弐
「十日後、霜天商会から花嫁が出立する」
蓮が前を見据えたまま口火を切ると、傍らを歩く麗華は首を傾げた。
「花嫁?」
「『紅』に所属してる人間と、商会と取引がある都の商家の主の結婚が決まっててな」
麗華の様子からして、麗華を蓮の執務室へ送り出した鼓条は事情を説明していない。ならば自分の口からこれから何をするのか軽く説明しておくべきだろうと判断した蓮は、何と説明すれば分かりやすいのかと考えながら言葉を続ける。
「話が出たのは、もう一年半近く前か。日程の調整とか、諸々の準備とか、やっとこさ支度が整ったって話だ」
「身請け話、ってこと?」
「あー、ちょっとそれだと、意味合いが違うっつーか……」
正確に状況を言い表す言葉が見つからず、蓮は言葉を探して視線を宙へ彷徨わせる。その先は自然と前を歩く金櫻に向けられたが、蓮よりもこの手の話題に詳しいはずである金櫻がその視線に応えようとする気配はない。
「まず根本的に、『紅』に属している人間は身売りされて商会にやってきたわけじゃねぇんだ。だから『紅』の人間は商会に対して金銭的な負い目があるわけじゃない。つまり、商会から花嫁が出立することになっても、商会に金銭的な益が出るわけじゃない」
ひとまず霜天商会の『紅』に属する者達と世間一般の妓楼に属する娼妓達の違いを説明した蓮は、言葉を発している間に見つけた言葉を口にした。
「あぁ、だから『身請け話』って言うよりも『政略結婚』の方が近いんじゃねぇか?」
「政略結婚?」
「そう。霜天商会と、嫁ぎ先の縁を取り持つために、婚姻を結ぶんだ」
霜天商会に属する人間は、大抵の者が身内らしい身内を持っていない。自分の来歴さえ分かっていない者もいる。
そんな自分達にとって、商会は職場である以上に『家』で、商会の面々は仕事仲間以上に『家族』だ。
商会に属する人間に絡む縁は、そのまま商会に絡む縁となる。婚姻はその最たるものだ。商会の毒花としての役割を担う『紅』の人間の婚姻ともなれば、そこから生まれる縁は一般的な家同志の婚姻となんら変わりはない。
だからこそ会長と三人の幇主は、商会の面々に絡む色恋沙汰には目を光らせている。商会と外の人間だけではなく、商会内部の人間同士の場合も同様だ。
──何せどいつもこいつも『一般人』とはかけ離れた技を持ち合わせてるからな、商会の人間は。
『紅』に属する人間は、その身と技で相手を魅了し、商会の利を引き出す者。
『黒』に属する人間は、その身と技で相手をねじ伏せ、商会を守護する者。
『白』に属する人間は、その身と知識で相手と渡り合い、商会を盛り立てる者。
それぞれがそれぞれの技を悪意を以て身内へ振るえば、商会はあっという間に瓦解する。そこに色恋沙汰が絡めばもはや誰の手にも負えない。
だからこそ自分達はそれぞれの部下に『遊び』での色恋を強く禁じている。一夜の戯れはもちろんのこと、利を引き出すための色仕掛け、暴力による関係の強要、謀略の対価、その全てを見つけ次第、幇主としての責務に則り相応の処罰を与えている。
ただし、そこにあるのが遊びではなく本気で純粋な感情ならば、その限りではない。
「ま、その『政略結婚』も、きちんと当人達の気持ちがあってこそであって、商会側から強制することはないな」
「え?」
蓮の言葉に麗華は顔を跳ね上げる。どうやら麗華は『政略結婚』という言葉から商会の利害関係が強く出る代物だと認識していたらしい。
──まぁ、普通に考えればそう思うわな。
他の商会ならば、間違いなくそうなるだろう。
だがそうはならない霜天商会の在り方を、蓮は好ましいものだと思っている。
「あえて婚姻って形で縁を取り持たなくても商会はやっていけるし、役目を退いた人間の世話だってきちんと見てやれる。利が見えても不幸せを招くような結婚は、游稔も俺達も認めやしねぇよ」
商会の仲間と想い人が、互いに本当に打算抜きで想い合っているならば。先方の地位や財産は関係なく、その先に互いの幸せな生活が見えるのならば。
商会は『家族』として、仲間が心底望んだ縁を祝福する。嫁ぐために仲間が任を降りることになれば商会が実家として役割を担って送り出し、先方が仲間の元に嫁してくる形になれば盛大に婚姻の祝宴を開く。それが商会の慣例だ。
