ガンダム と Z、ZZ 逆襲のシャア と それ以降のガンダムとかについていろいろ思うこと(追加、改訂版)
2025/8/22
ジークアクスとそれに伴う形でユニコーン ガンダムXについても追加
・はじめに
みなさんは、ガンダム、好きですか? 僕はそれはもう大好きです。小さいころ、親が放映時間が重なっていた某サッカー漫画よりこっちを見たかったせいで、すっかりそういう系に育って、親が「サッカー漫画見せておけば、性格変わったかしら」と後悔するほどに。
ところで、ガンダムを語る上で欠かせないのは原作者である富野 由悠季氏ですが、ファンとしてはガンダム、特にZから逆襲のシャア辺りをご本人が否定的に見ている様子は時々気になったりします。
それはご本人の問題なので他人がどうこう言うべき内容ではないのですが、それでも他人の立場で分かったようなつもりになったので駄文として書き連ねます。
異論は当然ですし真実はご本人の中にしかないことを他者が推測で書き連ねるのは愚行としか言いようがありません。独りよがりもいいところでしかも多分この手のネタはものすごいもう何番煎じぐらいだろうとも思います。
それでもあえて、文章の形にして晒してみたい。動機はそれだけです。
それだけの内容にでもお付き合いくださる方はここから数分ほどお時間をいただければ。
・まずは『機動戦士ガンダム』とはどうだっけ?
機動戦士ガンダムの内容をまずは確認させてください。この話は戦争に巻き込まれた少年少女たちが、やむを得ず戦場に立ち、やがて主人公のアムロはパイロットとしても少年としても成長して、さらに一つ上の新たな人としてのステージと定義された『ニュータイプ』となりました。
結果、言葉の齟齬なく意志を直接伝え合えれば人は分かり合えるという境地に至りながら、出会う時期を誤ったため同じ境地の少女、ララァを手にかける結果となる。それでもやはりコアファイターによる脱出のラストシーンも含め、最後は『意志を直接伝え合えればいつか人は分かり合える。いや、長い時間をかけていつかそうやってみんなが分かり合える日が来るんだ。』というメッセージで終わる話だと、私はそう理解しています。
・Zガンダム と 劇場版Zガンダム について
富野氏(以後名前略)がガンダムを否定的に語る中で最初に違和感を感じたのは、劇場版Zガンダムの最後の場面。ここはTVではもっとカミーユに苛烈な言葉を言わせて、シロッコの行動をを真向否定するシーンです。
がここでのカミーユの言葉も、意志としてカミーユに力を貸す皆のシロッコへの否定的な感情も劇場版では緩和されています。同様にカミーユの、ハマーンへの台詞「暗黒の世界へ帰れ!!」も無くなってしまいました。
そう、そもそもTV版ではカミーユも、シロッコも、ハマーンも互いに互いを否定する台詞を吐いていたわけです。意思を直接伝えあえるニュータイプでありながら。
シロッコも、ハマーンもZガンダムでは悪役の立場です。その彼らがニュータイプでありながら他者を否定し、分かりあいを拒絶する。これはまだしも、TV版では主役のカミーユさえ悪役の二人を否定し、分かりあいを拒絶してるわけです。
これ自体は「ガンダム」という物語であれば観客としては別に問題ではないと個人的には思ったりしたのですがそれでも富野氏はここを無かったことにしたいと思った。ということは結局Zガンダムの最後は、ガンダムとは逆に『意志を直接伝え合えても人は分かり合えない時は分かり合えない』が結論だったのではと思うのです。
特に互いに拒絶し合ったTV版のカミーユとシロッコは、それぞれ精神が壊れ、或いは戦死します。一方の劇場版のカミーユは他者を拒絶する台詞が無くなったことで精神が壊れる最期を回避させられた、とも言えるのかもしれません。
他にもこの拒絶を表すような台詞がZガンダムにはあります。いずれもハマーンの台詞ですが
「土足で、人の中に入るな!!」
「よくもずけずけと人の中に入る! 恥を知れッ、俗物!!」
