)は、その事実に僕が気付くって、多分、分かった上で……


 麗華(リーファ)に応急処置を施してくれたのは、間違いなく蓮だ。意識を失う前の記憶は突如あふれ返った過去の映像と激痛のせいで曖昧にぼやけているが、その場に蓮がいたこと自体は覚えている。


 そうでなくても蓮は『(ヘイ)』の幇主(ダーレン)で、(ゆう)(じん)から(リー)(ファ)の処遇を一任された身でもある。たとえ直接蓮が処置を施していなかったとしても、差配をしたのは蓮であったはずだ。


 蓮は麗華(リーファ)の言動をよく理解している。こういう形で応急処置を施せば、麗華(リーファ)がこの香の用途に気付くことも、この香と游稔の煙草(タバコ)が同種のものだと察することも分かっていただろう。


 そこに麗華(リーファ)が行き着いてしまえば、游稔の絶対的な弱み、……(そう)(てん)商会会長が、今なお絶えず薬を用いていなければならないほどの後遺症を抱えているという極秘情報が麗華(リーファ)に割れる。


 その可能性に、蓮は確実に気付いていたはずだ。他の誰に予測ができなくても、蓮にだけはそのことが分かっていた。


 それでも蓮は、その危険を承知の上で(リー)(ファ)を助けた。


 (ワン)(モー)(リー)(ファ)の中毒者を取り締り、商会を守護する。長くその任を果たしてきたはずである蓮が、商会の安全と(リー)(ファ)の命を天秤にかけて、(リー)(ファ)を取った。


「……」


 そこまで思い至った麗華(リーファ)は、身を横たえていた寝台の上に体を起こした。


 麗華(リーファ)が動きを見せても、部屋の中に変化はない。つまり今、この部屋の中に(リー)(ファ)以外の人物はいないということだ。


 たまたま今は付添人が席を外しているだけなのだろう。ここに放り込まれて放置された、というわけではない。


 誰かが定期的に体を拭き、水を与え、衣を着替えさせて、悶え苦しむたびにずれる掛布をかけ直してくれていた。そうでなければ麗華(リーファ)の体は今よりもずっと酷い状態になっていただろう。


 ──きっと、


 蓮自身が、ずっと傍にいてくれたのだろう。


 そうでなければこの部屋は、もっと薬香のにおいに塗り潰されていただろうから。


「……」


 麗華(リーファ)は指に馴染んだ手触りを手繰り寄せると、モソモソとその下に頭を突っ込んだ。すっぽりと頭の上まで外衣を引き上げると、知らず知らずのうちに強張っていた体からほっと力が抜けていく。


 かつて(ワン)(モー)(リー)(ファ)の重度依存者であったことを示す、甘ったるい香り。同時に外衣からは、乾いた草原の風を思わせるにおいも漂っている。さらに感覚を研ぎ澄ませば、その奥にはわずかに鉄錆にも似たにおいがあった。


 麗華(リーファ)が『麗華(リーファ)』として息を()くことができる、世界で一番安心できる居場所のにおいだ。


「……レン」


 震える指が、頭から被いた衣をギュッと握りしめる。


「ね? ……会えば分かるって、言ったでしょう?」


 ずっと切望していた。


 煙に溺れ、(もや)の中に意識を閉じ込められて、何もかもが分からなくなった状態でも。意識を奪われる絶望を何度も越えて、全身を駆け巡る痛みを何度も越えて。


 それでも醒めてしまえば、()()()()()()()()()()()()()()。その性質を見抜いていた(ニャン)(ニャン)は、決して(リー)(ファ)から煙が抜けることがないよう、(リー)(ファ)を常に(シャン)(クー)の中に押し込んでいた。


 月光が注ぐ晴天雨の夜。つかの間正気を取り戻したあの瞬間に、闇の中へ放り出した少年。


 わずかにかき集めた正気を必死に紡いで『一緒に逃げよう』と言ってくれた声を、リーファは今でも覚えている。その声の面影を残して低くなった声が、今でも『リーファ』と名を呼んでくれたことに、夢から醒めた自分は泣きたいほどの喜びを感じている。


 彼にもう一度巡り合うために、自分はここまで命を繋いできた。


 同時に、自分は一生、彼に出会うべきではないことも、理解していた。


(レン)


 それでも、手放したくない。


 夢はいつか醒める。(ワン)(モー)(リー)(ファ)が見せる夢も、煙が尽きれば激痛に変じる。


 それを自分は嫌になるくらいに知っている。


 彼は自分が突き放した先で、過去を綺麗に白紙に染めて幸せになっていた。リーファが(すが)っていた彼はもうリーファの中にしかいなくて、彼は消えてしまった彼の上に新しい自分を積み上げて、リーファが知らない『彼』を生きている。


 (ワン)(モー)(リー)(ファ)(まみ)れたままのリーファが、関わるべき相手ではない。煙が見せる夢から醒めた今、彼の幸せを願うならば、リーファはこのままどこぞへと姿をくらまし、そのまま野垂れ死ぬのが一番彼のためになるだろう。


