004
「……これは、わたしが二つ上の響子先輩に聞いた話なんだけど」
体育館倉庫の中、二階と俺をいれた八人での怪談が始まった。
朝からホラー話なんてなあ、と笑った俺だったが、カーテンを閉め、こうしてみんなで体操マットの上に座っていると、朝でもなかなか雰囲気がある。
学校、っていうロケーションがまず怖いよなあ。
床も壁も、数十年の恨みや嫉みをしっかり染み込ませている。
それがワックスによって毎年塗りこめられていてどこにも逃げられない、その怨嗟の地層の上に俺たちは座っている。
「校舎の中は、みんなも知ってる通り、怪談が多いよね。
でも、これはゴミ捨て場の話。ごみの焼却場のあたり。
そう、あんまり行っちゃいけないって言われているところ。
あのあたりに、井戸があるの知ってる?
といっても、一見しては井戸だとは分からないかもしれないの。
落ちないように塞がれてるし、絵本みたいにレンガで出来てるわけでもなくて、ただのコンクリだから。
あそこね、なんで塞がれてるのかって、実は幽霊が出るからなんだって。
この学校ってそういう話結構多いけど……昔井戸に落ちちゃった女学生の霊で、毎晩、仲間が欲しくて井戸から手を出して誘うらしいの。
用務員さんが夜に見ちゃったらしくて、あそこは出るんだって。
でもね、見るたびに、毎回すこし手の形が違うことに、ある日気がついちゃったのよ。
いつも一本、どれかの指がないんだって」
ひっ、と俺の右に座っている少女が小さな悲鳴をあげた。
幽霊が誘ってくる――それだけなら、よくある怪談だ。
しかし、その幽霊の姿が逐一変わる、というのは少々珍しい気もする。
少女は続ける。
「親指、人差し指、薬指……毎回違うらしいんだけど、なぜかちゃんと揃わない。
用務員さん、見るたびに、どれがないんだろうって気になっちゃって、ある日すこし井戸に近づいてみたらしいの。そしたら声が聞こえたんだって」
語り部の少女はここで一拍おいて、大きく息を吸った。
そして芝居がかった囁き声で幽霊の声音を真似る。
「わたしの指よ、こっちにおいで……」
向かいにいる二階が一瞬顔を歪ませたのが分かった。
霊能力がある人間は、みんな怪談話を嫌がるもんだ。
「そう。多分、ほかの人の指を探してたの。
あとで調べたら、死んじゃった女の子はピアニスト志望だったのに、井戸のなかで死んだとき、がれきが崩れたせいで十本の指が全部だめになっちゃったんだって。
……そう、今でもピアノが弾きたいんだって」
そう言い終えると、少女は憑き物が落ちたように大きく息を吐きながら肩を落とした。
ひー。恐ろしい。二階もめちゃくちゃ嫌そうにしている。エンタメ感覚で怪談を聞ける俺と違って、あいつは直撃受けるからな。
……そして、俺は少女たちを見まわす。
わざわざ二階と向かい合いに座った理由はこれだ。お互い視界をカバーし合えるようにして、この中に「霊感に強い子」がいないかどうかを確認する。
霊も化物も天使も悪魔も、一切見えない俺だけど、生身の人間の顔のことなら分かる。
霊感が強い子は、二階と同じくこの怪談話で体調を悪くするはずだ。
そういう子は、普通の子より霊と濃い接触をしている可能性が高い。
実体験を持つ子がいれば――その子の話を鍵にして、怪異の正体が掴めるかもしれない。
どの子も神妙な顔で話を聞いてはいるものの、特別霊に怯えているような顔つきの子はいなかった。
てか、一番具合が悪そうなのはうちの二階だな。
……ま、二階よりも霊能力が強い子がここにいたら、それはそれで問題だが。
二階に目配せする。あちらも同じ結論に達したようだ。
「あぁ怖かった。じゃあ、次は私ね」
と、新田さんが場を仕切りなおすように言って、少し場が緩んだ、その時だった。
「……なにか、聞こえませんか……?」
新田さんの隣の女の子が、倉庫の入り口を見た。
体育館では、男子バスケ部が練習を行っている。だから、音が聞こえること自体は、まったく不思議なことではない。
事実、今も遠くのほうから、ボールを打つような音が聞こえている。
しかし彼女らの表情から察するに、この音のことを言っているわけではないだろう。
みんな耳をすませながら、倉庫入り口のほうを見つめている。
やがて、聞こえる、と一人が頷く。もう一人、もう一人と……二階も頷いている。
「なんの音だ……?」
ボールの音は依然として規則的に聞こえている。
パン、パン……
違う。これは手を打つ音だ。
まるで、誰かを呼んでいるかのように。
「おい、誰かいるのか?」
「やめろ、藤田」
二階が俺を止める。
いや、だって。遠くから誰かが……
と、思って。みんなの顔を見る。
「……お兄さん……これ、おかしいよ……」
新田さんが震えていた。
少女たちはみな眉をひそめている。
後ろのほうで一人が小さく悲鳴を上げた。
パニックが少しずつ伝搬している。
「おいおい、まだ朝だぞ?」
と言った俺の声に食いつくように、パン! と、遠くから大きく手合わせしたような音が聞こえた。俺の耳にも聞こえた。
「きゃあ!」
一人が叫ぶ。悲鳴が続く。少女たちは怯えて蹲り、三人ずつぎゅっと身を寄せ固まった。
パン! パン!
