弐
空からは花と金箔が降り注ぎ、地上へ視線を落とせば金と紅に彩られた絢爛豪華な輿が行く。道の左右には人がひしめき合い、歓声と爆竹が聴覚までをも姦しく囃し立てていた。
黒城から出立した花轎は、ゆっくりと姻寧の街の中を進んでいく。
その様子を蓮は、人垣から数歩下がった細路地の中から眺めていた。
──今のところ、不審な動きも不審な気配もねぇな。
黒城で行われた出立の儀は滞りなく終わった。花嫁行列は順調に進んでいる。『黒』の配下達の動きも良好だ。憂えることは何もない。
──ひとまず南陽門まで無事に行き着いてくれれば、一息つける。
華やかな花嫁行列は一旦そこで終了だ。姻寧からの見送りはそこまでで、以降は花嫁一行に世話人と護衛役がついた簡素な花嫁行列になる。街道沿いの次の宿営地になる聯暁が今晩の逗留地だ。花嫁一行はそこで一旦絢爛豪華な花嫁衣装を脱ぎ、旅装に改めて先の旅路を進むことになる。
──姻寧から出た先も、決して安全ってわけじゃねぇが。
ひとまず姻寧を出れば、姻寧に潜んでいる敵意からは逃れることができる。逆に言えば、現在の姻寧に商会への悪意が潜んでいるならば、必ず姻寧の中でちょっかいを出してくるはずだ。
今回は姻寧の外で偶発的に遭遇する危険よりも、この姻寧の中に潜んでいる危険の方が性質が悪い。
その確信とともに、蓮は目を眇める。
「麗華」
細路地の先を花嫁行列は通過しきっていた。そろそろ次の地点に移動しなければならない。
蓮はその意図を込めて、密やかに麗華の名を呼ぶ。
だが傍らにいるはずである麗華からは返事らしい返事がない。
「麗華?」
『いるよな?』という意味を込めながら、蓮は麗華がいるはずである場所へ視線を落とす。
その瞬間、星々の煌めきを閉じ込めたかのような瞳とバチッと視線がかち合った。
「麗華?」
「っ!?」
なぜ気配を察することができなかったのか不思議なくらい熱烈な視線を麗華は蓮へ向けている。そんな麗華へ、蓮は思わず訝しげに呼びかけていた。
「どうした? やっぱりまだ人混みはしんどいか?」
「ち、ちがっ……!!」
蓮と視線が絡まった麗華は、頬に朱を散らしながら必死に首を横へ振る。頭から被いた外衣をギュッと握りしめた手は、蓮の見間違いでなければ細かく震えていた。
「いや、でも」
「大丈夫! 大丈夫だから……っ!」
それでも麗華は頑なに『大丈夫』と言い募る。
思い返せば朝一、装束を着直してから顔を合わせた時も、麗華はその場に固まって目を丸くしていた。その時は蓮の見慣れない着こなしに驚いたのかと思ったのだが、以降ずっと行動をともにしているのだ。さすがにもう驚きは過ぎ去っているはずである。
──見惚れてる、とかは、麗華に限ってはねぇだろうし。
たまに商会の取引の関係でこうやって襟を正した着こなしをすると、その時に顔を合わせる配下達に似たような反応をされることがある。
とはいえ、彼らと違って麗華は常に蓮と行動を共にしている。見慣れた面に対して、着こなしを改めた程度でここまで見惚れられていると解釈するのは、さすがに自惚れが過ぎるだろう。
「ぼーっとしちゃって、ごめんなさい」
蓮が困惑していると麗華には分かったのだろう。しおっとしょぼくれた麗華がか細い声で蓮に謝罪する。
「とにかく、体調に問題はないんだな?」
「うん」
麗華の場合は、人混みに慣れていないというのに加えて、忘れ茉莉花の禁断症状がいつ現れるか分からないというのもある。『そういう事情を懸念しているから、少しでも異変を感じたらすぐに言え』と言い含めているし、それに対して麗華も首を縦に振ってはいるが、都度都度の確認は蓮の義務でもある。
