007
霊は、霊能力がある人間に、より強く作用する。
それは二階の例を見ても明らかだ。つまり霊能力者というものは、霊に対するリトマス紙の役割を果たす。霊能力者たちが、頭痛がするだの吐き気がするだの言っていたら要注意――という風に。
しかし今さっき。二階は、具合を悪くしていただろうか?
世の「怪奇」の殆どは霊によって引き起こされているが、しかし一部の例外もある。
悪霊怨霊の類なら二階は事前にその存在を察知するが、由来を人としない異形や、呪いについては、不意打ちを受けることもある。
あるいは霊であったとしても、その強さによっては何も察知させず二階に近づくことも可能だろう。
翻って、俺。
一切の霊を見ることができず、化物のほうから俺が見えていないことも多い。
異形のものとはお互いにズレた空間で生きているようなものだ。
これを二階はラジオの周波数に例えていた。
波長が合うやつには合う。コントロールして合わせられるものもいる。
すべての周波数をジャックできるぐらい強ければ、誰にだって見える。
でも大抵の弱い霊は、相性のいい数人にしか見えない。
しかし一定の条件をクリアすると、霊はそれなりに気軽に姿を現せるようになる。霊能力を持つ人は決して多くないのに、怪談話は山のようにある理由はこれだ――ある程度の人に認知され、怪談となり、場に完全に定着すれば――俺のような人間にも見えるようになる。
朝の拍手音と同じだ。全員が音を認知し、全員が音を恐れ、全員が怪異の存在を確信する、そうなれば俺の前でも怪異は安定した様子を見せる。
といっても限度はあって、俺はどうあっても「幽霊そのもの」を見ることは出来ない。
倉庫の中には俺と二階しかいなかった。
影響範囲が倉庫の中だけで済んでいるならいいが、体育館全体にまで及んでいるとすると、巻き込まれた人間は数十人以上にのぼるだろう。
空間ごと支配できる、それほどまでに強い存在がここに居るということ。
用心しよう――と、二階は言っていた。奴なりに気を配っていたはずだ。俺はどうせ何も感知できないのだからと気楽にしていたが、そもそも離れなければよかった。
せめて手を伸ばせば届く場所に居れば、離れても数歩の距離であれば、はぐれてしまうことはなかったはずだ。今や、二階のみならず誰にも出会える気がしなかった。
窓の外は赤に染まり、完全に俺は異界に閉じ込められてしまっていた。おそらく二階も無事ではない。
きっと今頃吐き気に襲われているだろう相棒を少し哀れに思った。
朝、暇すぎて確認した「本日の日没時刻」までにはあと二時間以上ある。
二階があれほどまでに夜を恐れていたことを思えば、最低でもそれまでには片を付けたほうがいいだろう。
左手で壁に触れる。もう一度、この壁を伝って進んでみよう。
せめてドアにたどり着ければ、ドアを開くための試行錯誤が出来る。
迷路を進むような気持ちで、左手の壁の感触を頼りに進んだ。
しかし途中から壁は腐敗したように溶け始め、甘い異臭を発し始めた。
色も奇抜な緑色に変色している。
このまま歩いたって地獄にしか行けねぇな、と思ったあたりで足を止めた。
思い切って壁を殴ってみる。肘のあたりまで入り込み、濡れた。
俺は腕を引き出し大きくため息をついた。
こんなぶよぶよのものを辿っていってもダメだ。
しかし道を戻る気にもなれなかった。そもそも俺は本当に歩いていたんだろうか。
本来ならとっくに体育館の外、なんなら正門の外にまで出ていてもおかしくないほどの距離を進んでいる。空間が歪み、進ませてもらえていないのだとしたら、このまま同じことを続けてもしょうがない。
では、どうする?
