壱
その日、姻寧では夜明けとともに爆竹が鳴り響いた。黒城の正門から始まった爆竹の嵐は波紋が広がるように姻寧中に広がり、太陽が中天に差し掛かろうとしている今は街のそこかしこから破裂音が響いている。
その音を游稔の執務室で聞いていた蓮は、窓の外を見やりながら眉をひそめた。
「ったく。爆竹の無駄遣いをすんなって通達出しとくべきだったか」
「まぁまぁ、いいじゃない。せっかくのハレの場なんだから」
花嫁の父親代わりとして表に出る游稔は、常よりも豪奢な装束の袖を優雅に捌きながら煙管を振る。濃緑色の地に入れられた金糸の刺繍が、そんなわずかな動きにも光を反射させていた。いつもと変わらない色硝子が入れられた眼鏡さえ、今日の装いの中にあると常よりも華やかに見える。
「とはいえ、これ、武器として各所に置かれてた爆竹にまで火ぃつけられてんだろ」
対する蓮も、今日ばかりはきっちりとした装いをしていた。
とはいえ、裏方荒事担当である蓮は、特に正装に着替えたりはしない。こういう場での蓮は、普段肘まで滑り落として着ている外衣をきちんと肩まで引き上げて襟を正し、腰回りを帯で纏めて止めることで正装に代えている。
着ている物自体に変わりはないが、肩口で袖が落とされた上衣が中に隠れるせいか、着方を変えただけで印象はかなりまともになるらしい。護衛を務める『黒』の面々を指揮しつつ、自身も人混みに紛れていた方が都合がいい蓮にとっては、正装もこれくらい地味で動きやすい方が楽でいい。
「湿気る前に処分ができたと思えば、それはそれでいいでしょ」
「お前なぁ……。買い直す分の予算、ちゃんとつけてくれるのか?」
「防衛費として必要だと判断すればね」
今日ばかりは、黒城の中もお祭り気分に浮足立っている。
花嫁の出立ということで、商会の取引も全て休みという触れが事前に出されていた。普段は商人達がしのぎを削る表間も、今日は開放されて宴の場として使われている。
「……結局今日まで、麗華の禁断症状は確認できてないんだね?」
その熱気の中に溶かし込むように、游稔はそっと問いを落とした。先程までとは打って変わって冷え切った声に、蓮も表情を正すと小さく顎を引く。
そんな蓮の返答に、游稔はツッと剣呑に目を狭めた。
「忘れ茉莉花の禁断症状は、人によって千差万別。どれくらいの強度で出るかも人による。だけど」
「これだけ茉莉花の患者を見てきた霜天商会でも、禁断症状が一切出ない人間なんて見たことは」
「ないね。間違いなく」
游稔からの返答に、視線を落とした蓮も剣呑に目を細める。
麗華を拾って今日で二十日。麗華当人にも正面切って訊いてみたが、やはり麗華には忘れ茉莉花の禁断症状らしきものは現れていない。
手合わせの後に蓮と腹を割って話したことで不安も払拭されたのか、麗華は真摯に商会に馴染もうと努力しているように思える。『黒』の一員として腕を振るい、蓮や周囲の指導の下、手習いにも励む麗華の様子は健気で健やかだ。周囲も麗華のことを『少主』と敬いながら、まだまだ危なっかしい末っ子に接するかのように柔らかく見守っている。
表面上は、順風満帆で平穏そのものだ。
だからこそ、ありえない例外は蓮の心に不安の影を落とす。
「ここまで来ると、いっそ患者じゃなかったって方が自然かもしれないけども」
「ありえねぇだろ。あれだけ茉莉花が香るのに」
麗華と接するたびに鼻先をかすめる甘ったるい香りを、蓮が嗅ぎ間違えるはずがない。『それはお前も同じだろうが』と游稔を睨みつけると、游稔は『分かってるよ』と言いたげに煙管の先を振った。
「とにかく」
その上で游稔は、左手を懐に入れる。
「この先、事態がどう転ぼうとも、麗華のことは君に一任する」
懐から引き抜かれた游稔の指先には、手のひら大の紙包みが二個挟み込まれていた。その中にそれぞれ何が入っているのかを察した蓮は、息を詰めたまま差し出された紙包みを見つめる。
「梅煙さんから、君に。翡翠が特効薬、柘榴が毒薬。必要に応じて使えってさ」
游稔の言う『一任』は、生殺与奪の権までをも含んでいる。
万が一、麗華が商会に仇なすような真似をすれば。商会の手に負えない存在に成り下がれば。
蓮はその場で、誰の許可を得ることもなく、己の判断ひとつで麗華を殺すことが許されている。そして誰も蓮の判断を責めることはない。『蓮幇主が判断したことならば』と、それが最善の判断であったのだと疑いなく納得する。
蓮が初めて游稔の元に麗華を連れて行ったあの時。游稔から投げられた『面倒を見てあげて』の一言の中には、最初からそれだけの意味が込められていた。
だが今、改めて選択のための道具を差し出された蓮は、己の胸が苦しさに詰まることを自覚する。
「……絆されてるって、お前は指摘してきたよな?」
差し出された紙包みを受け取れず、ただ視線を置いたまま、蓮はポツリとこぼした。
「俺がその二択じゃなくて、『麗華』という三択目を選んだら、……お前はどうする?」
「どうするも何もないさ」
いつになく弱気な蓮の様子に、游稔は眼鏡の奥でパチパチと目を瞬かせる。
その上で普段と一切変わらない軽やかな口調のまま、游稔は答えを口にした。
「君が運命に出会えたことを祝福しながら、大人しく君達に滅ぼされるよ」