私はこれは意志を直接伝えあうこと自体を否定する台詞であり、意志を直接伝え合うことができること、と分かり合うことが出来ること、とは別物なのだと示す台詞なのだとも思いました。
一方でZではアムロは1年戦争後自身をNTのなり損ないと評するが、
これも本質的には「大人になり社会を知ってNTとしての能力を相互理解にオールインできなくなった」ことを指しているのではないかと。
重力の井戸もその比喩。
TV版の作中で明示されることはありませんでしたが、やはりZガンダムとは『意志を直接伝え合えても人は分かり合えない時は分かり合えない』という内容の話だったのだと思うのです。なら何故ガンダムの時のように明示されなかったのか。
それは当たり前です。ガンダムで折角希望的な話をしたのに、次で真向否定してこんな誰も幸せにしない結論を子供も見る番組でそうそう明示などしないでしょう。
Zガンダムはもともとガンダムファンの否定の為に作られた作品だと聞きます。であればその結論の否定も妥当な行為です。
でも劇場版の時の富野氏は、きっとこれそのものを表現すること自体が誰も幸せにしない行為で意味が無く、本人としても否定したい内容だったのだと思うのです。
・ならTV版Zガンダムの衝撃的な最終回とはなんだったのか
Zにおいて、ハマーンは人と分かり合いたいとどこかで思いながら、思春期に受けた心の傷でその一切を拒絶する人間です。一方シロッコは他者に自身への忠誠を誓わせるだけで、その過程で他人の有り様を理解しても、それは他者を動かすための道具として使うだけで、人が分かり合うことに一切の価値を感じない人物です。カミーユは多分自分では言語化できないのでしょうが、彼が二人に感じる怒り、憎悪はその「分かり合い」の拒否に根本があったのだと思います。
カミーユ「お前だ! いつもいつも、脇から見ているだけで、人を弄んで! 分かるはずだ。こういう奴は、生かしておいちゃいけないって! 分かるはずだ。みんな。 みんなには分かるはずだ!」
これがその怒りの極地でしょう。でもどんな理由があったとしても、カミーユはここで自分だけでなく世界からのシロッコの排除を望んだ。彼は確かに善性の欠けた人間でしたが、そんな人間と世界は分かり合う必要がないと排除の理論を選んだ。死んだ人々は彼の意見に同調し、同様にシロッコを非難する。そして排除されたシロッコは復讐としてカミーユの精神を壊してしまったのだと思うのです。
で、この流れでカツとサラが、シロッコが死ねばシロッコとだって分かり合えると話をするのですが、自分はここは懐疑的です。悪人だって死ねば分かり合えるっていう日本人にありがち思考ですね。ですが最後まで排除された誰かが、死んで意志を完全に通じ合える場所に来ても、ここで突然心を開いたりするものでしょうか? ずっと説得なく排除したのに?
そういう意味ではカミーユの排除の感情を押さえた劇場版の方がここは筋が通るのかもしれません。
でも劇場版において作り直しの意図をはっきり宣言したことでそもそも富野氏は何を間違いだと思ったのか見る側に鮮明になってしまう結果になったとも。
・ご本人から否定されることの多い ZZガンダム という物語
でTV版Zガンダムは相互理解の可否の否定で終わり、続けて始まった続編のZZですが、おそらくこれの序盤が明るいのは、もうこの時点でZの最後の結論自体から目を背けて、誰もが明るくなるような、エルガイムみたいな話がやりたかったのだと思うのです。もうこれ以上この件について考えたくなかったから。
が制作会社の都合で、やはりZの後を追う物語として、雰囲気もZを継承する物語を求められた結果、内容は再びZのように陰鬱な方向となり、そんな中で富野氏ももう一度Zで得た結論と向き合う必要が出た。そうして深化させた思考の結果が「重力下のプルツー」におけるプルとプルツーの一連の会話だと思います。
プルツー「またお前か。不愉快なやつが!」
プル「当たり前だよ、不愉快なのは……。」
プルツー「な、何だと? 何だ、何を言う?!」
