第91話 神刀ニルヴァーナ
「私を憐れむな。誇り高き山姥は人間を憐れんだりしない」
父が立ち上がった。
その手には刀が握られている。
ドーシャはその刀を知っていた。
神刀ニルヴァーナ。退魔師である九条の家に伝わる神の剣。
「お前は私の過ちだ。あの山姥の顔をして、人間のようなことばかり言う」
アキラがそっと刀を抜き、鞘を捨てた。
雪のように真白き刀身。
救い無き世界に産み落とされた人間に神が与えしただ一つの慈悲。
その剣を抜く意味がドーシャには分かる。
「本気なんだね、お父さん」
かつてドーシャが幼い頃、家にあったその刀に触ろうとして父にひどく怒られたことがある。
神刀ニルヴァーナはあらゆる魔を祓う。
一太刀でいかなる妖怪をも滅ぼす神の剣。残妖であるドーシャには触れることすらできぬ代物だった。
ドーシャもまた包丁を出した。
かつて大天狗が言った。この山姥の包丁は大地の気を持つと。天の気を持つ神刀ニルヴァーナに匹敵すると。
アキラが剣をかまえた。一般的なこの国の剣術とは違う、左手だけで刀を持ち、右手は自由だ。フェンシングに近い。
理由はすぐに分かった。
アキラが真っすぐに突いてくる。
ドーシャはうしろに逃げながら包丁で切り払った。アキラは追ってどんどん斬り込んでくる。
速い。
そう、アキラの剣には速さ以外は不要。力も、急所を狙う必要も無い。この剣は触れるだけで殺せる。だからこその速度だけを求める片手剣。
ドーシャは壁を蹴って部屋の反対側に跳んだ。
「カチカチ山の山火事!」
包丁を握っていないほうの手から炎を放つ。
アキラは自分に向かってくる炎を剣で撫でた。炎がまるで吹き消されるように消えた。
「いかな卑妖術もこの剣には通じない」
かつてアキラはこの剣で狂少女の卑妖術を破り敗北を与えた。
再びドーシャに向かって剣を突く。
ドーシャは左に逃げ、剣は壁に突き刺さった。
今なら剣を振れない、そう思ったドーシャは攻めに転じようとした。しかしアキラはまるで何の抵抗も無いかのように壁を両断しながら剣を振るう。
予想外の動きにドーシャは慌てて包丁で受ける。アキラが剣を押し込むと刃が包丁の刃の上を滑る。
包丁は刃も短いし鍔も無い。切り結ぶには不利すぎた。
ドーシャがうしろに逃げると同時にアキラは剣を振り切った。刃がドーシャの鼻先をかすめる。
視界がぐらつき、ドーシャは床にうずくまった。
頭が痛い。吐き気がする。
かすっただけでドーシャは死にかけていた。
冷たい声が聞こえる。
「まだ死んでいないか。所詮半分だけの残妖」
ドーシャは歯を食いしばって立ち上がった。
「お父さんにもらったその半分のおかげで、私はまだ生きている!」
アキラは顔をしかめた。
「もういい。聞きたくない」
アキラはドーシャの心臓に狙いを定めて真っすぐに剣を突いた。
ドーシャはよけようとしたが、立っているだけで精いっぱいで動けなかった。
剣がドーシャの服を裂き、だがそこで跳ね返された。
「なに?」
アキラが驚愕の声を上げた。
ドーシャは懐に手を入れて、自分を守ったものを引き抜いた。もうひとつの包丁。ライジュの包丁だった。
ドーシャは両手に包丁を持ち、かまえが崩れて浮いてしまった剣の持ち手を浅く斬る。
アキラは剣を手放した。
剣が上に投げられ宙を舞う。
ドーシャは勝ったと思った。
それは油断だった。
アキラは反対の手で宙を舞う剣をつかんだ。全力で振り下ろす。
ドーシャはふたつの包丁で受けた。とっさのことだったが、奇蹟的に間に合った。
包丁がふたつならば受けきれる。
ドーシャは右足でアキラを蹴り倒した。
アキラは部屋にあったイスにぶつかって倒れた。
ドーシャも神刀ニルヴァーナによるダメージが大きくて蹴った反動でバランスを崩し床に倒れる。
ドーシャは起き上がれなかった。
このままでは負けてしまう。
だが、父もまた立ち上がることは無かった。
「無駄だ……」
アキラが弱弱しい声で言った。
「ここで私たちがどうなろうと計画に影響は無い。計画の成否は私が選んだ『死鬼』の8人と、ドーシャの選んだ8人の勝負で決まる。はっきり言って、ドーシャが8人の仲間を用意できるとは思っていなかった。本来はドーシャがここに来た時点で勝負がついていた」