蓮が重ねて問いかけると、麗華は小さく頷いた。
それを確認してから、蓮は改めて麗華へ問いを投げる。
「お前の感覚に、何か異変は引っかかったか?」
「ううん」
「忘れ茉莉花の臭いも?」
「ない」
蓮をしっかり見つめ直した麗華からは、先程までの熱も落ち込みも感じなかった。無表情に緊張感を漂わせた麗華は、確信とともに首を横へ振っている。
「分かった。次の待機地点へ移動するぞ」
「うん」
麗華の感覚は信用できる。そして麗華は蓮に嘘をつかない。
そのことは、麗華と過ごした二十日間で分かっている。頼りにしてもいいはずだ。
蓮は麗華を促すと細路地をさらに奥へ向かった。
花嫁行列は姻寧の中心を走る街道を進むことになっている。街道は対向で馬車が二台ずつすれ違える幅を有しているが、今日ばかりは人でごった返して歩きづらい。霜天商会幹部である蓮が下手に顔を出せば絡んでくる人間も多いだろう。こういう時は気配を殺したまま、人が少ない裏路地を進んだ方が効率的に動くことができる。
──俺が裏に潜る分、表は配下のやつらが気を張ってるしな。
その配置に穴がないかも要所要所で確かめながら、蓮は足早に裏路地を進んでいく。
次の蓮の待機地点は、広く南陽門までを見渡せる高台だ。そこに行き着けば、しばらく蓮は動かなくても済む。気を抜くことはできないが、麗華に多少の休憩を与えることくらいはできるだろう。
そんなことを考えた瞬間だった。
不意にスッと差した影に、蓮は反射的に足を止める。
「蓮、あれ」
異変を察知するのは麗華の方が早かった。
ザッと音を鳴らしながら足を止めた麗華は、頭上を指差しながら鋭く声を上げる。
「あれは、……天燈?」
建物の上をフヨフヨと漂っていたのは、真っ赤な紙が張られた丸い天燈だった。下部にくす玉のような球体と箔押し装飾が施された吹き流しがつけられた天燈は、蓮と麗華の上にわずかに影を落とすとすぐに視界から消えていく。
その数秒の出来事に、蓮はゾワリと悪寒を覚えた。
「天燈が飛ばされる予定なんかない」
風向きの関係なのか、あるいは意図的にそちらへ流れるように設計されているのか、天燈は花嫁行列が進む表の街道の方へと漂っていった。
今回、祝いの儀として行われる全ての予定は、事前に商会へ通達が義務付けられている。今降り注いでいる花も金箔も、事前に商会との打ち合わせを経た上で用意されたものだ。使用される花や金箔は事前に商会関係者が確認を行っている。
姻寧は霜天商会の庇護の下で発展してきた街だ。商会に敵が多いことも、商会が表と裏の顔を持っていることも、住民は皆重々承知している。大きな行事がある際には、揉め事を避けるために事前の打ち合わせ、許可取得、商会による確認は必須だと誰もが理解しているはずだ。
だから当日、突発かつ商会に秘匿で行われる祝いの儀など存在しているはずがない。直前で思いついたことであったとしても、必ず商会には報告がされるし、報告されていればそれを蓮が知らないはずはない。
ならばあの天燈は、一体誰が、何のために上げたのか。
──あのくす玉の中身。
あれの中に、万が一忘れ茉莉花が入れられていたとしたら。万が一、あれが花嫁行列でごった返す民衆の上で破裂したら。
「っ!」
蓮はとっさに表へ向かって身を翻しながら、鋭く指笛を鳴らしていた。短く節を付けて吹き鳴らされる指笛は『黒』の人間に対して警戒を促す符丁である。
──とはいえ、空を飛んでいる代物に警戒しろってのは難しいか……!
