時代についていけない私は、ダメな子ですか?
両親が共働きで忙しかった私は、幼い頃、よく祖父母の家に預けられた。
自分の家とはまるで違うあの家が、私は大好きだった。
昭和に建てられた木造家屋は、古くて、そんなに広くはない。
けれど、その古めかしさが、何だか別の世界に迷い込んだ気分で、好きだった。
紅葉の模様が入った磨硝子。
玉石を敷きつめたような、風呂場のタイル。
花柄のホーロー鍋。
家具も皆、古い木の色と艶があって、どっしりした存在感がある。
あの家の、あの空気感が好きだった。
そして、あの家の中に流れる、ゆったりとした“時間”が好きだった。
共働きの両親は、いつも時間に追われていた。
新しくて綺麗だけど、綺麗過ぎて、逆に人間味を感じない家の中で、いつもバタバタ、ピリピリしていた。
だから余計に、祖父母の家のスローな空気が恋しかった。
祖父母の家では、時代が少し止まっている。
テレビはさすがに最近のものだけど、映っているのは、祖父の好きな時代劇ばかり。
そして流れる音楽は、祖母が若かった頃に流行った歌ばかりだった。
けれど、私はそれが嫌ではなかった。
むしろ、それは当たり前のように、自分の中に馴染んでいった。
居間のこたつで宿題をしながら、見るともなしに時代劇を見、聞くともなしに昔の歌を聞いて、自然にそれを吸収していた。
だけど、祖父母の家では当たり前なそれが、クラスメイトたちには全く通じない。共通の話題にできない。
彼女たちが話してくるのは、もっと新しいドラマ、もっと新しい音楽の話題だ。
正直、話についていけなくて戸惑うことが多かった。
新しいもの、今流行っているものを知っておかないと、皆の話に入っていけない。
同じ話題で盛り上がれない――それは、学校生活の中では、結構な死活問題だ。
だから私は自分の家で、新しいものを“勉強”した。
本当は興味も無いのに、調べて、知って、記憶する。まさに“勉強”だ。
おかげで、何とか話題についていけるようになったけど……楽しいわけではなかった。
自分の家では“流行りのもの”を追っていたけれど、祖父母の家では、それをしなかった。
あの家の、古くて心地良い空気を壊してしまいそうで、嫌だったから。
あの家では、むしろ、心のおもむくままに、古いものを漁った。
私が生まれる前の本や雑誌を見つけると、胸がどきどきした。
そこに書かれているのは、私の知らない時代、知らない世界。
今の時代と地続きのはずなのに、まるで異世界の未知の文化に触れているように、胸が躍った。
特に気に入ったのが、祖母が毎月集めていた、昔の婦人向け雑誌だ。
手作りの小物や洋服の特集が組まれた、趣味の雑誌。
そこに載っていたフェルトのマスコットがどうしても欲しくて、祖母にねだったこともある。
小学校も高学年になって、手芸クラブに入ると、雑誌の内容を自分で実践するようになった。
小物作りの手仕事は、エンタメの流行と違って、それほど大きな流行り廃りも無い。
フェルトもビーズもレース糸も、今の時代にも普通にあるものだし、デザインの古さはアレンジで変えていけば良い。
気づけば、どっぷり手芸にハマり込んでいた。
おこづかいで少しずつ、道具や材料を揃えて「今月はあれを作ろう。次はこれを作ろう」と考えるのが、楽しくて仕方がなかった。
手芸に没頭していると、流行のものを追いかけるのが、だんだん面倒になってくる。
私のやりたい手芸は、手間と時間をかけて作る大作ばかり。時間など、いくらあっても足りない。
流行を追う時間があるなら、その分を作業時間に回したかった。
そうして私は、まただんだんと、新しいもの、流行のものから離れていった。
中学までは、正直、話題に困ることもあった。
知らないモノを知っているフリで、何とかやり過ごしたこともある。
だけど高校に入ってからは、学校の中の話題だけでも、何とかやっていけるようになった。
私が、流行最先端の女子グループとは、つるまないようになったせいかも知れない。
自分の好きなものだけを追いかけていられる、居心地の良い生活。
だけど……時々、奇妙な居たたまれなさを感じることがある。
特に、メディアに出て来る同世代の子たちが「自分たちの間で流行っているもの」を語っている時――「私はそれを知らないな」と、置いてけぼりの気持ちになる。
皆が知っているものを、私は知らない。
皆の中では“当たり前”なことが、まだ私にとって“当たり前じゃない”。
まるで、世界の中で、私だけ“ひとりぼっち”みたいで、怖くなる。
興味が無いから、流行を知ろうとしなかった。時代の流れを無視していた。
選んだのは、私自身のはずなのに……。
メディアの中で「この世代には、これが流行っている」と言われたり、「この世代はこういうものだ」と決めつけられると、そこから外れた私は、苦しくなる。
まるで、私が流行遅れで、時代遅れで、“間違ったもの”のようで、怖くなる。
時間の止まった趣味の中に没頭する私は、きっと時代についていけていない。
だけど、やっぱり私には、その時その時の流行を追いかけていくなんて、向いていない。
興味も無いのにチェックして、人気沸騰した動画を話題にしても、数日後にはもう忘れられて、別の動画がバズっている。
流行を覚えても覚えても、キリがない。そもそも覚える意味が無い。
興味の無い人間にとっては、流行の移り変わるスピードが速過ぎて、あまりにも労力が見合わない。
きっと私には、スピードの速過ぎる今の時代が合っていない。
祖父母の家の、あのスローな時間に慣れ過ぎたせいかも知れない。
私は、時間を気にせず手作業に集中しているのが好きだ。
黙々と手を動かしていると、嫌なことも辛いことも、一時、完全に忘れてしまえる。
そうしてひたすら積み上げた時間の果てに、世界にたったひとつのハンドメイドが出来上がる。
その達成感――完成品を手に取り、様々な角度から眺め回す至福の瞬間は、とても一言で表せない。
きっと人の“好きなもの”は、時代や流行りで決まったりはしない。
違う時代や世代のものと出逢って、それを好きになることだってある。
特に流行りでも何でもないものを、ふいに好きになることもある。
自分の“好きなもの”を、時代や世代や流行で縛られたくはない。
……だけど、自分だけ周りと違うと、やっぱり何だか“生きづらさ”を感じる。
“他人と違う自分”を堂々と貫けるほど、私は強い人間じゃない。
今でも、ずっと迷っている。
自分の世界にばかり籠もって、今の時代をちゃんと知らない私は、世間知らずのダメな子だろうか。
だけど、今の時代は情報の量が膨大過ぎて、知りたくても、きっと全てを知り尽くすことはできない。
知ろうと思っても、どこから手をつけたら良いのか分からない。
私は、何を、どこまで知っておけば良いのだろう。
他の皆は、ちゃんとこの時代を、必要なだけ知れているのだろうか。
時代って、流行って、ついていけなければ、ダメなものですか?
私は“ついていけなくても生きていける世界”なら良いと、そんなことを思っている。
無理に時代や流行に合わせなくても良い、自分の好きなペースで良い――そんな世界で、生きていきたい。
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