まるで、神社にお参りするときのような、二拍子。
いや、この例えはよくないな。
まるで本殿の中にいるのが、俺たちのほうみたいだから。
「ねえ、二階さん……」
新田さんが二階の腕を引く。
「……それ、誰……?」
新田さんの顔からは血の気が引いていた。彼女の目は倉庫の扉の一点に釘付けにされている。
すべての少女が同じ状況だった。もはや誰も叫びはしなかった。俺にはもちろん、何も見えない。
「藤田、まずい」
「……何すりゃいい?」
二階の額に汗が滲んでいる。ぜんっぜん分からないが、どうやらヤバい状況らしい。
……なんだよ、皆さん、見えてるってのかよ。
二階が頷く。そのまま椅子から立ち上がり、床を覗きこむ。何してんの?
……いや、違う、これは。多分吐きそうなのだ。
「護符を取って」
二階が倒れそうなことを悟られてはならない。
生徒たちはみんな不安げに……しかし、きっとどうにかしてくれるんだろう、という顔で二階を見ていた。ま、俺がなんとかしそうには見えないわな。
二階も自分の立ち位置はよくよく理解しているらしい。
今や蒼白となった顔色が見えないように髪を垂らし、隙間から片目だけが覗く。
霊が見えない俺には、正直二階のほうが怖い。
言われた通りバッグを漁る。護符はいくつかあった。
「どれ?」
「青いの」
「全部茶色の古紙なんだが……」
二階がしまったという風に顔を顰めた。
あー、そういうことね。これ、皆さんには色がついて見えんのね……
で、どれなんだよ。
と二階に見せようとしたものの、二階はもう完全に蹲ってしまっていた。
音はずっと続いて聞こえている。パン、パン。パン、パン。
「ね、にっちゃん」
「……なに? ねえ、お兄さん大丈夫なの!?」
新田さんが怯えた顔で俺を見る。
「これは青色?」
「赤……だけど」
「ありがと。これは?」
「ねぇ、それは何なの!? なんでそんなに禍々しいの!」
新田さんは耳を抑えながら立ち上がる。
今にも叫び出しそうな彼女を、周囲の女の子が留めるように手で支えている。
まったく、こんな恐ろしい目に遭わせるつもりじゃなかった。
「ごめん。でも答えて。これは青?」
新田さんは、二階に負けず劣らずの白い顔で頷いた。
――よし、これだ。
俺はその一枚を引き抜き、みんなのほうを見渡す。
そして彼女たちの視線が集まる先を確認し――俺にとってはなにもないように見える空間を、睨んだ。
「そこにいるな?」
弓を引くように後ろへ腕をやり、身体全体をしならせて護符を投げる構えをとる。
とくに呪文を唱えたりする必要は、ない。
「あぶない!」
え? いや、知るか!
もはや止めようがなかった。勢いのままに慣性のままに、俺の腕は振り下ろされて、護符は一直線に空を切る。
――行け!
俺の願いが届いたのかそうではないのか、護符は空中で唐突に静止し、それから踊るようにくねる。そして唐突に燃え上がり、二秒ほど空中で酸素を使い果たしてから、隕石みたいに墜落した。一瞬、それは鬼火のように見えた。俺からしたらこの時点でかなりホラーだ。
背後で子どもたちのため息が聞こえた。安心したときにするタイプのため息。
ということは、俺はナニカを祓うのに成功したんだろう。
二階も立ち上がった。
「俺、やった?」
「……ああ、や」
二階が答えてくれようとした、が。
「――すごーい!」
それこそ爆発するみたいに、少女たちの声が重なってどっと沸いた。
ぐるりと俺は取り囲まれる。あっ、いま二階の膝蹴らなかった?