「は?」
「君達が手に手を取って駆け落ちするなら、大人しく見送るし」
「え?」
予想もしなかった答えに、蓮は思わず視線を跳ね上げた。蓮としては深刻に、かつ大真面目に悩んでこぼした言葉だったというのに、その言葉を受け取った側である游稔は実にあっけらかんとしている。
「いやね、蓮。君と麗華が本気になって僕達に刃を振りかざしてきたら、商会と言わず姻寧が一丸になって対抗しても敵いっこないんだよ」
『自分の実力、お分かりで?』と游稔は紙包みを指に挟んだまま、実に器用に手のひらを広げてみせた。
そんな游稔の茶化すような仕草に、蓮は思わず苦い声をこぼす。
「お前な、俺はこれでも真剣に……」
「蓮ってさ。案外、身内には甘くて優しくて、情が深いじゃない? っていうか、そうなんだけども」
蓮の言葉を遮った游稔は、さらに『自覚してるかどうかは知らないけどもさ』と言葉を続けた。こちらに口を開かせるつもりがないというのを察した蓮は、仕方なく口をつぐむと拝聴の姿勢を取る。
そんな蓮の態度に、游稔はフワリと柔らかな笑みを口元に広げた。
「今まで蓮が商会と何かを同じ天秤に乗せたことって、なかったんだよね」
「そ、れは」
「いつだって商会の利と安全を最優先してきた君が、初めてそこに何かを同列で並べた。どちらを優先すべきか迷った。いつだって責務を優先して、それを当たり前だと思って、迷うことさえなかった君が、初めて責務と己の感情の間で揺れている」
游稔から突き付けられた指摘に、蓮は思わず言葉に詰まる。
そんな蓮に満足そうに、あるいは何かを諦めたかのように笑みを深めた游稔は、溜め息をこぼす代わりに言葉をこぼした。
「それってもう、相当なことだと思うんだよね」
『もうすでに相当、入れ込んじゃってる証拠だと思うんだよね』と静かに続ける游稔の声が、場違いに静かな執務室の空気の中へ、深く深く染み込んでいく。
「これを『運命』と言わずして、何を運命と言えって?」
静かに目を見開く蓮を横目で眺めながら、游稔は深く煙管から煙を吸い込んだ。チリチリと煙草が燃える微かな音と、部屋の外から忍び込む浮かれた人々のざわめきが、蓮の耳朶を微かにくすぐっていく。
「運命には、誰も逆らえない」
フゥ、と軽く息を吐き出した游稔は、蓮の視界を横切るように前へ踏み出すと卓上の灰吹へ煙管の雁首を叩き付けた。カンッという鋭い音に、蓮はハッと我に返る。
「僕はただ、君の運命が商会にも微笑みかけてくれるものであることを祈るだけだよ」
囁くような声音で言葉を締め括った游稔は、口にした内容の割に静かな表情をしていた。
もしかしたら游稔には、蓮が麗華を伴ってこの部屋にやってきた時から分かっていたのかもしれない。
いずれ蓮が、こんなことを言い出すのかもしれないと。
──運命、ね……
蓮を見上げて花がほころぶかのように笑う麗華の顔が、一瞬脳裏を過ぎったような気がした。
その幻影を拳を握りしめることで掻き消した蓮は、游稔の指先に挟まれたままになっていた紙包みをふたつとも引き抜いた。蓮の顔にどんな感情を見たのか、游稔は煙管の先に視線を置いたまま改めて笑みを浮かべる。
その瞬間、コンコンッという音が響いた。
「会長、御在室でしょうか」
「蓮もいるよ」
外からかけられた声に、游稔は気楽な調子で答える。蓮が紙包みを懐にしまい込みながら顔を上げれば、扉を開いた芙蓉が部屋に踏み込んでくるところだった。
普段は男物の衣服に身を包み、髪も素っ気なく纏めている芙蓉だが、今日ばかりは正装に身を包み、髪も華やかに結い上げている。
游稔の装束と揃いの刺繍が入れられた黒衣は、華やかでありながら気品があった。金糸の刺繍と合わせたのか、髪には見事な透かし彫りの金簪が添えられている。
芙蓉の美貌を体現するかのような装束は、芙蓉曰く『正装』ではなく『戦闘服』であるらしい。主役である花嫁よりも目立つことを防ぐためなのか、今日の芙蓉は南方の女性が纏う鼻から下を隠す形の面紗をつけている。それでも黒城きっての美貌は隠しきれず、目元だけがのぞく顔からは怪しげな魅力がこぼれ落ちていた。
「花嫁の支度が整いました」
部屋の中程まで進んだ芙蓉は、常と変わらない静かな声で告げる。その言葉に游稔は笑みで応え、蓮は表情を引き締めた。
「分かった。行こうか」
游稔は軽やかに答えると、火の始末をした煙管を片手に前へ踏み出す。蓮はそんな游稔の後ろへ続き、軽く頭を下げて游稔を見送った芙蓉はクルリと身を翻すと殿に続いた。
常と変わらない歩みを進めながら、蓮はそっと懐に片手を添える。その下でカサリと紙包みが存在を主張したような気がした。
──商会と麗華を同じ天秤に乗せたとして。もしもどちらかしか取れないってなったら、俺は……
改めて胸中で呟いてみても、答えなんて見つからない。
そのことを数秒かけて確かめた蓮は、まばたきひとつでその話題を意識から締め出す。
前だけを見据えて、進む足に力を込める。
今はそれで、結論が出ない話題から逃げる免罪符を得られたような気がした。
それが今だけしか使えない免罪符だとしても。
その『今だけ』が自分には必要なのだと、言い聞かせる自分がどこかにいることを、自覚していた。