第67話 シシュンとヌル
一瞬の緊張、シシュンが真っすぐ飛び込んでくる。
同時にドーシャはエアコンの室外機を蹴り飛ばしてシシュンを止めた。
シシュンの卑妖術は山の生き物の力を借りるもの。狼の力を借りたシシュンの速度はドーシャをはるかに上回る。ましてドーシャは両手がふさがった状態、まともにぶつかっても勝てない。
路地にいる野次馬を踏み台にして建物の避難用屋外階段へ跳ぶ。
シシュンにドーシャは言う。
「狼は木登りしない。山姥も木登りは苦手だけど」
「酩酊山の猿」
シシュンは身を震わせた。軽やかに建物の壁の排水管をつかんでドーシャよりさらに高く跳ぶ。
階段は狭い。ここでは逃げ場が無くなる。ドーシャはシシュンのほうを向いたまま背中から飛び降りる。
シシュンは落下防止の柵を蹴って加速し空中でドーシャに追いつく。鉈を総理へと振るう。
ドーシャは左足で鉈を持つシシュンの腕を蹴った。鉈がぎりぎりで逸れる。
だがシシュンは逸れた勢いで回転しながらドーシャの足をつかむ。地面に叩きつけられると察したドーシャは自分も身をひねってシシュンを振り落とす。総理をかかえたドーシャのほうが重いのでシシュンのほうが振り回され手を離した。
シシュンは静かに両足で着地する一方、ドーシャは人ごみに落ちて受け止められた。
「だ、大丈夫か?」
状況を理解しない人たちが心配の声をかけてくれる。
「大丈夫。危ないからどいてて」
シシュンが姿勢を低くかまえる。
「底なし山の泥濘!」
ドーシャは地面を踏んで体内に溜めていた泥を道路にあふれさせる。だがシシュンはすかさず狼から猿に切り替えて建物の壁を登って上に跳ぶ。
「前はこれで止まったのに、場所が悪い……!」
周囲の人々は動かない。これでは後ろや横に逃げられない。シシュンが上から総理を狙う。ドーシャは後ろを向いて背中で総理をかばった。
2秒。
背中を切り裂かれると思ったのに何も起きない。
ドーシャは振り向いた。
シシュンが振り下ろす直前で手を止めていた。
「なんでそんなやつ庇う。そんな価値無いだろ」
「価値じゃなくて信念だ」
「ドーシャの言うことは分からない」
シシュンは攻撃のかまえを解いた。
「決着をつけようと思ってたのに結局できなかった。俺の負けだよ。俺を倒してくれ」
「そんなこと言われても……」
ドーシャが迷っているとシシュンの後ろから冷水のごとき冷たい声が響いた。
「なぜ最後まで戦わない?」
六文ヌルの声だ。
同時に鮮血が舞う。
ヌルは大きな針のようなものをいくつか投げたらしい。
ドーシャは叫んだ。
「シシュン!」
針に貫かれたのはシシュンだった。
ヌルは冷たく言う。
「お前が『式』と通じているのは知っていた」
「通じている……か」
苦しそうにシシュンは洩らす。
シシュンには父親がいなかった。
母に聞くと父は山に住む妖怪だったという。母は数年山で父と暮らしたらしい。
母はそれをいい思い出として語ったが山に戻る気はもう無かった。
「だって山に飽きちゃったから」
シシュンはその話を信じた。自分に妖怪の血が流れているのは実感できた。
人間の暮らしは性に合わない。学校には行かず野山で遊んだ。母はそれを咎めなかった。
あるとき山で汚れた鉈を見つけた。何年も放置されたような、だが錆びてはいない。
シシュンはそれを拾った。周囲の小枝を払う。悪くない感触。
「それはお前の父親の鉈だな」
突然の声にシシュンはびくっとして振り返る。
長身長髪に青い唇の男性がそこにいた。
「お前の父はこの山の主だった。だがもうこの世にいない。人間に殺されたからだ」
「おじさんは誰?」
「俺は六文ヌル。お前と同じように、俺の母親は妖怪だった」
シシュンはヌルについていき『逢魔』に入った。
シシュンは仲間に言った。
「ボスも河童の子だろ?」
「は? お前何言ってんの?」
『逢魔』に入ってから気づいたことがある。
ヌルはシシュン以外に自分が河童の子だなどと言ったことは無い。
シシュンを懐柔するための嘘だったのかもしれない。
だがおそらく本当のことを言ったのだとシシュンは思った。シシュンが妖怪の子だから真実を言ったのだ。
ヌルは冷酷な残妖だ。それでも何か隠した感情がある。シシュンはその一端に触れた。
ヌルの秘めた感情を知るのは自分しかいない。『逢魔』を抜けなかった理由はそれだけだ。
だがドーシャと親しくしていたのも事実。『式』に通じていた裏切り者と言われても仕方ない。否定はできないし裏切り者呼ばわりされることは恐れていない。
だから言った。
「ああ。俺は裏切り者だ」
シシュンは笑って倒れた。
「そうか。残念だ」
ヌルは失望したような珍しい表情を見せた。
「ヌル、お前は……!」
ドーシャは怒りに震える。
周囲の人々が理解不能の状況ながらなんとなくヌルが原因なのだと気づきつつあった。何人かが携帯でヌルを撮る。
「……ふん」
ヌルが片手を振った。ドーシャの周囲の人々がばたばたと倒れる。ヌルの水分操作だ。人間の体内の水分を操る卑妖術。残妖には効果が薄いが普通の人間なら即死だ。
腕にかかえた総理が悲鳴を上げる。
ドーシャは強い調子で総理に言う。
「静かにしてろ。これからヌルと戦う」
ドーシャは総理をかかえたままヌルへ向かって走り出した。
