肆
東西を天衝連山の切り立った崖に挟まれている姻寧は、夜明けが遅く、正午を過ぎて幾許もしないうちに日が陰りだす。
「蓮」
気の早い日暮れの影に呑まれ始めた姻寧の街をぼんやりと眺めていた蓮は、静かに己の名を呼ばう声に気怠く視線を投げた。
「隣、行ってもいい?」
声の主は、予想通りに麗華だ。日暮れに合わせて強くなってきた風に頭から被いた外衣をなびかせた麗華は、高台の石壁に肘を預けた蓮を下から見上げて、律儀に階段下から声を投げている。
時折視界を遮るようにはためく外衣を指先で押さえながら蓮を見上げた麗華の顔には、相変わらず表情らしい表情がないくせに微かな緊張の色が見て取れた。
そんな麗華の様子に、蓮は思わず苦笑をこぼす。
「いいぜ、来いよ」
蓮がポンッと言葉を放ると、麗華はホッと肩の力を抜いたようだった。そのまま数秒待っていれば、軽やかに階段を駆け上ってきた麗華が蓮の隣に並ぶ。
蓮と同じように石壁に両手を載せた麗華は、無言のまま蓮を見上げる。
それからようやく麗華は蓮の後ろに広がる景色に気付いたようだった。夜空のような漆黒の瞳が見開かれ、星々のような煌めきが麗華の瞳の中に散る。
そんな麗華の様子に、蓮はそっと口元の笑みを深めた。
「姻寧で、一番綺麗に夕焼けの空が見れる場所なんだ」
きっと今の麗華の視界には、蓮の後ろに茜色に染まった空が広がっていることだろう。すっかり宵闇に呑み込まれてしまった街並みに対し、崖に切り取られた空にはまだ残照の気配が感じられる。
「俺がここにいるって、鼓条にでも聞いたのか?」
無言のまま茜空に見入る麗華から街並みへ視線を移しながら、蓮は静かに問いかけた。
その声音から蓮が存外平常通り、……いや、普段よりも穏やかな心持ちでいることを察したのだろう。蓮に視線を引き戻した麗華は、フルフルと微かに頭を横へ振る。
「禅譲さん」
「そうか。禅譲の方だったか」
鼓条は麗華を拾った日に門番として麗華に相対した。一方禅譲は検問破りの馬車の一件の時、筆頭として立ち回っている関係で麗華とも言葉を交わしている。それぞれ『黒』の重鎮で、蓮も二人への信頼は厚い。
その信頼を察しているのか、あるいは二人と直接話をする蓮の姿を度々見ているせいなのか、麗華も二人に対しては比較的緊張が少ないようだった。二人の方も蓮と別行動中の麗華の監視を任されることが多いせいか、麗華に目をかけているように思える。
──しかしこの場所を麗華に教えるとはな。……信頼されたもんだな、お前も。
この場所は、蓮が一人で考え事をしたい時に度々訪れている場所だ。元々有事の際の見張り台として作られたのだろうが、入り組んだ道の先にあるせいでこの場所の存在自体を知っている人間が少ない。
行方をくらませたい時に蓮が使う隠れ家のような場所だ。その意味合いを理解している鼓条と禅譲が、誰かにこの場所の存在を教えるのは珍しいことではないだろうか。
「麗華、お前、……珊譚から来たってのは……」
そんな物思いを転がしていたら、言葉が勝手にこぼれ落ちていた。だがそのことに気付いた瞬間、言葉はフツリと止まってしまう。
その理由を、きっと麗華は察したのだろう。街並みに視線を置いたまま麗華の方を見ることができない蓮に対し、麗華は蓮をまっすぐに見上げてコクリと顎を引く。
「本当」
微かな掠れを帯びた高くも低くもない声は、今も静かなままだった。ゆっくりと、だが確実に濃くなっていく宵闇の中に、静かな声がそっと溶け込んでいく。
「僕には、記憶らしい記憶がない。証もない。でも」
蓮を一心に見つめたまま、麗華は石壁の上に置いた手にキュッと力を込めた。それを視界の端で捉えていながらも、蓮は麗華へ視線を向けられない。
「理屈じゃない部分で。僕が珊譚から来た暗殺者で、あの雨の中を何かから逃げていたってことには、確信がある」
「……そうか」
蓮にできたことは、小さく答えると同時に視線を己の手元に落とすことだけだった。
──俺と麗華は、きっと同じ場所で仕込まれている。
今日手合わせをしてみて分かった。