「今のなに? どうやったの?」
「陰陽師ってやつ? 初めて見た!」
「アイツ、一瞬だったね! これってお守り?」
「あたし、金縛りみたいに全然身体動かなかったのに。お兄さんって慣れてるの?」
「……あの、化物に臆せず向かって行って――ほんっと、恰好良かったです!」
口々に少女たちがきゃあきゃあと騒ぎだす。最初は俺を持ち上げてくれているのかと思ったが、どちらかというと女の子同士で今起きた経験を消化しあっているというほうが正しそうだった。とりあえず謙遜だけはしておくか、と俺は口を開く。
「いやいや、俺は別に――」
「私たち、全然何もできなかったから。あの護符って、お兄さんが作ったものなんですか?」
「いや、俺じゃないけど、うちの事務所で作ったもんだよ」
「お兄さんの事務所! すごーい!」
いや、俺の事務所……って言い方をするとちょっと違うわけだけど。
ま、でも、俺と二階がすごい人間だって思わせておくのは、今後のこと考えてもそう悪いわけじゃないだろう。
よかったあ、と泣き笑いする少女たちを見ながら、いいよなあ、若いって。と思う。
――柔軟性がある、というか。
「なあ。こういうふうに霊に襲われるのって、初めてじゃなかったりする?」
「ここまで強いのは、初めてかも。あ、でもチヨは?」
「私は一度だけ。でも、その時はとにかく『逃げた』って感じ。こんなふうに戦うなんて絶対ムリ」
「だよねぇ」
だんだん落ち着いてきた彼女たちの輪をいったん抜けて、おれは未だ肩で息をするばかりの二階の傍らに立つ。
「お疲れさま」
「……俺はただ蹲っていただけだからな」
「ご謙遜」
手を差し伸べ、引き上げて立たせる。二階の汗はようやく引いてきたようだった。
「怪談話をした程度でこれだ。気を付けよう、想像よりもかなり強い」
「何がいた?」
「少しも見えなかった? 餓鬼、かな。一目で人間ではないと分かる容貌をしていた」
「一切見えなかった。まあ、みんながギャーギャー言ってたから結構ヤバそうだってことは分かったけど」
「なるほど。俺には、彼女たちの悲鳴は聞こえなかった。彼女たち自身もそうじゃないかな……かなり酷いラップ音だったが、餓鬼が入ってくると止んだ」
ラップ音というのは、霊に遭遇したときに聞こえる様々な雑音のことだ。何かが割れたり、破れたりするような、どこか不快な音であることが多い。非連続的に不規則に、不安定に聞こえる。霊の力が強まれば強まるほど、音も大きくなる。俺にも多少は聞こえていたけど、二階たちが聞いていたのはそんな可愛らしいレベルのものではなかったようだ。
餓鬼。
「ってことは、鬼がここにいたってことか?」
「『鬼』と聞いて想像するものとは、ちょっと違うかもしれない。死者の霊がこじれたもの、というふうに考えてくれれば」
なるほど――……そういうものが跋扈する学校で、あと三日は調査をしなきゃいけないってわけだ。
とりあえず、今日の怪談話はこれでいったん終わりだろう。怖い思いをさせたので、続きを話してくれるとも思えないし。調査、どうすっかなー。コイツ、もうちょっと話聞きたいってゴネたりしないよなー、と一抹の不安を抱えつつ相棒を見る。ああ、と二階は頷いた。
「まだ礼を言ってなかったな。ありがとう。助かった」
「……。おう」
全く。これだから困る。偏屈で、仕事好きで、生真面目で、意地っ張りなくせに、感謝だけはやけに素直にするところ。こういう真っすぐさと繊細さが、霊に好かれる性質なのかね。
……ってこれだと俺がめちゃくちゃ性格拗れた大雑把野郎ってことになっちまうじゃん!
ま、霊にも好みってもんがあるんでしょう。俺もアイツも、そんなに見た目のレベルは変わんない気がするけど、やっぱり日本の怨霊たるもの、黒髪の男のほうが好きってわけだ。霊も見えず、護符に書いてある文字がどこの国のものなのかも知らない俺は、このようにして二階の役に立っている。