両腕が使えないので蹴り技で攻めるがヌルは落ち着いてかわし、腕で払う。逆にドーシャの軸足に足払いをかけバランスを崩したドーシャの頬を張り倒す。
倒れるにしても最低限総理が大けがをしないように気を遣ってドーシャは倒れ込む。が、総理は手足に軽い擦り傷を負ったようだ。
ドーシャは両手が使えないので勢いをつけて飛び跳ねるように立つ。
「ちょっと、ちょっと! 離して!」
総理が叫ぶ。
そんな総理にヌルが言う。
「愚かだな。これが一国の首長か。深山ドーシャは気づいているからお前を抱いたまま戦っているというのに」
「どういうこと?」
総理が震えながら訊く。
ドーシャが説明した。
「あいつは水分操作でいつでもあなたを殺せる。とっくに射程なんだ。あなたがまだ生きている理由はひとつだけ。あなたが私のハンデになっているから。もし私があなたを離したらその瞬間あいつはあなたを殺すはず」
ヌルが言葉を継ぐ。
「そういうことだ。いつでも殺せるのだからついでに深山ドーシャを殺す役に立ってもらおう。といってもどうせすぐ見捨てると思うがな」
ドーシャは無言で再びヌルに挑む。
だが蹴り技だけでは到底ヌルを傷つけることはできない。そもそも両手が使えたとしても格闘能力においてドーシャはヌルに及ばない。
ただ、ヌルもハンデをつけていた。ドーシャの顔や足ばかり狙っている。うっかり総理を殺してしまってはドーシャのハンデが無くなってしまうからだろう。
それでもドーシャはヌルに一方的になぶられていた。
火は総理を火傷させる恐れがあるから使えない。雷も似た理由で使えない。水はヌルには通じない。使えるのは……。
「底なし山の泥濘!」
ドーシャは右足で地面を強く踏むと泥があふれだし周囲を飲み込む。ヌルは攻撃しようと身を乗り出していたため足を泥にすべらせた。
「今だ!」
ドーシャはすかさずヌルの左足と脇腹に連続で蹴りを入れる。ヌルは直撃をもらったもののドーシャが足を引き戻す前につかんだ。強い力で引っぱって投げ、その反動で自分は倒れそうになるところを踏みとどまった。恐るべき体幹とバランス能力。
ドーシャは泥に転がった。総理が泥に濡れて苦しんでいるがこちらも余裕が無い。這い上がろうとしていると泥がみるみる乾いていく。ヌルが泥から水分を抽出していた。
「土のような水を吸う物体から水分を抽出するのは手間がかかる」
ヌルは水の塊を投げ捨てた。地面はすっかり乾いている。
立ち上がろうとするドーシャの顔をヌルは踏みつけた。
「最初にお前を見たとき、俺の脅威ではないと思っていた。力も卑妖術も弱い大したことの無い残妖。それがなぜ、何度も俺の邪魔をするんだろうな? 力でも卑妖術でもないならいったい何だ? お前の何を見てシシュンは裏切った?」
「シシュンは裏切ってない」
ドーシャはヌルの足をはねのけて立ち上がる。逃げようとしていた総理を左手で引き戻しつつ回し蹴りをヌルに放つ。反動で総理が肩を脱臼したようだが気にしている暇は無い。
ヌルは軽く受け止めたが、少しばかり驚いていた。
「シシュンはお前のために『逢魔』に残ったんだ。お前みたいな奴を見捨てられなかったから!」
ドーシャは右足で蹴る。ヌルが左足で受ける。飛び跳ねて左足でも蹴る。ヌルが右手で止める。左手で総理をつかんでいる今、空いている右手で殴る。ヌルが左手で止めた。
両足と右手でがっちりとヌルを固定する。ドーシャはヌルの頭に頭突きを叩き込んだ。
「ぐ……」
ヌルがよろめいて倒れる。ドーシャも頭を押さえた。額が割れて血が流れる。
「今だ。早く逃げて」
ドーシャは総理に促す。1人にするのも危険だが、ヌルの水分操作の射程から離さないと結局負けだ。
ヌルがふらふらと立ち上がった。
「ふ、ふふふ……」
笑っている。
「ここから一歩も通さないよ」
「あんな人間に俺がこだわっていると思っているのか? そうならとっくに殺している。いつだって殺せた。12年前からいつだって。俺の目的はそんなところに無い」
「どういうこと?」
「俺の能力なら人ごみに紛れていつでも暗殺できる。だがそんなことは銃を使えば人間でもできる。そんなことに意味は無い。必要なのは残妖が人間より上の存在だと示すことだ。人間がそれを受け入れざるを得ないような……力を示すこと。俺はそのために12年かけた」
「それがヲロチの頭骨だったってこと? でも頭骨は草薙アカネに奪われたはずじゃ」
「半分正解で半分不正解だ。俺の求めたのはヲロチの頭骨であり、そうではないとも言える。ヲロチの妖力は絶大だ。しかし頭骨を頭骨のまま使うのでは力が足りない。ヲロチを蘇らせるのは論外だ。あれは俺たちに従うようなものではない。俺はヲロチの頭骨の妖力を利用する方法を探し求め、そして手に入れた」
大地が揺れた。
ドーシャは狼狽して周囲を見る。
周囲の建物が崩壊する。同時に崩れていくはずの建物の瓦礫が盛り上がっていく。異常な光景を見上げ、ドーシャは気づいた。
瓦礫が盛り上がってるんじゃない。瓦礫のような見た目の怪物が現れたんだ。
「ヲロチの妖力を自ら使うのはリスクが大きい。人間に妖力を与えるのも信用できない。だから俺は作り上げた。人間を滅ぼすための新たな妖怪、この『塵塚怪王』を」