確かに、蓮と麗華の身に叩き込まれているのは同じ技だ。手合わせの記憶をなぞればなぞるほど、己と麗華の身のこなしが鏡に映したかのように同じであったことが分かる。
考えるよりも早く本能で、麗華が繰り出す次手が分かるような気がした。その感覚は己と同じ手を麗華が備えているからこそ得られた感触なのだろう。
記憶を全損させた状態で游稔に拾われて十年。白紙に返った蓮の身元に繋がりそうな情報は、今まで何もなかった。
──麗華の身元が分かれば、もしかしたら俺の起源も……
何かしら、掴めるものがあるかもしれない。
だが同時に、『分かるかもしれない』という可能性が生まれたからこそ、芽生えた恐怖もどこかにある。
──霜天商会の一員として、十年何食わぬ顔でここにいた俺が、もしも。
麗華の身元の最有力候補として挙げられているのは、忘れ茉莉花の流通総元締めと目されている紅華娘娘だ。麗華が紅華娘娘に属する暗殺者なのであれば、蓮もそうであった可能性が高い。
もしも己が元々、霜天商会に仇なすために用意された存在であったならば。己の起源が今まで積み重ねてきた時間と相容れないものであったならば。
もしもそんな過去が分かってしまったら、自分は今までと変わることなく、この場に立ち続けることができるのだろうか。
「蓮」
そんなことを胸中で思い悩んでいた瞬間。
ふと、変わることのない静かな声が蓮を呼んだ。
「僕からも、質問いい?」
その問いかけに、蓮は自然と麗華に視線を落としていた。蓮がようやく己に視線を向けたことが嬉しかったのだろう。蓮と視線が合った瞬間、麗華の目元がわずかに緩む。
だがそれは一瞬のことで、瞬きをひとつした後の麗華はいつかのように酷く真剣な眼差しを蓮に向けていた。
「どうしてあの場で、僕と手合わせをしてもいいって思ったの?」
「どうしてって……」
麗華から向けられた問いの意図が分からず、蓮は思わずキョトリと目を瞬かせる。
そんな蓮の態度に焦れることなく、麗華は真剣な表情のまま言葉を重ねた。
「あの場は、婚礼の時の護衛役を選抜する場、だったんでしょう?」
「そうだな」
「そこで実力を示して、注目されたら、僕を一員に加えなきゃいけない。いいの?」
「いいも何も……」
元々、最初から麗華の名前は護衛部隊の中に入っていた。
嫁入当日も監視の目を外すわけにはいかない。ならば蓮の傍に置いておいた方が良いというのが理由のひとつ。そして何より、麗華ほどの腕前を有事に際して秘匿しておいても損しかないというのが最大の理由だ。
初期の編成でも蓮の補佐役として傍に置くつもりだったし、そのことに他の面々から異論が出ることもなかった。今も蓮の中で麗華の抜擢に変更はない。
「僕は、正体不明の、暗殺者なんだよ?」
だがどうやら麗華は己という存在をそんな風には捉えていないようだった。
「僕に、字を教えるっていうのも、そう」
麗華の思わぬ物言いに、蓮は言葉に詰まったまま目を見開く。
そんな蓮をどう捉えているのか、麗華はわずかに顔をしかめると蓮の方へ身を乗り出した。
「僕は、字を読めないままの方が、いいんじゃないの? だって霜天商会は、大事なことほど、書いて残しておくんでしょう?」
──字が読めるようになれば、商会の機密情報を探ることが容易になるから……か。
麗華の立ち位置は蓮に近い。そして蓮は大兄として……『黒』の頭として商会の中核に立っている。
今のままの麗華ならば、傍に置いていても機密情報が漏れることはない。だが字の読み書きができるようになれば、いくらでも機密情報を盗み見る機会はある。
麗華が言いたいのは、そういうことなのだろう。
「何で、……何でそんなに、僕に良くしてくれるの?」
蓮の顔に納得が広がるのを見て取ったのだろう。クシャリと顔を歪めた麗華は、頭から被いた衣を握りしめ、ゆっくりと顔をうつむけていく。
そんな麗華を慰めるかのように、また風がそよいだ。宵闇を招き入れるかのように徐々に強くなっていく風に、意図せず揃いになっている麗華と蓮の外衣が同じ強さではためく。
その様を見るともなく見ていた蓮は、言葉を探すように細く吐いていた息を止めると、代わりに言葉を紡いだ。