プル「人はね、人間はね、自分を見るのが不愉快なのよ、でもね、どんなに不愉快でもどんなに憎くっても自分自身を殺すことも、自分自身をやめることもできないのよ!」
プルツー「何を言ってんだ、お前は?!」
プル「私は貴女、貴女は私なのよ!! 貴女は、私の一等激しい所を持った人でしょ? 私は、エルピー・プル!!」
プルツー「私はプルツーだ……私は、プルツーだっ!!」
プル「私よ、死ねーっ!」
クローンニュータイプであり双子以上に同一存在として生まれた二人が、意志を直接伝えあえてもそれでも向いている方向ゆえに、互いの中に自分の嫌悪する場所を見て、憎み合い殺し合う。
こうして見るとZの最後の『意志を直接伝え合えても人は分かり合えない時は分かり合えない』のどん詰まりともいうべきシーンです。そう、全く同じ人間であるはずの二人が、意志を直接伝えても互いに否定し殺し合う状況です。これ以上の「人と人は分かり合える」の否定はないでしょう。
それでも結局ZZの最後は、ジュドーとハマーンとの対決で幕を閉じ、最後意志を伝え合い、それで殺し合っても、ハマーンには納得のいく最後だった、で終わります。
「帰ってきてよかった……強い子に逢えて……」
このハマーンの台詞とかね。でもこのシーンは、「重力下のプルツー」で思考のどん詰まりに行ってしまった富野氏がここまでの「人は分かり合えるのだろうか」ということを考え続けたこと、それ自体を全て否定して、「分かり合えないことだらけの世の中でももし分かり合えたらそれは幸せなこと。それでいいじゃないか」という着地点にも思えたりするのです。ジュドーに意味があるのはそれでも分かり合う努力を止めないNTであることなのかも。
そしてこのシーンは最終的に分かり合えない相手を完全に排除することで解決しようとしたカミーユの最後の行動のカウンターである回答なのだとも感じたり。最終話カミーユが意識を取り戻したのは、物語がこの新たな回答の実現によって、かつてカミーユが選んだ解決である『他者の排除』という業から赦されたことを象徴しているのかもしれません。
でもだからこそ、この一連の思考の谷の底の底から出た『重力下のプルツー』での結論を含む本作はやはりご本人からしたら許せないのだろうな、とも。そして劇場版Zにおいてカミーユに「分かり合うことの放棄」をさせなかったことによって、その先の事案になる『重力下のプルツー』を含む内容を無かったことにしていい。そう結論付けたのだろうか、と。
・その以後の、逆襲のシャア、そしてF91のカロッゾ、或いは他の富野氏以外のガンダムへの富野氏からの評価 そして一連の『ガンダム』という作品群 について
でこのZZの流れを引き継いだのが逆襲のシャアで、NTというものを体現する能力を発揮しながらそれでも人は分かり合えないことを証明してしまい結果、最悪の結末を迎えたカミーユの姿を目の当たりにして、シャアは、無意識にどこまで行っても、NTとか関係なく愚かな人間全員が分かり合いの重要さを理解することなどできない(この理解こそがシャアとアムロが生身でもみ合うシーンでの『英』)と知り、絶望する側として、一方かつてララァを失ったアムロはそれでも、だからこそ諦めていいという話にはならない側として戦う話ですね。
物語は諦めない側の奮戦により「一瞬でも人類の全てが心を一つにし」、地球を救った。「分かり合えない世の中でも、分かり合えることがあればそれでいいんだ」とガンダムからZZまでの流れを一度まとめます。
以降富野氏の物語で、深く「人は分かり合えるのだろうか」を考えるようなことは表立ってしていません。
これはご本人の「結論は出た。これ以上この件で考えてそれを出して、何か生産的な状況に繋がるだろうか。」という意志と、「NTになって意思を直接伝えて人が誤解を無くしても、それと協和は別の問題だ。ならもういちいち大きく取り上げてNTに拘る理由はない。」という思いだったのかなあと。