「私も、あんなに味方がいると思わなかった」
「すでに1か所は勝負がついた。『死鬼』からメガネの男を倒したと聞いている」
メガネの男なら村雲ヤクモだ。
「え……はや」
「あと7つ。おそらく頭骨が半分もあれば計画は成就する」
あと2つしか負けられない。
「みんなならきっと勝ってくれる」
すでにひとり負けた奴がいるのはこの際忘れよう。
だがアキラはたしなめるように言った。
「祈ることを間違えている。もしドーシャの仲間が勝ったならば、破綻した残妖絶滅計画が実行され、人間にも残妖にも苦しい時代となる。そしてこの計画を阻止しようとしたドーシャはどちらからも敵となる。この国にドーシャの居場所は無くなるんだ。唯一の望みは、ドーシャの仲間が敗北し、残妖が人間に勝利することだけなのだ」
「それでも、私はみんなが勝つことを祈ってる」
「なぜだ」
「だって、お母さんは人間を滅ぼすことなんて望んでないから。お母さんはお父さんと結婚したんだよ? お母さんは人間を愛してたんだ」
「……そうか」
それきり言葉を交わさなかった。
長い静寂。
アキラが言った。
「残念だが、戦いの決着を待つことはできないようだ」
「え?」
突然の言葉にドーシャはびっくりした。
返事は無い。
気になったドーシャは弱った体に鞭打って起き上がった。
そして見た。
血だまりに沈む父を。
その腹には神刀ニルヴァーナが突き立っていた。
アキラが倒れるときに手から落とした剣が、運悪く自分の腹の上に落ちて刺さってしまったのだ。
「お父さん!」
だが父は首を横に振った。
「よせ……。ドーシャにこの剣は抜けん。触れてはならぬ」
慌てて抜こうとしたドーシャは、父に言われて手を止め、焦って周囲を見回し、イスを拾ってそれで剣の鍔を引っかけて抜いてみた。だが余計に出血が広がっただけだった。
もうダメなのだとドーシャは理解した。
救急車を呼んだところで今『治療所』から開放された残妖が暴れているはずだからこっちに回している余裕は無い。そもそもこんな泥に沈んだ街にやってこれるわけがない。
ドーシャはアキラの手を握った。
「お父さん……」
アキラはドーシャの顔を見つめた。
「似ていないと言ったが、やはり親子だな……」
それきり、アキラの呼吸は止まった。
さっきまでとまるで違う、穏やかな死に顔だった。
☆☆
暁。夜とも朝とも言えない時間。
ドーシャはついに外に出た。その背には死んだ父を負っている。
凍りついた泥の海を一歩づつ歩く。
フユヒ隊長が待っていた。ヌルはもういない。
「ドーシャ……」
ドーシャの父が死んでいるのを見て、フユヒ隊長はそれ以上言えなかった。
ドーシャはフユヒ隊長の横に小さな女の子がいるのに気づいた。それは、『式』の記録に残る12年前の狂少女の姿だった。
狂少女はフユヒ隊長の後ろに隠れた。
ドーシャは訊く。
「どうしたの、それ」
フユヒ隊長は困ったように答えた。
「脳の修復を阻害し続けた結果、完全に記憶を失ったようです。これはもう、狂少女でも、國生ハニでもありません。私、これをどうしたらいいんでしょう?」
「さあ?」
ハニだったものを見ていると、それはこっちを見ながら声も無く涙を流し始めた。
その目が見ているのはドーシャではない。ドーシャが負っているものだ。
「お父さんのこと、覚えてるんだ。お父さんのために泣いてくれて、ありがとう」
ドーシャはまた歩き始めた。
「どこに行くんですか?」
フユヒ隊長がその背に声をかけた。
ドーシャは答える。
「私の仲間が勝った。だから、この先は残妖でない人間と残妖が戦い続ける。私はそれを止めなきゃいけない。どこでも、どこまでも、行くよ。だってお母さんは人間を愛してたから。人間と、妖怪、残妖が愛し合える世界を作ることが、お母さんの仇を討つってことだと思ってるから」
その復讐は決して終わらないことは最初から分かっていた。道は困難になったが、ある意味では何も変わっていない。
ドーシャの歩く道を、フユヒ隊長がずっと見送っていた。
(あとがき)
次で終わりです。