 それでも。


【会いたい人がいるから、死ねない】

【その言葉を口にしたという記憶自体は、俺の中にはない。だが、その言葉を俺が口にした時に抱いたであろう覚悟は……『俺は何としてでも生き延びなきゃなんねぇ』っていう執着は、消えることなくここにある】


 ……それでも自分は、他ならぬ『彼』自身から、その言葉を聞いてしまった。


 月光が注ぐ晴天雨の夜。真っ赤な花嫁行列の中。


 何の因果か、十年前と同じ状況でつかの間正気を取り戻した自分は、あの時と同じ思いを抱えて行列の中から飛び出した。


 今しかないと、本能で覚った。あの瞬間を逃せば自分は、『リーファ』を取り戻せないまま彼の前に立つことになると分かっていたから。


 だから死力を尽くして、あの闇の中に飛び込んだ。かつて少年を突き飛ばした闇の中へ、今度は自分が飛び込んでいった。『必ず後から僕も行く』という約束を、十年越しに果たすために。


 ──醒めなければ、良かったのに。


 幸せな夢を見ていた。


 その夢を破ったのは、煙の向こうにいる『彼女』の手勢なのだろう。


「……」


 ポロポロと、頬を涙の粒が転がり落ちていく。だが(リー)(ファ)はその涙を拭うことをせず、両の指でキュッと外衣を握り込んだ。


 ──あの光景は、()を叩き起こすために用意されたものだった。


 彼女達は、リーファがここにいることを知っている。『麗華(リーファ)』の名で呼ばれるようになった自分が、下命を忘れて幸せな夢を見ていることまで把握できていたから、わざわざ手を回してあんなことをしてきたのだ。


 あの光景が、リーファの意識の引き金になっていることを承知していたから。


 同時にあれは、『レン』の潜在意識への調査も兼ねていたのだろう。彼の中に『レン』の記憶が残っていれば、あの光景は決して反応せずにはいられないものであったから。


「蓮」


 そっと、その名を呼んでみる。


 ()しくもかつての彼と同じ音をともなった、今の『彼』の名前を。


「蓮、レン、……(レン)


 リーファ……『(リー)(ファ)』の名の由来は、(ワン)(モー)(リー)(ファ)に対する特異体質に由来する。


 この体は、(ワン)(モー)(リー)(ファ)に対して禁断症状を示さない。意識の自由を奪う効果自体は現れるが、その持続時間も短い。毒耐性、特に突出して(ワン)(モー)(リー)(ファ)への耐性が強いのだ。


 リーファをここまで痛めつけたのは、(ワン)(モー)(リー)(ファ)切れの反動などではない。


 あの光景によって引っ張り出されてきたのは、毒花による壮絶な『調教』の記憶だった。リーファの意識を瞬時にグチャグチャにする恐怖と痛みは、(ワン)(モー)(リー)(ファ)が引き起こす痛みに等しい呵責をリーファにもたらす。


「……ねぇ、レン。それでも、僕はね」


 北の繁都、珊譚(シャンタン)の裏社会を牛耳る一大(ヘイ)(パン)(ホン)(ファ)(ニャン)(ニャン)』。


 その毒花が隠し持つ『兵器』の中でも、屈指の凶刃。


 茉莉花を焚きしめた血染めの花嫁装束を纏う暗殺者。


 新娘(シンニャン)


 自分がそう呼ばれている存在であるということを、(リー)(ファ)はすでに知っている。


 それでも、なお。


「まだ、この夢の中に、いたいな」


 ボロボロと涙をこぼしながら、麗華(リーファ)は震える声音で呟いた。


「『リー(ファ)』じゃなくて、『麗華(リーファ)』でいたいな……!」


【お前が俺に拾われる前に何者であったとしても、今のお前はもう霜天商会の(リー)(ファ)だ】


 その言葉を、真実にしたい。


 たとえ己が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 その役目を放棄すれば、今まで与えられてきた存在意義を全て否定することになると分かっていても。


 それでも。……それでも。


「ねぇ、蓮」


 僕が『麗華(リーファ)』でいられる場所を、僕自身の手で切り開いてみせるから。


 姻寧(いんねい)に潜り込んでいる彼女の手勢は、僕自身の手で片付けてみせる。君の命も、この姻寧の平和も、商会の未来も、僕が全部守ってみせる。


 だから。


「僕が紅華(ホンファ)新娘(シンニャン)だって、僕自身の口から告げても、また僕のことを『霜天商会の(リー)(ファ)だ』って、言ってくれる……?」


 外衣を握りしめる指先が、力のこもりすぎで震えていた。ボロボロととめどなくこぼれ続ける涙は、止まる気配を見せない。


「僕を傍に置いて、笑いかけてくれる……?」


 夜明けの気配は、まだ遠い。


 自分だけを世界から切り取るかのような闇の中で、『リーファ』は独り泣き続けた。


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