「別に、お前だから、特別良くしているわけじゃない」
蓮の言葉に、麗華の細い肩がピクリと揺れた。だが相変わらずうつむいた顔が上がる気配はない。
「うちに拾われたヤツは、みんな同じように扱われる。俺も、芙蓉も、他の連中も、等しくそう扱われてきた」
「でも、僕は」
「暗殺者だろうが、お前の元所属の最有力候補が紅華娘娘だろうが関係ねぇよ」
カマをかけるつもりで踏み込んだ発言をしてやれば、バッと麗華は弾かれたように顔を上げる。その顔に見える動揺は、初めて知った事実に戸惑うものではなく、知られていたこと、今それに言及されたことへの驚きによるものだ。
──やたらそこに喰い付くと思ったら。
誰か口が軽い人間がうっかりこぼしたのか。あるいはこの十日の間に思い出すことがあったのか。どうやら麗華は己が珊譚から来たということだけではなく、紅華娘娘に属していたということまで把握していたらしい。
「じゃあ、逆に訊くが」
その事実を踏まえた上で、蓮は己が疑問に思ってきたことを口にした。
「なぜお前は、俺に懐く?」
麗華は確実に霜天商会と紅華娘娘の仲が険悪であることを知っている。そうでなければ、麗華がここまで頑なに己を異質物だと意識することはなかったはずだ。
それならばそれで、蓮には麗華の振る舞いに腑に落ちない部分がある。
「自分が霜天商会に馴染むべき人間ではないと思っているなら、霜天商会の武力の頂点に立つ俺は、当然警戒すべき対象だろ」
麗華は今を生き延びるために、今置かれている環境下で最適の道を選ぶと言っていた。それが商会に従う道であるから、商会には逆らわないし、商会の命令に従うとも口にした。『黒』の人間に馴染んで仕事をこなしているのも、周囲に殺意を撒き散らすことなく大人しくしているのも、その理念に則った行動だ。
だが麗華が蓮に向けている信頼は、それだけで語るには行き過ぎたものがあると蓮は思う。不必要なものと言うべきか。……とにかく、麗華が口にした根底からは逸脱した感情に思えて仕方がない。
その疑問を、蓮は率直に麗華へぶつける。
そんな蓮の問いに一瞬目を丸くした麗華は、次いで蓮を見つめたまま柔らかく笑み崩れた。
「だって、蓮は、僕を、拾ってくれたから」
その無垢な笑みに、蓮は一瞬言葉を失う。
だが幇主としての蓮はこんな時でも頭の中に残っていて、言葉を失うただの『蓮』とは裏腹に冷静に反論を口にした。
「それは」
「『黒』としての義務が、あったのだとしても」
そんな幇主としての蓮の言葉までをも、麗華は柔らかな笑みとともに奪っていく。
「危険性の有無だけ確かめて、捨て置くことはできた。でも蓮は、僕を拾って、着替えさせて、温かい場所に、寝かせてくれた」
ひとつひとつ、大切に言葉を紡ぐ麗華は、春の日だまりを思わせるような顔をしていた。
両手に掬い上げた至上の宝を蓮へ差し出すかのような。そんな空気を湛えたまま、麗華は真っ直ぐに蓮を見上げて言葉を続ける。
「僕の中で、それは十分に奇跡で、恩。蓮は、わざわざ、僕の命を、助けてくれた。その後も、色々、助けてくれた。それが、僕達が身を置く世界では、『異質』、であることを、僕は知ってる」
視線を蓮から逸らさないまま、麗華は握りしめていた外衣から指を離した。自由になった両手を胸元に添え、静かで迷いのない声で麗華は言葉を紡ぎ続ける。
「蓮と一緒にいると、ここがポカポカ温かくなる」
そんな麗華に、蓮は今度こそ全ての言葉を失った。
「だから僕は、蓮の傍にいたい。蓮の傍は、温かい」
──そんな、こと……
今まで、言われたことなど、なかった。
頼りになる、と言われたことはある。己でもそうあれるよう努力してきた。そうやって信頼を置いてもらえることが嬉しかった。
だがどちらかと言えば、蓮の傍らという場所は緊張感が張り詰めた場所であるらしい。『背筋が伸びる』やら『身が引き締まる』やらという感想は、『温かい』とは真逆に近い意味を持っているはずだ。
「命の恩人を信頼するのは、変なこと? 傍にいたいと願うのは、変なこと?」
