006
滝山少年から聞いた話を二階へ伝える。
怪異現象は生徒たちにとって日常茶飯事のことであり、滝山少年自身も毎日霊視していること。霊を見ている間は少し夢と現実の区別がつきづらいらしいこと。
その霊というのが、滝山少年の好きな相手であるという事実は、まあ、本人の極めて個人的なプライバシー的領域に属すると思われるので、秘密保持に徹することにした。
なるほど、と二階は手帳にメモしながら頷いた。
「ここの子、ちょっと特殊だな」
「そうか? いい子たちばっかじゃん」
「そういう話じゃない。霊を信じてないって子に、俺たちはまだ一人も会ってない」
「ああ――たしかに」
霊はいる。化物もいる、神もいる。この世にゃ悪魔も怨霊もいる。それを俺は知っている。
でも、この国は一応先進国だ。霊は公式にはいないということになっている。
この国にいる怪異たちの密度を考えれば、国民誰しも霊か化物か、とかくも異形のなにかと遭遇した経験が一度ならずあるはずだ。にも拘わらず、「自分は霊を見たことがある」と信じている人間は殆どいない。
俺のようになんにも見えない(ある種の)特殊体質ならばともかく、霊の存在をたしかに感じたことがある人だって、さまざまな理由をつけてその経験を棄却している。
ただ影を見間違えた、夢を見ていた、誤解だった、錯乱していた……
「中学生なら、もう十分『お化けなんていない』に染まっていてもおかしくない」
「たしかにな。しかしここの子たちはみんな、霊に慣れてる。霊を祓いにきた怪しげな俺たちを素直に受け入れて、協力までしてくれる」
「ああ。異様だ……」
しかしある意味、この学校は二階にとってかなりやりやすい現場であるのに違いない。
本来なら、霊の話をする前にある程度の信頼関係を構築したり、こちらの能力を証明したりしなければならないこともある。
しかし力を見せればすぐに信じてもらえるのかというとそう上手くはいかなくて、ペテン師のレッテルを貼られてしまい以後話ができなくなることだってある――時には俺は、二階のことを一緒に怪しむそぶりをして共感させ、情報だけ一人でもらってくることもある。
二階ねー、あいつの言ってること意味わかんなかったでしょ。ま、幽霊なんていないと思うけど、プラズマ、気圧低下による頭痛、ガス漏れ……とかが複合的に発生したら、心霊現象とごくごく似た状態になることもあってさー。理由調べてみるから、とりあえず教えてよ。
とか、言うわけだ。
あんまりいい仕事じゃない。ここは俺にとっても楽な現場だ。
「つまりそれだけ、霊や化物の存在が当たり前になっている、ということだ。早くまともに戻してやろう」
「どうかなー、できるもんかなー」
「全部は無理だろう。この世界は決して生者のためだけのものでもない……しかし、あまりに多すぎる。多少は減らして帰りたい。そこで、ちょっと危険なんだが、一緒にやってほしいことがあるんだ」
ほーん。やってほしいこと、ねぇ。
なんだ? と眉だけ持ち上げそのまま黙って二階の返事を待つ。
「現場検証」
「なに?」
「もう一度、倉庫のなかを見てみよう」
*
犯人は殺人現場に帰ってくると聞く。では、幽霊は? 怨霊は? これらもやはり、一度怪奇現象を「起こした」ところに帰ってきてしまうのだろうか?
「というか、地縛霊って線もあるからな」
あ、そっか。そもそも人間と違って、その場から動けないっていうパターンもありえるのか。むずかしー。
「たしかに、同じ霊が隣町にも出た、みたいな話ってあんま聞かねえな」
「そう。そもそも霊というのは動かないんだ。なんなら井戸の中にいる霊はそこから這い上がることすらできない。上下左右前後、どの方向にも縛られている」
「なるほどねぇ。で、朝の幽霊もここにまだいると?」
「……幽霊、でいいのかどうか分からないが。とにかく異形のなにかということしか分からなかった。しかし成仏したような消え方ではなかったから、まだここにいる可能性は高い」
あ、そっか。霊じゃなくて化物って線もあるわけだ。俺にゃ関係ないことだが、相手が何者であるかによって二階のとる対処も変わってくるらしい。
「とにかく用心しよう。幸い今日は晴れで、日も出ている。校長に聞いてみたところ、今までに体育館倉庫で死人が出たり大けがした生徒が出たりといったことは無いそうだ。二人で行けば、最悪でも今朝程度のイベントで済む」
「……りょーかい。でも、意地は張るなよ」
俺が一人で入っても、霊視が出来ないから意味がない。二階が一人で入っても、霊の力にあてられちまうから意味がない……どころか、一方的に霊に襲われる可能性がある。だが二人なら、まあ、護符さえ無くさなければ問題ない。二階が無理をしそうなら、俺が担いで逃げりゃあいい……いや。
「待てよ。俺さ、札の色分かんなかったじゃん? もう一人いたほうがいいんじゃないの?」