それでもやはりそれまでの内容を否定したい感情があったのでしょうか。F91のカロッゾはその行動や発言内容、バッグボーン(妻と子に逃亡された等)などに、どこか他者に分かってもらえない人生を歩む人間の鬱屈が垣間見えます。
まるで『重力下のプルツー』の内容のその以後も思考を続け人を信じられなくなった人間の、その先にあるような感情。バグによる虐殺シーンは、作品で語られるカロッゾのエゴの肥大とは、実はこの鬱屈のずっと行き止まりにある「自分のことを分からないなら全部消えてしまえ」的な思考であったかのようにも感じられます。
さらに既存のガンダム全てを富野氏がターンエーの物語内で「黒歴史(物語では戦いをやめられなかった人類の悲しい歴史の意味)」と言わせるのも、ファンからするとどっちかいうとご本人の作風と遠く見える他者のガンダムをべた褒めするのも、やっぱりかつて作った毒にしかならない結論を内包させた自身の作品を否定したいという話なのかもしれません。
特に「黒歴史」という言葉は宇宙世紀とそれ以外を総括して全て『ガンダム』としていいと許認するものでもありますが、逆にその性質を持って宇宙世紀、特にガンダム~閃光のハサウェイの流れを否定する単語にもなっていると思います。
或いはもうガンダムというタイトルそのものが、かつて劇毒をぶち込んだ今となってはご自身の否定したい過去作であり呪縛=『黒』歴史というニュアンスもあるのだろうか、と。もしそういう感情があるのならそれは、ZZの項で述べたZZを正史とされない流れの先にある気持ちなのだろうかと思いました。
・ではTV版エヴァ とは?
話はもっと飛び火して、TV版エヴァンゲリオン にも触れてみたいと思います。逆襲のシャアにエヴァの監督である庵野秀明氏がスタッフとして参加していた件をご存じの方もいらっしゃると思いますが、TV版エヴァも似たようなテーマを扱っていたように思えるのです。
詳しく言うと、かつて富野氏に師事していた庵野氏の、旧作のエヴァはこの一連のガンダムシリーズの、人間の基本的な欲求における「分かり合いたい。でも分かり合えない」という内容を、ガンダムがやっていた人間全体の規模から「碇シンジ」という、上手に人とコミュニケーションが取れない思春期の少年という個人LVに持って行ってさらに深く掘った話にも見えます。
彼らは最後までニュータイプのような直接他者の意思を感じ取る能力はなく、物語の過程でシンジは初めて分かり合ってくれると思った友人、渚カヲルを敵であるがゆえにその手にかけたりもします。
最後は人類補完計画により全員にそれを歪んだ形で、人が全て一体になるというおぞましい形で達成しようとします。しかしその光景は不気味でとても外からは誰も幸せには見えません。シンジはその醜悪さに気付き補完計画に混ざることを拒否。変容した世界には同様に拒否したアスカと二人だけが残されます。
でもその二人の間にはやはり分かり合えないジレンマは残ります。シンジはそれをまた知って分かってもらえないならいっそと、拒絶するためにアスカの首を絞めますが、結果この世界にただ一人残されるのは嫌だと殺すことも出来ず、そんなシンジの矛盾を相変わらず「気持ち悪い」とアスカは断じる。すごく象徴的なシーンだと思いました。
でやはりここでも「上手でも下手でも根本的に人は分かり合えない。だって同一の者などいないのだから。それでも自分で自分を肯定しようよ(26話)」や「人は分かり合えないし拒絶されると憎くもなる、でも同一になれるわけでもないなら鋭意努力するでいい。(旧劇場版)」という結論にいたっているように私には思えます。
となると結婚して後、『シン』を作ってそれらを無かったことにした庵野氏は、今は眼鏡の美しい奥様に人の中に連れ出されて、それなりに幸せなのかもしれませんね。TV版の最終話同様ここで言う言葉は純粋に「おめでとう!!」がいいんですよねきっと。お幸せに!! (済みません!! 人の幸福を妬んだり憎んだりするわけではないのですが、やはり私は個人としてどこか人の苦しみの中で生み出される作品が好きなようです。ゆるして!!)
