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第89話 狂少女

 名も無き狂少女、今の國生ハニは12年以上前の記憶を持っていない。

 きっと誰かに頭を潰されたのだろう。脳を破壊されると記憶を維持できない。


 憶えている最初は、泣き叫ぶ人間たちを泥に変えて殺したことだ。

 なぜそんなことをしていたのか。それは分からないが、きっと私は悪くない。


 だって、どんな人間も、どんな残妖も、私を見るときは嫌悪と恐怖の目を向けるのだから。

 誰も私を愛さなかった。

 だから私も誰も愛さなかった。


 この世界は人と人の助け合いでできているという。

 その中に私は入っていない。

 この世界は嘘でできている。正義も愛も全部嘘だ。

 この世界の全てが不愉快だった。


 私は無敵だった。しかし仲間とも呼べない『逢魔』の連中はどんどん数を減らし逃げ散った。

 けどそれがなんだと言うのだろう。私ひとりで世界中の全員を殺すことだってできる。誰も私を止められない。


 なのに、私は床に這いつくばっていた。

 私の前には黒い瞳のスーツ姿の男性が立っていた。その右手には白刃を煌めかせている。

 私は敗北した。それも、残妖ですらない普通の人間に。


 男性は冷たい目で私を見下し、そして刀を鞘に納めた。

 そして後ろを向き去っていった。トドメを刺さなかったのだ。

 なぜ殺さないのか理解できなかった。私はその男性に興味を持った。


 私はその男性の姿をコピーし、街に出た。

 長い時間がかかったが、あるとき私に声をかける者が現れた。


「九条さん? こんなところで何をしてるんですか?」


 それで私はその男性の名前を知った。


 あとは早かった。

 私はすぐに九条アキラの素性を手に入れた。


 住所に行き、九条アキラの子どもたちを見た。なんの変哲もない子どもだ。これが九条アキラの子どもだというのだから分からない。


 やがて九条アキラが戻ってきた。


 アキラは私に名前をくれると約束した。

 嬉しくて、なぜ私を殺さなかったのか、聞きそびれた。


 けどどうでもいい。だって名前をもらった私はもうアキラの子どもだ。自分の子どもだから殺さなかった、そういうことだ。


 ただ不満もあった。私は結局アキラと一緒に住むことを許されなかった。

 娘たちは一緒に住んでいるのに。ズルい。


 そうだ。大人になったらアキラと結婚しよう。

 そうしたらアキラは私のものだ。


 私が18になると、アキラは私に秘書の地位をくれた。

 アキラと一緒に過ごす時間が増えた。


 たまにアキラの家に行き、娘たちの機嫌を取ってみた。娘が味方になったらアキラも私と結婚するかもしれない。しかし娘たちは懐かなかった。殺すことしかしてこなかったから、人と仲良くなるのが難しい。