だというのに麗華は、迷うことなく『温かい』という言葉を口にした。口数が多くない麗華が口にしたからこそ、それが素直な思いなのだということがよく分かる。
「そ、れは……」
蓮の問いに自分の思いを素直にさらけ出した麗華は、蓮からの返事を待つかのようにジッと蓮を見上げていた。星々の煌めきが散った夜空のような瞳の中に、今は蓮だけが映り込んでいる。
その瞳が、万人に尊ばれる宝玉よりも、満点の星々が輝く本物の夜空よりも、美しいと思えた。
同時に、ハッと我に返った蓮は、己がそんなことを思ったという事実に顔が火照るのを自覚する。
「蓮?」
蓮の顔色の変化を敏感に察知したのだろう。
蓮を見上げていた麗華は、目を瞬かせるとコテリと首を傾げた。麗華から純粋な疑問の視線を受けた蓮は、その視線を遮るように腕を上げながらそっと視線を逸らす。
「と、とにかく。お前があれこれ気にする必要性はねぇから」
手の甲で口元を隠したついでに外衣で麗華の視線を遮った蓮は、なるべく動揺を声に出さないように気を付けながら言葉を口にした。動揺を押さえつけるために普段よりも低くなった声を『不機嫌』と捉えたのか、麗華の肩がビクリと跳ねる。
「お前が俺に拾われる前に何者であったとしても、今のお前はもう霜天商会の麗華だ。俺達は良くも悪くもお前をそう扱う」
予期せぬ感情の揺れと、予期せず麗華に与えてしまった誤解に空回る内心を持て余したまま、蓮は慌てて言葉をまくし立てる。
その瞬間、蓮は己の言葉にハッと我に返った。
『お前が俺に拾われる前に何者であったとしても……』
──そうか、俺だって。
たとえこれから、白紙だと思っていた己の過去に向き合うことになっても。その結果、過去の己が霜天商会に仇なすために用意されていた存在だったのだと判明しても。
今の蓮は、すでに霜天商会の蓮だ。蓮がそうありたいと望み続ける限り、蓮はその場所に、自らの意志で立っていられる。過去と向き合った上で、強く望み、行動し続ける限り。
──グダグダ悩んでいたことへの答えは、もうすでに俺の中にあったんだな。
そんなことを思った瞬間、麗華の視線を遮るために上げられていた腕はパタリと自然に落ちていた。開けた視界の先では、麗華が目を丸くして蓮のことを見上げている。
さっきまでの自分もきっと、今の麗華のような表情をしていたのだろうなと思った瞬間、蓮は気が抜けたような笑い声を上げていた。
「そもそも、何か悪巧みを考えてるような人間が、『護衛役に加えるようなことになっていいのか』だの『字は読めないままの方がいいんじゃないか』だのド直球で言うわけねぇだろ」
「ちょっ……と、蓮! 僕は、真剣に……っ!」
「俺がいいって言ってんだ」
突然噴き出した蓮にさらに目を丸くした麗華は、グッと両手を握りしめると真剣な顔で蓮に突っかかる。
そんな麗華の頭に手を置き、ポンポンッと軽く撫でながら、蓮は砕けた笑みを麗華に向けた。
「読み書きは商会に身を置くにあたって必須で、お前の腕を使わずにおくにはもったいない」
蓮に頭を撫でられたことで、外衣がズレたのだろう。小さく悲鳴を上げた麗華は、蓮の手と入れ違うように己の頭に両手を置いた。
そのままの状態で蓮を見上げた麗華は、何かに目を奪われたかのように目を見開く。
「お前の腕を商会のために使ってもらう対価として、俺が読み書きを教える。それでいいじゃねぇか」
周囲はすでにとっぷりと宵闇に呑み込まれている。空の茜色も、いつの間にか淡い藍色に塗り替えられようとしていた。いくら蓮の夜目が効いても、今の時間帯は見通しが効かない。
だからきっと、麗華の瞳の中に映り込んだ蓮がいつになく柔らかな表情をしていたように思えたのは、見間違いだろう。
「……うん」
その瞳が、不意に柔らかく狭められた。
「蓮が、……他でもなく、蓮が、そう言ってくれるなら」
小さく震えた唇が、言葉を紡ぎながら、瞳と同じ弧を描く。
「それでいいと、僕も思えるよ」
その柔らかな声に、蓮の唇も同じ弧を描く。
麗華の瞳に映り込んだ己の姿が見えなくても、なぜか蓮にはそのことが分かったような気がした。