ユニコーンとは
次にジークアクスに触れたいのですがまずは話すべきはばならないのは『機動戦士ガンダムUC』の存在です。ユニコーンは、富野氏の「ニュータイプ論への懐疑」とは真逆の方向に進み、サイコフィールドなどでニュータイプの超能力的側面を大幅に強化しました。
これは富野氏の苦悩に対する理解とは正反対の解釈にも感じますが、視聴者は矛盾を感じずにユニコーンを高く評価しているのだと僕は思ってしまいます。
ですがそれが視聴者の望みでありそして富野氏の意向でもあるのかもしれません。
ではジークアクスとは
そんな状況の中で、庵野氏は事情を知る側としてジークアクスは、富野氏が30年以上前から抱えていた「ニュータイプの矛盾」を、より多くの人に理解してもらうための作品として作ったのではないのかとおもったりするのです。
セカイ系による再定義
庵野氏はエヴァで培ったセカイ系の手法を用いて、ニュータイプという概念を再定義しました。従来のニュータイプが「超能力を持つ特別な人間」だったのに対し、ジークアクスは「サイキックなど関係なく分かり合う努力を止めない者がニュータイプ」という新しい定義を提示したのです。
これは富野氏が陥った「超能力があっても分かり合えない」という絶望から脱却する道筋を示しているようにも見えます。
構造の簡略化
富野作品では、分かり合いを信じる者、拒絶する者、諦める者が入り乱れて戦うことで絶望的な結論に至っていました。しかしジークアクスでは、物語の構造を意図的にシンプル化しています。
シロッコやハマーンのような「分かり合いを拒絶する」キャラクターを複数出す必要がないのは、物語のテーマが「分かり合えない者同士の絶望的な戦い」ではなく「分かり合う努力を止めない者こそがニュータイプ」という肯定的な再定義だからです。
シャアはシロッコのように分かり合いを道具としてしか見ない存在として、キシリアはシャアがそうなった理由を担保する存在として描かれているようです。この明確な対比によって、新しいニュータイプ像が際立つ構造になっているように思えます。
ジークアクスの二重性
興味深いことに、ジークアクスは先に触れたユニコーンで拡大解釈されたサイキック能力をベースにした物語という側面もあります。庵野氏は以下のような巧妙な構造を作り上げたのかもしれません:
表面的には:ユニコーンで拡大されたサイキック能力(ゼクノヴァ、時空間移動など)をベースにした物語
深層的には:その強力な能力を持ってしても「分かり合う努力をし続ける意志」こそが本質だという再定義
つまり「ユニコーンのサイキック能力を使って、富野のテーマを、庵野の手法で語り直す」という三重の統合を試みたとも考えられるのです。
ガンダムXという先例
しかし実は、ガンダムXは以下の登場人物配置で、このような構造の再定義は『機動戦士ガンダムX』で既になされていました。
ガロード:ジュドーのような人物でありながらニュータイプではなくニュータイプでなくても努力でヒロインと分かり合おうとする主人公
ティファ:強いニュータイプ能力はあるが、その危険性を自覚し否定的
ジャミル:ニュータイプとしての過去の失敗を反省し、同じ過ちを繰り返させまいとする大人
フロスト兄弟:ニュータイプ幻想に翻弄され、復讐に囚われた存在
これによって「ニュータイプ能力の有無に関係なく、努力と意志で分かり合うことができる」という結論を、ボーイミーツガールの物語で希望的に描いたのです。
ならばジークアクスは、ガンダムXが既に示した解答を、庵野氏のセカイ系的手法でより個人の内面に焦点を当てて再話した作品という見方もできるでしょう。
つまるところ
ジークアクスは、富野由悠季氏が30年以上にわたって苦悩してきた「ニュータイプの矛盾」を、より多くの人に知ってもらうための庵野秀明氏の試みだったのかもしれません。
しかし、この試みには構造的な複雑さがあります。視聴者の多くは富野氏の深い苦悩の背景を知らず、ジークアクスで「初めて」この矛盾が表現されたかのように受け取ってしまう可能性があります。一方で、ユニコーンが強化したサイキック描写も同時に取り入れることで、作品は三重の解釈を要求するようにも。この狙いが真実なら視聴者にはきびしい状況かもしれません。
それでも、庵野氏が富野氏の苦悩を理解し、それを美しい形で表現し直そうとした試み自体は、先輩作家への深い敬意と理解の表れとして評価されるべきでしょう。