歯噛みしながら、蓮は表通りへ飛び出す。
そこはちょうど花轎が通り過ぎようとしている真っ最中だった。ワァッと上がる歓声に、蓮は思わず一瞬足を止める。人々の歓声とざわめき、熱気が音と化したかのような喧騒の中では、『黒』の仲間達から返答の指笛が鳴っているのかどうかさえ聞き取ることができない。
──クッソ! あの天燈は……っ!?
蓮は奥歯を噛み締めながら空を見上げる。
さらにそこにあった光景に、蓮は思わず目を見開いた。
「ひとつじゃねぇのかよっ!?」
晴れ渡った空の中には、蓮と麗華が見かけた天燈と同じ物がいくつも漂っていた。建物よりも高い位置を漂う天燈達は、もはや撃ち落とす他に除去する手段はない。
行列を守っていた配下達は、目の前の雑踏に異変がないかを見張るだけで手一杯だったのだろう。要所要所の見張り台に配置していた人員もいたはずだが、異変を知らせる指笛の音はこの雑踏にかき消されて届いていなかったに違いない。
──指笛以上に煩い鳴り物を鳴らしていたら、ここにいる全員に異変を覚られる。花嫁行列を止めちまうどころか、この婚姻に傷を付けることになりかねねぇ……!
配下達の判断は間違っていない。この事態を防げなかったのは、こういった事態を想定していなかった蓮の落ち度だ。
──どうにかして皆の安全を確保する方法はないのかっ!?
ここまで来てしまったら、この異変を『異変』と覚らせることなく終わらせなくてはならない。これはあくまで祝いの儀の一環で、周囲には知らされていなかったが商会側が密かに用意していた祝いだったのだ、という形で片付けるのが一番の理想だ。
──そうだ、傘か何かで……!
万が一、このごった返した人波の上で天燈が破裂しても、皆が傘の下などにいれば初撃に対する最低限の安全は確保できるかもしれない。
焦りに思考を焼かれながらも、蓮は誰かに繋ぎが取れないかと周囲を見回す。
その瞬間、だった。
まるでいきなり雨が降り注いだかのように、ザアッという音が周囲にこだまする。
同時に、どこからともなく放たれた矢が、天燈に吊るされたくす玉のひとつを割った。
「わっ!?」
「何だこれはっ!?」
予期せぬ演出に押しかけた人々は戸惑いの声を上げる。
だがくす玉の中から降り注いだ物が何か分かった瞬間、人々はさらに歓声を上げた。
「酒だ!」
「天から酒が降ってきた!」
「天からの祝い酒ってか? 縁起がいいことだな!」
──は? 酒?
そこかしこから上がる声に蓮は訝しげに顔を顰める。
その間にも、天燈のくす玉は次々に割られていた。どうやら矢の打ち手は複数いるらしい。射手の場所を誤魔化すかのように複数場所から次々と撃ち込まれる矢は、どれも過たずくす玉を割っていく。
周囲に鳴り響く音と合わさって、さながら天気雨が降っているかのようだった。
変わることなく天から降り注ぐ花と金箔。優雅に進み続ける花轎。降り注ぐ甘露の雨に人々は酔ったように騒ぎ立てる。その声までもが、周囲から鳴り響く雨の音に似た楽の音に包み込まれようとしていた。
「っ、ぁ……!」
それでも、蓮の耳に、その微かなうめき声は確かに届いた。
「あ、ぁ……っ!!」
どんな時でも蓮の耳にスルリと入り込む声。
だがその声がこんなに乾いて引き攣れるところを、蓮は耳にしたことはない。
蓮はハッと己の傍らに視線を落とす。
そこにいた麗華は、焦点が合わない瞳で目の前の光景を見つめていた。焦点が合っていないはずなのに、麗華の意識が花轎に引きつけられているのが、蓮には分かる。
呼吸の自由さえ失ったかのように固まった麗華は、ワナワナと細かく体を震わせていた。その顔からはこの短い時間の間に血の気が失われている。
そんな麗華が、空気を求めるかのようにゆっくりと大きく口を開いた瞬間。
「っ!!」
「──────────っ!!」
蓮は何かを考えるよりも早く麗華を腕の中に抱き込むと、己の胸に麗華の顔を埋めさせるように強く抱きしめていた。口元を強制的に塞がれたせいで、麗華が上げた絶叫はくぐもったうめき声となって歓声にかき消されていく。
「麗華っ!?」
息が続く限り絶叫を上げ続けた麗華は、蓮の拘束から逃れようと体を暴れさせた。動き方自体は無茶苦茶で容易く押さえつけられるものだが、その力は強い。麗華の細腕でこんな抵抗を続けていれば、遠からず体のどこかを痛めるに決まっている。
「麗華っ! 麗華、どうしたっ!?」
麗華の体を強く胸に抱き込んだまま、蓮は麗華の耳元で低く囁く。だが麗華の耳に蓮の声は届いていないようだった。蓮の胸に顔を埋めた麗華は、ずっと悲鳴を上げ続けている。
その様子に、先程感じた悪寒とはまた違う戦慄が蓮の背筋を駆け抜けた。
──まさか……!?