 アキラはよく分からない計画を進めていた。

 残妖絶滅計画だかなんだか。残妖だろうがそうでなかろうが全部殺してしまえばいいのに。理解できない。

 けどその計画のためにアキラはときどき人殺しを私に頼んだ。人を殺すのは簡単だ。それでアキラが喜んでくれる。私にとっても都合がよかった。


 そして計画は最終段階に入った。

 この期に及んでアキラの娘たちがアキラの計画を邪魔しようとしている。

 なぜあの人の邪魔をするのか理解できない。

 娘というだけで充分じゃないか。なぜ他のものを望む。


 だから、私がもらう。全部、全部。


☆☆☆


 ハニが地面に手を当てると、ドーシャの足が沈み始めた。

 周囲は全て泥の海だ。逃げ場など無い。


「カチカチ山の山火事!」


 ドーシャは泥の海に炎を吹きつけた。

 泥が焼けて固まり、足場になる。なんとかそこに乗るが、すぐにそこも沈み始める。


「能力の規模が違いすぎる……!」


 このままでは確実に敗北する。

 ドーシャは一発逆転に賭ける。


 炎を足場ではなくハニに向けて放つ。沈む前に勝負をつけるのだ。

 炎が直撃し、ハニは黒焦げになった。焦げた体がバラバラと崩れる。


「なっ」


 驚くドーシャ。なぜならドーシャの炎に人間を一撃で炭にするような火力は無い。だから炭になったのはハニじゃない。ただの泥だ。


 背後の泥が盛り上がりハニの形となった。ドーシャが振り返るより早く足払いをかけて泥の海に倒す。

 もがくドーシャをハニは何度も蹴り倒して泥に沈める。

 ドーシャは必死にハニの足をつかんだ。


「逆鱗山の雷!」


 激しい電流がハニの足をつたわった。ハニが尻もちをつくように倒れてそのまま泥の海に沈んで消えていった。


 ドーシャは泥だらけになりながら立ち上がった。

「ったく、すぐに泥の中に逃げて。もぐら叩きかっての」


 すると泥の中から巨大な手が湧き出しドーシャを殴り飛ばした。

 盛大にドーシャは泥に倒れる。


「この泥全部が私の力。ドーシャちゃんはずっと私の手の中にいるのに逃げるだなんて心外ね」


 再び國生ハニの形が地上に現れていた。


 ドーシャの心は敗北に彩られていた。

 國生ハニは、狂少女は、遊んでいる。手加減している。

 そもそも狂少女の能力はあらゆるものを泥と作り変える。触れるだけで人間を泥にして終わりだ。それどころか触れることなくこの広大な泥の海にドーシャを永久に沈めることもできる。


 手加減されてなお、ドーシャにはハニを倒すすべが頭に浮かばなかった。


「ドーシャちゃん、もう諦めたら? そうしたら私、九条さんのところに戻ってあなたの代わりにずっとそばにいるわ。そのほうが九条さんも幸せ、ドーシャちゃんも幸せ、私も幸せ」


 笑顔で提案するハニにドーシャは怒った。


「周りが見えないのか! この泥に沈んだ街が! いったい何人殺した。國生さんが幸せになることを誰も許さない」


「どうしてみんな同じことを言うのかしら。私が殺した人間って、私には何の関係も無い人ばっかりよ? あれらが私に何かしてくれたことは一度も無い。『助け合い』、『相互扶助』、そんな言葉を使いながら、いつも私のことは仲間外れ。私になにかをくれたのは九条さんだけ。だから私も九条さん以外はどうでもいい」


 ドーシャはそれには答えられなかった。

 社会からはじかれた者を社会の枠組みで罰する資格があるだろうか。


「だけど……」

 ドーシャは言った。

「狂少女は、エレシュキガル島で奴隷を助けたよね? 國生さんも、本当はどうでもよくなかったんじゃないの? もっと大勢の人に助けられたり、助けたりしたかったんじゃないの?」


 ハニは冷たく言う。

「あれはただの気まぐれよ。私と同じ、社会から見捨てられた者たち……。だけど、あのとき助けた奴隷たちが私に何かを返してくれることなど無い。あいつらも全部殺しておけば良かった。そうしておけば、失望しなくて済んだ」