ジークアクスは、ガンダムという枠組みの中で「分かり合うとは何か」を問い続けた一人の作家の軌跡を、新しい世代に伝えるための架け橋だったのかも。
・おわりに
結局富野氏は「世の中って何だろう。」ということを作品を通じて考え、ずっと足掻いていたのだろうかと今更思ったりします。
そして結論が「NTがどうより本人の意思次第だ」となるなら、最新の解釈によるジャミトフ=ハイマンは、実は変革を目指す反アースノイド派でありながら、NTの人類的価値を感じない人物でした。なぜなら彼の変革とNTの存在は別の問題で、それはNTの覚醒など関係無く人類が成すべきことだったのですから。なら彼はどこか富野氏の代理人の要素を持っていたのかも?と思い付きで言ってみたり。当人はいつもの様に「そんなこと考える暇があったら行動しろ。」と怒るのかもしれませんけども。
Zガンダムの劇場版の作成に際して富野氏は「TV版でひきこもりを作り出したから話を変えた」という話をしたと聞きます。人は分かり合えない、と言われたら確かに外に出て人と関わるのは怖いです。ガンダムと関係なく私もどちらかというとそちら側ですし。
でもそれでも、苦しくても外に出て、人と心が通じたと思うようなささいなことがあって、互いに幸せだと思えるようなことがあったら、それはそれで、刹那でも本当に幸せなことなんだと。それでいいじゃないか!!
ふとそう思ったりする次第です。最後までありがとうございました。
追記:これを書いたあたりから続けてずっと思っていたことで。
でもこれは誰一人幸せにしない説で、ただ無責任で。
わざわざそんなものをアップする意味なんて何も無いかもだけどそれでも。
誰かの心に届くことを祈って。暗い話を読みたくない方はここでバックを。
改めて読んでいただきありがとうございました。
そもそもこの構図はララアとアムロの間にもあったわけで。
分かり合いたいが対立する側に付いたがゆえに戦う二人。ララアの「出会うのが遅過ぎたのよ。」はこの象徴でもあって。
でもこれらは個人の話だとも言いきれないのではないか?
たとえ人類すべてがNTになり意思を齟齬なく伝え合えたとしても争いは無くならないし、
おそらくそのころには地球より人類が滅んでいて、
旧劇場版エヴァの様に全て一つの個体とならないと解決しないのでは? そういう話。
逆襲のシャアの一節。
「地球は!人間のエゴ全部を飲み込めやしない!」(シャア)
「人間の知恵はそんなもんだって、乗り越えられる!」(アムロ)
「ならば、今すぐ愚民共すべてに叡智をさずけてみせろ!」.
「(そうだ…それができないから…)」(クェス)
「貴様をやってから、そうさせてもらうッ!」(アムロ)
「アムロ!あんたちょっとせこいよ!」(クェス)
僕はこの会話がものすごく重い内容だと思っていて。
以前に先に上げた内容はつまり、人類すべてがNTになっても戦争は無くならないという話。
何故なら戦争が起きるのはコミュニケーションの誤解ではなく、
そもそも人口が多いほど人は皆が同じ価値観に満足して共有することはできない、
が根本だと思うのです。
上記のカミーユやプルのエピソードしかり。
広い価値観、みんなすべて持ちうる価値観に人は満足することはできず、
そんな価値観はやがて空気と化して、
強い価値観、例えば宗教のようなものでようやく満足することができる。
でもそれは人の抱える「群れを作りたい。」という欲求と、
「自分の序列を上にしたい。」という欲求。
本能にも近いこれらのなせる業で。
それ故に群れとしての排除の意思が戦争を生むのだとも。
それは人が手放せるものではなく。
一見これを解決しようとするリベラルも、
結局強い価値観をもって結束を図り、その結果強制と排除の意思を持って新たな争いを生む。
おそらくリベラルで統一されても今度は一般化して強い価値観としての価値を失い、
これを前提に新たな強い価値感が生まれ争う、
でよく言われる、敵がいれば、はそうではなく敵に関係なく分裂の火種は発生していて、
敵の消失によって対立という形でようやく眼に見えるようになるだけなんだなと。
このNT論の矛盾はZの時から発生しているわけで、
劇場版で余計その問題がはっきりしてしまいました。
ジャミトフが考えていた「NT論は関係ない」はそういう話なのかも。
つまり上の逆襲のシャアのセリフを個人的に意訳すると
「地球は!人間のエゴ(=人である限り捨てられない欲望)全部を飲み込めやしない!