忘れ茉莉花の禁断症状。
今まで麗華の体に現れていなかった異変が、今この瞬間に現れてしまったのだとしたら。
「……っ!!」
──このままここに麗華を置いておけない。
とっさに判断した蓮は、麗華の頭を抱え込むように抱き込んだまま、ジリジリと裏路地の中へ踏み込んだ。強制的にどこかへ運ばれているということは分かるのか、麗華の抵抗はより激しさを増す。何とか周囲に気付かれずに路地裏へ身を隠せたのは、たまたま運が良かっただけに過ぎない。
「麗華! しっかりしろ、麗華っ!!」
ここなら人目につかず、ある程度ならば声を上げても表には聞こえないかというところまで麗華を引き込んだ時には、蓮の体には汗が伝っていた。
麗華の顔を押さえつけていた胸元は、涙とも涎ともつかない液体でベシャベシャに濡れてしまっている。背中や腕は爪を立てられ、脛には蹴りが入れられていたのだろう。全身に鈍い痛みが走っている。
それでも蓮は麗華から手を離すわけにはいかなかった。
「っ! ──、────っ!!」
蓮が頭を押さえつけていた手を離すと、麗華は再び声にならない絶叫を上げた。頭を激しく振って体を暴れさせる麗華は、明らかに蓮の拘束から抜け出そうと藻掻いている。
──どこにこんな馬鹿力が眠ってたんだよっ!?
恐らく錯乱状態にある麗華の体は、一時的に人体のありとあらゆる枷を飛ばしている。
枷が消えた体は一時的に尋常ならざる力を発揮させるが、その代償は崩壊だ。己自身が振るう力に耐えきれず、末端から体は壊れていく。
「麗華っ! 麗華、聞けっ! 聞けったらっ!!」
壁に叩き付けるように麗華の体を押さえ込み、両手首を両手で、足の間に膝を割り込ませることで下半身の動きを無理やり封じる。それでもなお麗華は絶叫を上げながら蓮を跳ね飛ばそうとしていた。
ここまでの攻防で、すでに蓮の体は限界を訴え始めている。ジワジワと自分の体が麗華に押し負け始めるのが嫌でも分かった。
──ここで麗華を取り逃したら……
こんな状態の麗華を、今の姻寧の中で解き放ってしまったら。
花嫁行列がどうこう以前に、死人が出る可能性だって否めない。蓮に止められなかった麗華を、蓮以外の誰かが止められる未来を蓮は想像できない。
「……っ!!」
カサリと、懐の中に入れたふたつの紙包みが存在を主張したような気がした。
……判断を、しなければならない。
蓮は『黒』の幇主だ。姻寧の治安維持を司る者であり、商会の武力の頂点に立つ者。姻寧の王である游稔から麗華の処遇を一任された者だ。
それだけの責任が、蓮にはある。
そんな蓮に預けられた天秤には今、姻寧の民の命と、麗華という限りなく正体が怪しい一人の少年の命が乗せられていた。絶対に守り通さなければならない数多の命と、助かるか否かも分からず、また助けて良いのかさえ分からない命が。
本来ならば、迷う余地などない。
ない、はずだった。
「……れ、ん」
凍り付いてしまった思考の隙間に、スルリと声が滑り落ちる。
「い、た……いた……れ、……レン」
叫び続けて喉を痛めたのか、漏れ出た声は酷く掠れていた。喘ぐように乱れた呼吸の下で紡がれる言葉は、声の小ささもあって聞き取りづらい。