「今回の縁談は、先方が熱烈に桂花……嫁ぐことになったやつを口説いて口説いて口説き落とした形だな」
「桂花さんも、最初から鳳健さんのことは憎からず思ってたみたいですよっ」
振り返った金櫻が蓮の説明に軽やかに言葉を添える。蓮が説明を求めた時には知らん顔をしていたくせに、今の金櫻は楽しそうに目を煌めかせていた。
「少主、つまり私達の結婚は、純粋な恋愛結婚なんですっ」
「恋愛、結婚」
「それも、成就する話はどれもすべからく大恋愛を経た末になんですよぉ! はぁぁ、憧れちゃいますぅっ!!」
金櫻の言葉に対してなのか、あるいは勢いに対してなのか、麗華は被いた衣の下で小さく目を見開いたようだった。
そんな麗華の頭にポンッと一度手を添えてから、蓮は脇道に逸れた話題を本筋へ引き戻す。
「属してる社会は特殊かもしんねぇけど、そこで生きてる人間は一般社会で生きてる人間と変わらねぇただの『人間』だ。心があれば、想いを通わせることだってある」
商会が抱える『毒花』達は、自分の魅せ方をよく分かっている。一時の戯れを越えて毒花にのめり込む人間は多いが、自分達の価値が分かっているからこそ『紅』の花達はそういった感情のあしらい方をよく心得ている。
それを越えて想い合った相手と添い遂げられる道が生まれた時、毒花は己の毒を解き、愛しい相手にのみ笑みかけるただの花に戻る。
「で、だ。出立する花嫁には、嫁ぎ先に着くまで『黒』から護衛がつけられる」
話題がいよいよ本題に近付いていると察したのだろう。未知の話題に目を瞬かせていた麗華は蓮の言葉を受けて表情を改める。
「それ自体はいつものことなんだが、今回はちょっと姻寧の中が騒々しい。だから護衛の選抜には念を入れたいって話になった」
祝宴に街が浮き立つ瞬間を、霜天商会に悪意を持つ存在は決して見逃しはしないだろう。ましてや商会としてはどんなケチもつけられたくない、とっておきのハレの場でもある。あんな形で宣戦布告をしてきた敵が大人しくしているとは思えない。
「このゴタゴタにメドがつくまで嫁入りを延期させたいってのが、会長と三幇主の本音なんだが。とはいえ、ここまでこぎつけんのにすでに一年半かかってんだ。具体的なメドが立たねぇ状況でそんな悠長なことは言ってらんねぇわな」
『紅』から花嫁が出立する際には、黒城の正門から花轎が出立する。嫁入り先まで花嫁を送り届けるのは『黒』の人間の役目だ。そしてその編成の決定権は蓮にある。
「一度俺の方で編成は考えたし、内容は游稔や他の幇主にも伝えてある。だがこの間の事態を受けて、念には念を入れた方がいいって話になってな」
蓮が言葉を紡ぎ終わった瞬間、一行は中庭に繋がる回廊に足を踏み入れていた。表間と裏の間に位置する中庭には、いかにもガラが悪そうな人間が集まっている。
中庭と一口に言っても、実態は馬の手入れや『黒』の人間の手合わせに使われているような場所だ。
十分に広さはあるが、単体でも圧がある男どもが三々五々にたむろっていると妙に息苦しい。今はそれに加えて回廊のそこかしこに『紅』の女達の姿も見える。何か事が起きる前特有の緊張と期待にピリついた空気が中庭には充満していた。
「一回きっちり全員に手合わせをさせて、今の実力を確かめた方がいいんじゃねぇかって話になった。それが『選抜会』のあらましだな」
蓮は片手で麗華をその場に留めると、同じ手をヒラリと上げた。
たったそれだけで場にいる人間の意識が蓮に集中する。
「待たせたな。状況は事前に通達が行ってる通りだ」
回廊の階段を降りきった蓮は、緩く腕を組むと中庭に集まった『黒』の面々を見回した。南北の門の警備と街中哨戒に出ている班があるから全員とは言えないが、手が空いている人間はおおよそ全員が集合している。
「進行はそれぞれの班の頭に任せる。分からねぇことは早めにそれぞれの上役に訊いとけ。怪我をしねぇように、させねぇようにだけ気を付けろ」
蓮が手短に言葉を投げると、集った面々はそれぞれ気合いの入った声を上げた。
『選抜会』と呼ばれている手合わせは、姻寧で大きな行事が行われる前に開かれる恒例行事だ。
『黒』に属する人間はおおよそ六十人。普段は五人一組の班に分かれて業務に就いている。