(NTになってもカミーユでさえあんな結末を迎えたじゃないか!)」(シャア)
「人間の知恵はそんなもんだって、乗り越えられる!
(乗り越えられるか分からないがそれでも未来に期待しなきゃ
ただ絶望して人が死んでずっと何も変わらず争いだけ繰り返して終わりじゃないか!!)」(アムロ)
「ならば、今すぐ愚民共すべてに叡智をさずけてみせろ!(ならNT論など関係なく、未来永劫皆が争わず協力できる社会を提示して見せろ!!)」.
「(そうだ…それができないから…(NTとか関係なく争いはずっと無くならない。)」(クェス)
「貴様をやってから、そうさせてもらうッ!
(いくら絶望したからってその排除の思考自体が争いの火種にしかならない。
最後に排除を望んだからカミーユはああなってしまったのに。
それがわからないならお前を排除してその後いくらでも皆で考える!!)」(アムロ)
「アムロ!あんたちょっとせこいよ!
(排除の思考を否定しながら自分はシャアを排除するの?)」(クェス)
そして二人がお互いに感じるコンプクッレスの根源もここにあるのでは。
アムロからするとシャアはジオンダイクンという人の革新を唱えた思想家の長男で、
革新を体現するNTの一人でもあり強いカリスマと指導力を備えた英雄にふさわしい人物。戦争の道具として中で模索するしかできない自分より遥かに新しい時代を作れる誰か。
シャアにとってはアムロは親の七光りで半端なNT能力しか持たない自分よりずっと父の理想を体現するにふさわしい存在。
先のシーンは人の側に留まるアムロと人の側と決別するシャアの決裂によるお互いの失望と絶望のシーンだとも。
ここで提示された人故の絶望的な限界。
未来永劫皆が争わず協力できる社会はどうすれば実現するのか、
そもそもそんな世界などあるのか僕にはわかりません
で逆襲のシャアの最後、
そんな未来がどうとかより、今人がそうやって協力して素晴らしい、それでいいじゃないか。
物語はそういう形で終わった。
でもこれは一見きれいだが結論が出ないなら思考的には逃げにも見える結末で締めるしかなかったとも。
逆襲のシャアまでのガンダムは人の本能故の絶望を語りながら、
結果的にそれは解決できないのだと見せつける話だとも言えるわけです。
ならファンごとご本人が嫌うのも当たり前で。
これを解決するにはやはり
人類補完計画の様に物理的に人を一つの存在としてしまっておぞましい解決を図るか、
銀河英雄伝説でヤン=ウェンリーのセリフ、
「恒久的な平和なんて歴史にはなかった。
だが何十年かの平和で豊かな時代は存在した。
要するに私の希望は、たかだかこの先数十年の平和なんだ。
だがそれでも、その1/10の期間の戦乱に勝ること幾万倍だと思う。」
こうして目の前の事象に注力して、根本の解決は可能になるまで
先送りを次の世代に順送りで引き継ぐのが限界なのかも。
どうすればいいんでしょうかね。
頭がパンクしそうなので凡人の僕はとりあえず今日生きることを優先します。
はぁ。
どうでもいい話ですが富野氏へ。
そんなことありうるかは分りませんがもし見ていらっしゃたら。
僕はあなたの嫌いな理系です。
そんな僕が勝手な思考で物語の意図を推察するのは、
お気に召さないかもしれませんが御免なさい。
2025/8/25
でもユニバース25を見ると戦争などなくても同様の形で破滅に向かうように思えるのです……。