それでもその声を、蓮はもう聞き逃すことができなかった。
「レン、れ……ん」
『痛い』、と訴えたいのか。
あるいは『逢いたい』なのか。『死にたい』なのか。
その部分は曖昧なのに、すがりつくように蓮を呼ぶ声だけは、明確に蓮の意識に届く。
「……っ!」
一瞬だけ麗華の体から力が抜ける。
その隙に懐から翡翠の紙包みを引き抜いた蓮は、包みの端を歯を使って噛み破ると中に入っていた丸薬を全て己の口の中に流し込んだ。
その上で、再度麗華の体を壁に押さえつけ、深く唇を重ねる。
「っ、〜~~~~~っ!!」
無防備に開いていた口の中に舌をねじ込み、麗華の舌を己の舌で押さえつける。そうやって無理やり喉を開かせた蓮は、己の口に含まれていた丸薬を無理やり麗華に飲み込ませた。
──緊急事態だ。許せよ、麗華っ!
蓮の体重がのしかかる形で壁に押さえつけられ、薬を飲み込ませるためとはいえ深く口付けられた状態では、麗華も抵抗らしい抵抗はできないのだろう。相変わらず体は暴れているか、空気が足りていないせいなのか徐々にその力は弱まっていく。
コクリと麗華の喉が丸薬を呑み込んだことを確かめてから、蓮は麗華の唇から離れた。その後も吐き戻させないように片手で麗華の口元を押さえつける。
「麗華、聞こえてるか、麗華!」
クテリと力が抜けてしまった麗華の口元を押さえたまま呼びかけると、錯乱し始めてから始めて麗華の目が蓮に焦点を結んだ。
瞳に宿る自我はいまだに薄いが、今の麗華には蓮の声が届いている。
「麗華」
そっと改めて名前を呼びかけながら、麗華の口元を押さえていた手を退ける。
その瞬間、麗華が掠れた声で呟いた。
「いたい」
痛い。
限りなく薄い、わずかにだけ取り戻した正気をかき集めて、麗華は弱々しく蓮に訴えかけた。
「痛い、の、レン……にげ、……」
「麗華」
「こわい、こわくて、いた……痛い、痛いよ、レン、逃げて、ね、暗い……暗くて、狭くて、レン……レン、どこ……逃げ、痛い、や、いや、ごめ、……ごめんなさい、娘娘……もう、逃げない、逃げないから……っ!!」
「麗華!」
「レン、レン……どこ、……逃げて、レン……や、置いてかないで、傍にいて……っ!!」
喘ぐように、溺れるように息を継ぎながらも、麗華は訴える言葉を止めようとしない。蓮を繰り返し呼ぶ声は、蓮を呼んでいるようで、その実違う人の名を呼んでいるような響きがあった。
──麗華が呼んでいる『レン』は、
蓮、ではない。
不意に、そんなことを考えてしまった。
「レン、レン……」
それでも麗華は、目の前にいる蓮に『レン』と呼びかける。
「わすれ、たい」
呼びかけながら麗華は、虚ろな瞳からポロリと一粒涙をこぼした。
「どんな方法でも、いい、から」
力が思うように入らない体で。唯一自由になっている右腕を蓮の首に絡めて。
いまだ空気が回っていないのか、頬を上気させたまま。掠れの酷い声で、たどたどしい言葉で。
正気と狂気の狭間から、麗華は必死に『レン』を呼ぶ。
「忘れさせて、……レン」
その呼び声を振り切る術を、今の蓮は、……麗華の前にいる蓮は、知らない。