「國生さん……」


 失望するのは期待があるからだ。

 やはりハニは人とのつながりに期待をしている。

 だが今さらドーシャに何ができるだろう。全てはとっくに終わっている。

 ハニが救われなかったことも、大勢殺したことも、ドーシャが知るずっと前に終わったのだ。


 不意にハニは自分の右方に泥の壁を作った。ほぼ同時に泥の壁に氷の槍が突き立つ。

 ドーシャも槍が飛んできた方向を見た。

 水色の髪の女性が足場を凍らせながら歩いてくる。


「霜月隊長!?」


「フユヒ……!」


 『式』の隊長、霜月フユヒだった。


「久しぶりねハニ。いえ、狂少女と呼んだほうがいいかしら」


 フユヒはハニの目を見据え、足元をおろそかにして滑ってこけた。


「隊長……」

 ドーシャは安心すればいいのか不安になればいいのか分からない。


 フユヒが打ちつけたお尻を押さえながら立ち上がった。

「いたた……」


「隊長、なんでここに?」


「都市が丸ごと泥の海になっていれば気づきます。ハニ、あなたの目は12年前から変わっていないですね」


「目? 目の形もあの頃とは変えたはずだけど」


「目にこもる感情ですよ。あなたの目はずっと不満を表していました」


「じゃあずっと気づいてたってことなのかしら」


「いいえ、確信は無かった。でもきっとあなただと思ってた。それは当たっていた」


「それでフユヒ、12年前の続きがしたいの? 何度やっても決着がつかなかったのに」


「あなたたちに報いを受けさせるまでは、死ぬまでやります」


 そしてフユヒは力を解き放った。


「ココバの裁き」


 周囲の泥全てが凍りつく。

 氷が周囲の泥を凍らせ、さらにその氷が周囲の泥を凍らせる。

 あっという間に全てが凍りついた。


 ハニは片手を地面につけた。

 氷が泥に変わっていく。


 フユヒが泥を氷に変え、ハニが氷を泥に変える。

 かつて決着がつかなかったというだけある。


 だがそこでフユヒが足を広げて姿勢を変えた。


「マカハドマの安らぎ」


 ドーシャは初め視界が白く濁っていくように感じた。

 なんだか息苦しい。

 戦慄する。

 空気が凍っていた。

 まともに呼吸すれば肺が凍る。

 ドーシャは体内に空気を溜めているので多少は呼吸しなくても耐えられるがそれでも苦しい。


 ハニを見ると右半身が凍りついていた。

 だがそれでもまだ勝負は着いていなかった。


 フユヒが叫んだ。

「私の力では勝負がつきません! ドーシャ、あなたがハニを倒してください!」


 ドーシャは氷の上を走る。


 ハニが凍っていない左手をドーシャに向けた。ドーシャの足元の氷を溶かして泥があふれる。


 が、それは途中で止まった。

 ドーシャの足元の泥が乾いていく。


 ハニが、フユヒが、驚愕の目で一点を見ていた。


 ドーシャも一瞬ちらとそちらを見る。


 少し離れた泥の海に、長髪に青い唇の男性がいた。


「六文ヌル……!」

 ハニが歯ぎしりした。


「舐められたまま終わるつもりは無いんでな。泥から水を抜くのはかなり力が要るが、やってやれないことはない」

 ヌルが冷笑する。


 ドーシャはハニの眼前にたどり着いた。


 右半身は凍り、左半身は乾いていた。


 ドーシャの拳がハニの顔に届き、その頭を打ち砕いた。


 頭を失ったハニが膝をつき、泥の海に座った。


 ヌルが叫んだ。

「やつは脳を破壊されても死なんぞ!」


 ドーシャはもういちど拳を振り上げた。

 だが、振り下ろさなかった。


 ハニは半分凍って半分乾いたままだ。

 動く気配が無い。


 脳のある状態で拮抗していた。脳を失った状態でフユヒとヌルの妖力に抵抗できなかったのだ。


 ドーシャは言った。

「私、お父さんに会ってくる」


 フユヒ隊長が答えた。

「任せます。私はハニを抑えていないといけないので一緒には行けませんから」


 ヌルがぼそっと言った。

「本当は九条アキラにも制裁を加えてやりたいが、これ以上の面倒は遠慮する。お前の好きにしろ」


 フユヒとヌルに見送られ、ドーシャは泥の中に残る唯一の建物の扉を開いた。



*************************************


 名前:國生(こくしょう) (ハニ)

 所属:治安維持局長官秘書/七凶天

 種族:ダイダラボッチの残妖

 年齢:19

 性別:♀

 卑妖術:《開闢》

     あらゆるものを泥に変え、作り変える。

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