第90話 魔に魅入られし者
ドーシャの父、九条アキラは小さなイスに座って携帯でニュースを見ていた。
ドーシャが入ってきたことに気づくと、携帯をしまってこちらを向いた。
どこまでも黒い、底知れぬ闇色の瞳が見つめている。
「ドーシャか。ライジュではなくお前がここにたどり着くとは思っていなかった」
ドーシャは、いったい何を言えばいいのか分からなかった。
アキラが言った。
「『治療所』は開放された。新生『逢魔』は犯罪者を吸収し、政府は鎮圧のため全面戦争を始めるだろう」
「それがお父さんの望みなの?」
「そう思うか? 確かに、薄汚い残妖どもがいなくなれば爽快かもしれん」
ドーシャは、父が残妖を薄汚いなどと言うのを初めて聞いた。
「だがそうはならないだろう。この計画は破綻している。かつてC国が似たようなことを計画し、挫折した」
「お父さんが考えた計画じゃないの?」
ドーシャは疑問をぶつけた。この計画の詳細を知ったときからあった疑問だ。
アキラは厳かに言った。
「この計画ははるか昔から存在し、代々『式』の長官へ渡される。そして過去全ての長官が一笑に付し、実行されることが無かった」
「じゃあなんで、お父さんは実行したの」
「ここがどこか知っているか?」
「お母さんの山、夢幻山があった場所」
「そうだ。私とユメが出会った場所だ」
やはりそれが始まりなのだ。ドーシャはそう思った。
「私とユメの出会いは何度か聞かせたことがあるな」
「うん。夢幻山の山姥を退治に来たお父さんが、お母さんに一目惚れして結婚したって」
「それは間違っていないが、全てではない」
アキラは昔のことを語り始めた。
夢幻山には凶暴な山姥が住むという。
山に入ったものは、人でも妖怪でもみんな食ってしまう。
人々は困って高名な退魔師に退治を依頼したが、みな山から帰ってこなかった。
そして当時最強との呼び声が高かった九条アキラに依頼が回ってきた。
アキラは山に入り、山姥のものと思しき小さな家を見つけた。
そっと中に入る。
そこには、背の低い女性が、囲炉裏の前にちょこんと正座していた。
簡素な着物を真っ赤に派手派手しく染め、老婆のように真っ白な髪を結っている。
美しい。
山姥は恐ろしい化け物のイメージが強いが、山の神の側面も持つ。
それは、美しき山の女神だった。
山姥がアキラを見た。
夜空のような黒い瞳だ。
だがアキラはその美しさに囚われることは無かった。
むしろ、この山姥の恐ろしさに戦慄した。
美しい姿を持つ妖怪ほど恐ろしい力を持っている。
その美しさに心惑わされることを、魔に魅入られると言う。
アキラは山姥の目の前で刀を抜いた。
山姥の目が刀身を追った。
アキラは全身の筋肉の緊張を解き、極めて自然に、吸い込まれるように山姥の首へと刃を振った。
山姥の白い髪が散った。
山姥の首はまだつながっていた。
「なぜよけない」
アキラが訊いた。
「なぜ斬らない」
山姥が訊いた。
アキラが先に言った。
「妖怪の質問には呪力がある。答えるのは危険だ」
山姥が苦笑した。
「別にとって食ったりはしない」
それでもアキラは警戒を解かなかった。
「食わないからちょっとだけかじらせてくれ、というのが山姥だろう」
「私はそんな回りくどいことはせぬ。欲しければ欲しいだけ食う」
アキラは動かなかった。
しびれを切らした山姥は答えた。
「人間に言っても分からぬかもしれぬが……。この山は私のもので、私そのもので、私はこの山なのだ。私はこの山を守るために誰でも殺してきた。そうして千年生きてきた。この先もずっとそうするつもりだった」
山姥の目は遠くを見ている。
「私にとってはこの山が全てだ。山の外に出たことは無い。だが山から見える景色は変わる。人間は山を崩し、海を埋め立て、地形を変えた。私は気づいた。もうこの山を守り切れぬ。私の千年は無駄だったのだ」
