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 (れん)と呼ばれている男は、雨が嫌いだった。


 どんな雨でも嫌いだが、細く針のような雨が(なめ)らかに降ってくる宵なんて最悪だ。


 サァサァという細い雨の音はいつも、蓮の心の中に言葉にしがたい寂寥感(せきりょうかん)を呼び起こす。自分は決して、そんな風情が分かるような性格をしていないはずなのに。


 ──きっと自分は、無くしてしまった記憶の中に、この雨の音を抱えているのだろう。


 それもきっと、例えようもなく最悪な記憶とともに、だ。


 そんなことを不意に思ったのは、まさしくそんな雨が降る宵の中を歩いていたせいなのか。


 あるいは、そんな景色の中を行く自分の視界の先に、不穏な影を見つけてしまったからなのか。


「……」


 ──人?


 己の(ねぐら)がある地区へと続く、下町街の細い通路の先。剥き出しの地面に薄く不規則な波紋が揺らめく中に()()は転がっていた。


 生地を幾重にも重ねた衣を纏った、人の形のような何か。


 雨の宵口の下町街にまともな光源など何もない。夜目が利く蓮をしてでも、十歩以上ある間合いの先から()()の詳細を知ることはできない。


 ──血と……甘ったるい、何か。


 スンッと鼻を鳴らすと、この雨でも誤魔化しきれない不穏な香りがした。その香りを放っているのがあの影であることは直感で分かる。この距離でこれだけ香るならば、当人は一体どれだけ濃くこの香りを纏っているのだろうか。


 一瞬、このまま引き返すべきかと考えた。このまま職場にでも取って返し、知らぬ存ぜぬを通して一夜を明かせば、自分は何も知らないままこの日常の延長線を生きていける。


 そんな予感がした。


 それなのに、止まっていた足は、意思とは反対に前へ出ている。


「……なぁ、お前さ」


 (ささや)くように落とした声は、きっと(くだん)の影には届いていない。そもそも、その影が正しく人なのか、人であっても生きているのか、蓮には分からない。


 それでも蓮は、前へ進みながら囁くことをやめなかった。


「まだ、生きていたい?」


 雨が作り出す波紋の中に、蓮が生み出す新たな波紋が加わっていく。その不協和音を意識の端で感じながら、蓮は()()の前で足を止めた。


「生き続ければきっと、今死ぬ以上の地獄を見るぜ」


 それでも生きたいかと、蓮は言葉を落とす。


 ちょうど蓮の爪先に迫った影は、やはり人だった。纏っている豪奢な布地は、形状からして真紅の花嫁装束か。全てが闇に沈んだ中では判別できないが、どうあれここまで血なまぐさく、泥水にもまみれてしまっているのだ。まともな色合いはもはや期待できないだろう。


 そんな、意味を失った布地の中。


 紅蓋頭であろう布地の下からわずかに覗いた人肌の内、かろうじて横顔だと分かる場所が、わずかに動いたような気がした。それが己の勘違いでないかを確かめるために、蓮は紅の傘の下から己の体がはみ出さないように気を付けながらその場にしゃがみ込む。


「……たい」


 鉄錆に似た生臭いにおいと、相反するかのように甘く香るにおいが、一際強く蓮の鼻をつく。


 そんな空気の中に、(かす)れた声が落ちていた。


「あい、たい」


『生きたい』でもなく。『死にたい』でもなく。


「会いたい……ね」


 己に限って聞き間違いなどないだろう。こんな時、人よりも鋭敏な己の五感が憎くもある。


 蓮は膝を伸ばして立ち上がると、小さく溜め息をこぼした。今の発言で最後の力を使い切ったのか、目の前にくずおれた人物からはもはや反応のひとつもない。


「それは『生きたい』よりも、『死にたい』よりも、難儀な願いだな」


 サァサァと、雨が降る中に。


 妙に実感が込められた蓮の独白は、(にじ)むように溶けていった。


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