「ああ、あれは悪かった。ほらちゃんと」
と、二階がジッパーに入った護符たちを俺に見せる。一つ一つに、丁寧に付箋が貼ってあった。青、退魔用。赤、護身用――
「ほー、家計管理してるお母さんみたいだな」
「うるさい、黙って持ってろ。これで問題ない。さ、入ろう」
二階が体育館倉庫のスライド戸を開けた。ガラガラと大袈裟な音が鳴って、ちょっと地響きみたい。たかだか六時間ぶり。窓から入る光の角度以外、朝となんにも変わらない。
「なにすりゃあいい?」
「とりあえず、残滓を確認する。お前は物理的に朝と違うところがないか確認してみてくれ」
言って、二階は手をついて床をよくよく観察し始めた。そういや、あんなに燃えてたのにどこにも灰が無いな。二階には見えるのかもしれない。
物理的な変化、ねぇ……ま、要は『俺がなにか見つけるからそれまで待機してろ』って指示だろう。一応ぶらついてみる。跳び箱でできた谷を、身体を横にして通り過ぎ、体操マットに寝転んでみる。窓の開き具合も、天井の色も、壁の古臭さも、特に何も変わらない。何個か、何に使うのかよくわからない体操用具を発見した。三又の不思議な形。なんだ、これ? 中学生の頃にも、何に使うのか謎だったなー、なつかしー、とか思いつつ通り過ぎて倉庫内を一周。意外と広いもんだ。でも、大の大人が何分も時間をつぶせるほどじゃない。二階は未だに熱心に調べを続けているようで、時折ペンで何かを書きつける音が聞こえていた。
やることがない。
しかし二階の邪魔をしてもしょうがないので、滝山少年の淡い恋心のことを思い出したりなどしながら体操用具を動かしてみることにした。暫く使われていないのだろう、なんだか鉄パイプの接合部が軋む。ちょっと力入れてみるか、えいっ。
――と、いうのが大失敗の源で。
鉄山が倒れるみたいな音がした。ガラガラ、ドッシャンと何かが割れる音。ワイングラスを半ダース同時に割ってもこれほど酷くはならないだろうというほどの音だった。
「藤田?」
うおっ、すまん。とりあえずこれを立て直さなくては。何に使うのかよく分からなかった名称不明の用具は、もはやただのパイプになっていたが、一本が結構でかいので支えるのがキツイ。お、おう……とか適当に返事をしている間に、もう一度二階の声かけがあった。
「藤田、どうした?」
どうしたどうしたって聞くだけじゃなくて、ちょっとはこっちに来てくれよなー。と思いつつ、ようやくのところで用具を元の姿勢に戻せた。はー、きっつ。ちょっと動かしたぐらいで倒れるようなやわな作りにしないでほしいもんだ。古くて弱くなっていたのかもしれない。
「おう、悪い悪い。ちょっと倒しちゃってさ」
「倒しタ? 藤田、大丈夫か?」
「うん、そう、倒し……二階?」
倒した。でも大丈夫。そう言おうとした。しかし――
振り返った倉庫内が、やけに暗かったのだ。曇りになったのだろうか、と窓を見る。しかしそこは塗りこめられたように黒かった。外から黒画用紙を貼る悪戯でもされているかのように。
そしてそもそも俺の知るあいつは、俺が何かをやらかした時、物より先に俺の心配をするようなやつだったろうか。
「藤田、どこにいる? 藤田?」
やけに慌てたような声が聞こえる。俺はそれに返事が出来ない。
「藤田、大丈夫か?」
次は困惑の声。どちらも二階の声だ。彼らは俺の返事を待たず、間髪入れずに俺の名前を呼ぶ。
「おいおい、そこにいるんだよな?」
「怪我はしていないのか?」
「返事をしてくれ。返事を……」
「どこに行った? 藤田?」
まるで切れ間のない発声。これでは俺が返事をする隙がない。そもそも饒舌な男でもないくせに。
――では、この声たちは一体何者なのか。
「ああ、そこか?」
ほっとしたような二階の声がした。やがて足音が聞こえる。幽霊には足がないんだから、足音がするならそれは人間の二階のはずだ。俺のほうも少々ほっとした――が、その音が遠ざかっていくと気づくのにそう時間はかからなかった。
待て。違う、どこに行こうとしている!
「――二階!」
何度か呼ぶ。しかし返事がない。どうやら声が届かない場所まで行ってしまったらしい。携帯を見ると圏外だった。今や数歩先すら闇に包まれて、なにも見えない。歩いても歩いても扉にたどり着かない。
「いやいやいや……こんなことがあってたまるか……」
同じ体育倉庫の中にいたのだ。靴箱や用具で多少見晴らしが悪かったとはいえ、それなりに大きい倉庫であったとはいえ、はぐれるわけがない。倉庫の外に出て行ってしまったのなら、出ていくときのドアの開閉音に気が付かないわけがない。あんなに大きなスライドドアなのだ――ガラガラと、煩いぐらいに音が鳴るはず。ということは。
閉じ込められたのだ。俺も出られない、ということは相当に強い霊が現れたということで、二階がその力にあてられないはずがない。
しかも、護符は俺が持っている。