誰も彼もを無差別に殺してきた凶暴な山姥が、人間たちの未来を想像し嘆いていた。
それほどの知性を持つことが私には意外だった。
ライジュの頭の良さは母に似ている。
そしてその悲しげな顔は、今にも消え入りそうで、儚くて、だから……。
私は魔に魅入られた。
気づけば私は刀を納めて跪き、山姥の手を握っていた。
「な、なんだ?」
山姥が困ったように言った。
だが私も自分のしたことに驚きを隠せなかった。
私は何をしようとしているのか。
山姥が恥づかしさに視線を逸らした。
私はこの山姥を生き永らえさせたかった。殺すために山に入ったというのに、なんと愚かなのだろうか。
私はユメに愛を誓った。退魔師でありながら魔に隷属したのだ。
やがて子どもが生まれたが、ユメは子どもだけを私に預け自分は山を下りなかった。
山にいる限り未来は無い。だが山の女神たる山姥は山そのもの。山を捨てることはできなかった。
そして『逢魔』のテロが起き、ひとりの残妖が山に逃げ、それを追った退魔師にユメは殺された。
「誰が悪い? 誰がユメを殺した? 風御門の退魔師か? 山に入った残妖か? 『逢魔』か? だが、仮にそいつらが全員いなかったとしても変わらない。夢幻山はいつか人間に崩される。ユメを救うことはできなかったのだ」
確かに、ドーシャは七凶天を倒したが、それは自己満足だ。
「だから、私はこの残妖絶滅計画を動かした」
「残妖がいなくても何も変わらないよ……」
「人間と残妖が戦争したところで残妖が滅ぶことなどない。ただ疲弊し、憎悪を撒き散らすだけなのはC国の結果で分かっている。
残妖を滅ぼすことができない最大の理由は、社会的に影響を与える残妖よりも実際の人数がずっと多いことだ。妖怪の血に覚醒した残妖は人口の0・1%もいない。だが政府は知らない、知ろうともしないが、眠ったままの残妖、妖怪の血を引いているだけの人間は人口の90%を超える。すでに純血の人間は数を減らし、近い将来絶滅する。その事実を隠蔽するためだけに作られたのが『世界人間連盟』だ。治安維持などと言っているが、その本心は実に臆病で空虚だろう?」
確かにくだらないが、父はいったい何を言いたいのだろう。
「残妖絶滅計画を作ったのはこの国の純血の人間だ。だから破綻している。だが私はヲロチの頭骨を加えることでこの計画を完成させることを思いついた」
ドーシャは今さら思い出した。計画書には無かったヲロチの頭骨を父は集めていた。
「ヲロチの頭骨には眠っている妖怪の血を目覚めさせる力がある。ゆえにそれを人口の集まる場所に設置した。『逢魔』による実験のデータはあるが、実際どの程度の人間を残妖に変えられるかは未知数だ。しかし計算上、通行人の5%を残妖に変えられれば1時間で2000人の残妖を生み出せる」
「まさか……」
ここまできてドーシャは父が何をしようとしているのか、ようやく理解した。
「この計画に乗った政府は、せいぜい全国で数千人の残妖を相手に戦争をするつもりだった。だが戦争を始めた途端、残妖が何倍にも何十倍にもなる。この戦争は人間が敗北する」
「お父さんは残妖じゃなくて、人間を滅ぼす気なの?」
「人間が自分たちの始めた戦争で滅ぶ。私はそのためにこの12年を費やしてきた」
「それが、お母さんのためだって言うの?」
「ユメを生き永らえさせるには、人間を滅ぼすしかない」
「もうお母さんは死んでるんだよ!」
「ドーシャがそれを言うか。母の仇を討つとずっと言っていただろう」
「全然違うよ、お父さん。お父さんは間違っている」
アキラの表情が強張った。
「顔は似ていても、やはりお前は薄汚い残妖だ。あの山姥の強さ、気高さに、似ても似つかぬ」
今はもうドーシャにも、父が残妖を薄汚いと罵る理由が分かる。
妖怪ではなく、人間の部分を憎悪しているのだ。
ドーシャの目から涙があふれた。
「薄汚いなんて、自分のことをそんなふうに言わないで、お父さん……」




