008
次に目を開けたとき、俺は倉庫から脱出できていた。
そこは体育館の中だった。
バスケットボールで使用する降下式のゴールがおりていた。
まだわずかに熱気がある。汗の香りがする。
本当につい数十秒前まで、ここでバスケ部員たちが練習していた――そんな気がするのに、今は生徒は誰もいない。
俺と、二階しか。
「――二階!」
蹲っていた二階が、わずかに頭をあげた。
しかし返事をしない。顔は真っ青だった。
「大丈夫か?」
近くまで駆け寄り肩を揺さぶる。
二階は何故か、何かを疑うような顔で俺を見ていた。
「おいおい、どうした?」
「……ああ。藤田。藤田だな?」
「そう見えねぇ?」
二階は大きく、安堵のため息をついた。かなり怖い目にあっていたようだ。
俺は鞄からペットボトルの水を出してやる。
「ほらよ」
「ありがとう。さっきまで、色んなものからずっと呼ばれていたんだ。返事をしてはマズイと思って……数秒前までは、所長がそこにいて……」
「え、なにそれ。俺もいたってこと?」
そりゃ面白い。
二階が、俺(偽物)にどんな態度を取ったのか、見てみたかったもんだ。
「ああ、お前もいた……しかし、かなり乱暴をしたやつがいたな」
乱暴? と俺は首をかしげる。
「あ、そうだ、護符返す。青使ってみたけど効果なかった」
「うん、そりゃそうだ。さて、まずはこの騒ぎを起こした犯人を見つけよう」
「祓えたんじゃないの?」
「そうじゃなくて……いや」
「うん?」
水を飲みわずかに汗の引いた二階の目が、薄く細められた。
波のように引いていったはずの先ほどの疑いの目が、再びに俺に向けられている。
おいおい、なんだってんだよ。
次いでの二階の声は、底冷えするほど低かった。
「――何をした」
「え?」
「何をした。まさか九字を切ったのか」
「おうっ。お前がやってたのを思い出して、見様見真似でさ」
えいっえいっ、と空中で九字を切る――その指を、二階が掴んだ。
まるで紙をくしゃくしゃに丸めるみたいにぞんざいに、あるいは引ったくるみたいに強引に。
「――何を考えてる!」
「はあ?」
二階の顔は変わらず蒼白だったが、わずかにその頬に赤が差していた。
「だって、大丈夫だろ。俺は霊感なんてないんだし……」
「へぇ。霊感がないお前が、九字を切って、効くと思ったのか?」
「いや、効くと思ったわけじゃない。でも幽霊っぽいのがいたし、そのまま何もせずにお前の助けを待ってるってのもちょっとどうかなーと思ったりして……」
「それでこんな無茶をした訳か」
「だって、何もせずぼーっとしてるわけにも。こっちだって意地ってもんがあるんだよ」
「意地とか、プライドがどうこうとか、そういうの。どこかで聞いたセリフだな」
え?
「……どこかって?」
「最近お前がよく俺に説教してたことじゃないか? 時給制なんだ、無茶するな、出来る範囲でいい、意地を張るな――そう言っていたのは誰だった」
「それは、ちょっと違うだろ。俺は別に、俺の安全を犠牲にしてたわけでもないし……」
「いいや、危険だった。事実俺はこうして怪我をしたし、お前も霊界に近づいてしまった」
この二階の必死の弁論に対しての、次の俺の返事。
その中に、ほんの少しでもあいつの言葉を揶揄する響きがなかったか、と聞かれたら――否定することは難しかっただろう。
「霊界?」
口元はゆるんでいなかったと思う。
でも、俺のその声だけで二階には十分だった。
彼は大きくため息をついた。
次に二階が俺を見上げてきたとき、そこに怒りの色はなかった。
でも別に許してくれたわけではないんだろう、諦められただけだ。
二階は俺になにかを言おうとした。
苛立ちが顔に現れ、消え、顔を顰め、憂鬱そうにし、それがまた消えて、最終的にはなんの感情も読み取れないような無表情で俺に通告した。
「分からないなら分からないなりに、ルールを守れ」
言った二階の腕に、赤い染みが滲んでいた。
なんだろう、とぼうっとした頭で考える。
人体から滲んで出てくる液体。そっか、血だなあ、と思い至る。
そして俺はようやくにして、先ほど二階が何を言っていたのかを理解した。
――事実俺はこうして怪我をしたし?
九字。へんな呪文を唱えて、ただ指をぶんぶん振り回すだけ。
それだけ――俺にとっては。
まさか叱られるとは思っていなかった。でも、霊だって化物だって、そんなつもりはなかったと言いながら人間を殺したり狂わせたりするから、俺たちはそれを問答無用で祓う。それを正しいということにしてやってきた。時給制だし。とか。そういうことにしてきた。
二階は怒っていた。護符はひったくるように奪われ、九字は永劫禁止にされ、余計なことをするなと指をさされ、俺は「はい」とだけ返事をした。