と、まるで俺が覚悟をするのを待っていたかのようだった。
ぶより、と壁が膨れ始める。俺は数歩引いて距離を取ったが、しかし壁から離れすぎると次は光を失うことになる。この壁の傍にいるしかないのだ。しかし――あの膨れ具合はなんだろう。人の形のような、蜘蛛の形のような、とにかく異形のなにか。クッキーの型抜きを行ったかのように、壁がくりぬかれていく。小さい泡がはじける音が聞こえる。風が通る。向こう側の闇が見える。
――もはや視界には、緑の巨大なスライムしかない。中央に人間が一人入れる空白のあるスライム。それは巨大な棺のようにも見えた。
そう、多分。幽霊が、いるのだ。
あの空白に存在しているのだ。俺にだけ見えないのだ。
動いてはならない。
そう思うのに、足が勝手に後ずさりしていく。
俺は何をすればいい?
――いや、違う、二階はいない。思い出せ。思い出せ……
とにかく朝と同じ対処をしよう。目を離せばその瞬間に襲われるように思えて、少しも視線を動かせないままに手探りで鞄の中から護符を探る。一つ、二つ、三つ……すべてを引き出して、視界に入るよう持ち上げる。
『青、退魔用』――あった。
俺の目には古びた紙にしか見えない。とりあえず、朝やったように投げてみる。
――効いてくれ!
お祭りの屋台。子ども用の輪投げ。この距離なら簡単だった。護符は飛び、穴のなかに入った。しかし朝のように燃え上がることもなければ、何かを退治した様子もなかった。つまり、大切な護符はそのまま闇に消えていった、ということ。
外れてしまったのか、それともこの護符では効果がないのか。分からないが、少なくとも効いたようには思えない。
「……そー簡単にはいかないってわけか……」
他の護符をそれぞれ投げてみてもいいが、しかし俺はこの古い紙のことをあまりにも知らなさすぎる。二階だって、俺が適当にガチャガチャみたいに引いた順で投げつけることを想定して作ってきたわけではないはずだ。
『護身用』とある赤だけは使ってもいいような気がしたが、根拠はない。
『呪術用』『返魂用』『万が一の時用』は、本来触れることすら許されていない気がする。
つまり、護符はもう使えない。
二階はどうしているだろう。
そして今もしもここにいたら、何をしただろう。
目の前に霊がいる。多分いる。それを祓わなくてはならない。
護符はあるが使えない。自分の身体は動く。声も出せる――そういう場合。
「ええっと……」
思い出す。記憶力は悪くない。
浮気調査の仕事では、走り去る車のナンバーを瞬間記憶したこともある。
思い出せ、思い出せ。
二階の代わりに、やらなくてはいけないことがある。
たしか、そう――りん、びょう――
――これは元々、中国道教の護身術なんだ。
二階の声が響く。
そうだ。りん、びょう、とう、しゃ……
「りん、びょう、とう、しゃ、かい、じん、れつ、ぜん、ぎょう!」
合っていたのだろうか。たしか漢字もあった気がする。
一つめの「りん」はたしか「臨」だったと思うのだが、その先は全く思い出せない。
ひらがなの気持ちでやって効くのかこんなん――。
と思いながら、九字を切る。
そう、九字、九字だ。
これは指と音だけで行使でき、僅かだが退魔の効果を持つ。
効くかもしれない。効かないかもしれない。効かない可能性のほうが高い。
しかし、何もせず突っ立っていられるか。
ただ九つの呪文を唱えながら、指を動かしただけだ。
それなのにものすごく疲れる。肩で息をしている。
さっきまでいくら歩いても疲れなかったのに、今はもう立っているだけで辛いほどに。
変化はわずかだった。
しかし確かに変化はあった。極彩の緑が、枯れるようにくすんでいった。
ぼんやりと見つめている間に、変色は染み入る速度で広がっていく。
何かが何かを食い殺すかのような悠然とした態度で、壁全体が枯れ果てていく。
崩れるのだろうか、とふと思った。
俺自身がなにかをやったのだという感慨が、何故かひとかけらもなかった。
ここにたった一人で立っているということがどうにも不思議に思える。
なにかが崩れていく音を聞いた気がした。
その轟音は、今はまだ遠くにある。
俺にも聞こえる。俺は目を閉じる。俺は、俺は……