その面々をひと所に集め、班の区分を取っ払って手合わせをさせることで実力を測り、同時に普段属している班の面々よりも相性が良さそうな人間がいないかを量る場がこの選抜会だ。護衛役への抜擢を機に班の再編成が行われることも多い。
──あいつらの働きには目を配ってるつもりだが、やっぱり全員をまんべんなく見てやれてるってわけじゃねぇからな。
集った面々にいつになく気合いが入っているのも、『紅』の綺麗どころが見物に来ているからというよりも、蓮が自分達の手合わせを見てくれるという部分の方が大きいのだろう。部下達から向けられ続ける熱視線を感じた蓮は、思わず顔に苦笑を広げる。
「ねぇねぇ、蓮幇主!」
そんな中、華やかな声が不意に蓮を呼んだ。
「『黒』の皆さんの実力を確かめるっていうのも大切だけど、もっと大切なことがあると思いません?」
回廊の上から己に投げかけられた言葉に、蓮は胡乱げな視線を投げる。そんな蓮からの視線にも物怖じしない金櫻は、無垢で愛嬌たっぷりな笑みを蓮から己の傍らに向け直した。
その先にいるのは、麗華だ。
「今ここに集った皆さんが一番確かめたいのって、麗華少主の実力なんじゃないですか?」
金櫻のよく通る声は、中庭に集った人間の耳目を集めたらしい。サワリと、戸惑いと好奇心、何より同意を含んだざわめきが中庭全体に広がる。
対していきなり指名を受けた麗華は、密かに戸惑っているようだった。頭から被いた蓮の外衣をすがるように握りしめた麗華は、ざわめきにかき消されそうなほど細い声を上げる。
「……僕?」
──まぁ、一理あると言えばあるが。
「……そもそも、その『少主』っていう呼称が何なんだよ」
内心で同意を呟きながらも、蓮はひとまず金櫻を振り返って本筋から外れた問いを投げた。
その言葉から金櫻は蓮が答えあぐねていると受け取ったのだろう。無邪気を装いながらも艶やかさが隠しきれていない笑みを浮かべた金櫻は、回廊の手すりから身を乗り出しながら蓮に答える。
「『幇主』が一目置いてて傍にも置いてるなら、『少主』って呼び名はピッタリだと思いませんか?」
──その呼び名がすでにある程度浸透してるってことは、他の面々も同じように思ってるってことか。
確かに蓮は麗華に一目置いている。監視の必要もあるから、傍にも置いている。
ただそういった事情を知らない人間からしてみれば、麗華はいきなり大兄の寵を得た正体不明の新参者だ。不信感を募らせる者もいれば、面白く思わない者もいるだろう。この場合、麗華の容姿が酷く整っていることが災いして『大兄に色香で取り入った』とあらぬ陰口を叩かれる可能性もある。
──一度きっちり実力を示すことも重要ってことか。
そしてこの場は、何よりもその舞台にふさわしい。
金櫻が言いたいのは、つまりそういうことだろう。
「やるか? 麗華」
ゆったり息を吸い込み、吐き出す間に結論を出した蓮は、真っ直ぐに麗華を見上げると問いを投げた。その言葉にピクリと肩を揺らした麗華は、戸惑いを載せた視線を蓮に返す。
「俺が相手なら、お前も思いっきりやれるだろ」
添えられた蓮の言葉を受けた後も、麗華はしばらく瞳を躊躇いに揺らしていた。そんな麗華の返答を急かすかのように、中庭に詰めた人間が息を詰めて麗華を見つめているのが分かる。
「いい、の?」
呼吸数回分の間を置いてから、麗華は囁くように言葉をこぼした。
「僕も、手合わせ、……してもいいの?」
「お前がやってもいいならな」
──執務室でもやったな、このやり取り。
そんな麗華の様子に苦笑をこぼしながら、蓮は片手を麗華へ差し出した。
「来いよ、麗華」
差し伸べられた蓮の手に、麗華が一瞬目を見開く。
だが一瞬だけ浮かんだ驚きの念はすぐに消えた。キュッと一度外衣を強く握りしめた麗華は、そこから指を解くと蓮の方へ手を伸ばしながら階段を降りていく。
階段を降りきる直前、フワリと麗華の手は蓮の手に重なった。蓮の手よりもひと回りもふた回りも小さな手は、あの雨夜に麗華を拾った時と同じくヒヤリと冷たい。
その指が、今は被いた外衣ではなく、蓮の指をキュッと握りしめる。
「お手柔らかに、お願いします」
「どちらかっつーと、それを言わなきゃなんねぇのは俺の方かもな」
その手を無意識のうちに握り返しながら、蓮は丸く人気がはけた広場の中央にまで麗華を誘っていった。