001
<おいなり清掃編>
はー、サッパリした。
左手のタオルで髪を撫でつけながら、自席への道を戻る。髪が長いと、とにかく乾かすのが面倒だ。
一応ドライヤーを一通り当てたつもりではあったが、雫が飛んだらしく松原に小言を言われた。ごめんごめんって。
席に着き、午後の予定はなんだったろうかと事務所共通のスケジュール表を見やったところで――俺の名前の下に、赤い羊のマグネットが貼られているのに気が付いた。
「……あれ、なんか悪いことしたっけ、俺」
赤羊。それは《所長が用がある》の印だった。
うげー、と顔をしかめる俺の肩を、所長が叩く。
「――説教じゃなくて、ちょっとしたお願いだよ。一仕事行ってきてくれないか?」
振り返ると、コートを羽織ったままの所長がそこにいた。ブーツにはまだ溶けかけの雪が乗っていて、おそらく帰ってきたばかりなんだろう。車のキーをくるくると右手で回転させながら、左手でひらりと一枚の依頼書をよこしてくる。
その紙を素直に手に取る気になれず、俺は一旦嫌がってみることにした。
「俺、今帰ってきたばかりっすよ?」
「でもシャワーは済んでるじゃないか。
いやー、よかったよ、お前が二階くんみたいに長風呂じゃなくて」
二階が聞いたら、自分が長いんじゃなくて俺のほうが短すぎるんだって小言を言ってきそうだ。二階はそもそも服や髪が汚れるような仕事なんて殆どないから、職場のシャワー室を使うこともほぼないが、入ると長いので有名だった。
「依頼内容は?」
「お片付け。安心しろ、個人宅じゃなくてとある施設の整理手伝いだよ。
二部屋ほど頑張って片付けて欲しいらしい」
所長は微笑みを崩さないまま、依然として依頼書をこちらに突き付け続けている。根負けした俺はそれを受け取って、そこに記載されている整然とした依頼文を一通り読んだ。
とある検査施設。年に数回だが、ものがなくなることがあり、盗難を疑っているものの誰かが持ち出した証拠はない。監視カメラの設置を今年の予算で急遽行えることになったが、工事に備え、機密文書の箱詰めを急遽二部屋分行わなくてはならなくなった――
「ふーん。写真だけで見積取ったんすか?」
「そう。本来、清掃業務とお引越しは現地調査の上での見積が必須だけど、今回はかなりお急ぎってことだったんでね。特急料金支払ってもらったから、単価は割高だよ」
未調査の見積ってことは、『現地へ行ってみたら想定が外れてた』ってリスクもあるわけだ。
しかも現地遠いから、すぐ応援も呼べなさそーだし。
ちょい面倒くさそうな案件だが、すでに受注している以上は四の五の言っていられない。
「まー、じゃあ行ってきますよ。なんか想定外のことあったら電話すればいいっすよね?」
お気楽な所長のことだ、安請負した俺の返事に飛び跳ねて喜んでくれるかと思ったが、返ってきた言葉は意外にも慎重なものだった。
「ああ、勿論それで良いんだが……一応、二階も連れていったらどうかなと思ってる」
えー、それは大袈裟なんじゃないか。あいつだって忙しいだろーし。
二階。奴は、心霊がらみの調査案件限定で俺とペアを組む相棒だった。
この事務所は、興信所・清掃屋・オカルト相談屋としてありとあらゆるお困りごとを個人法人問わず受け付けており、小粒な案件もさっくり解決をモットーにしている。
興信所と清掃屋を兼務してるのは別にいいんだけど、オカルト相談も受け付けてるってのはちょっと珍しいよな。その、オカルトあるいは心霊的なスキルを持った調査員の一人が、二階だった。
「別に大丈夫じゃね?
依頼者からは、特にオカルト的なことがどうこう~とは言われてないんすよね?」
「だが、ちょっと怪しいだろ。
この写真もなんていうか……心霊写真のようにしか見えないし」
そう言いながら所長が指さした画像には、限りなく質素な部屋が映っていた。
だが、個人宅ではないから物の仕分けも簡単そうだし、安めの金額で収まりそうだ。
さっき依頼書に追記されていた見積金額は、確かにちょっとふっかけた感がある。
……にしても。
「心霊写真、っすか? これ」
「なんか、壁のあたりとか、っぽくない? この辺、顔に見えない?」
「……見えないっすけど」
「お前に心霊的な感性を求めたのが間違いだったかあ」
所長がわざとらしく天井を仰ぐ。だがまあ、所長の言うことはもっともだった。
――俺は、霊が見えない。
なんて言うと、普通は見えないよという声が多数聞こえてきそうだが、俺の「見えない」はどうやら筋金入りのようなのだ。
この相談所に入るまでは、霊の気配を感じたことなど一度もなかった。
寺に入っても墓地の横を通っても、背筋の伸びるような感じを味わったことがない。神社の鈴はなんだかおもちゃが下がってるようにしか見えない。無宗教の人間なら当然みんなそんなふうな価値観で人生やっていってるんだろうと思っていたが、案外そうでもないらしい。
どんな人間でも多少は持っている、心霊やら精霊やら神仏に対する最低限の感性というものを、どうやら俺は一切持っていない――ようなのだ。
「まあ、とにかく、荷物の詰め作業だけなんすね。
後日、開封のためにもう一回行ったりとかは?」
「いや、そこはご自分でなんとかするらしい。
あくまでも今回は、明日の工事にとにかく間に合わせたいとかで――」
「あ、あした?」
「で、作業時間は夕方以降にしてほしいらしい。
検査場が稼働していない時間帯にさくっと片付けて欲しいそうだ。
今日の十六時から、行けるか?」
ん? 俺は改めて依頼書末尾についていた地図を見る。
えーっと、車で一時間だとして、十六時ちょっと前に着くためには――
「……ってことは、十分後には出発?」
「藤田は体力が化物なんだから行けるだろうか、と思って」
「……まあ、たしかに行けないことはないっすけど」
午前の仕事は楽なもんだったし、今回の仕事は単価もいい。しかも受注済み。
断る理由が、俺には見つからなかった。しかし。
「俺は良いっすけど、二階はどうですかね」
「本人に聞いてみたら?」
そう言う所長の肩越し遠くに、二階の長身が見えた。
今帰ってきたところらしく、なんだか顔が暗いが、まあいつものことだ。
ロッカールームに向かったのだろうか。
「所長、聞いてきてくださいよ」
「そちらこそ……」
もう仕事ごと俺に引き渡したとでも言わんばかりに、所長は席へと帰ってしまった。
二階のスケジュールを確認したところ、たまたま午後は空いているようだ。
といっても、デスク仕事がある二階のような調査員は、俺と違って会社でやることが山ほどある。
はーあ、聞くの面倒くせえなあ。と思いながら、自席へ帰ってくる二階を待つ。
二階の席は俺の後ろ斜めだったから、椅子をくるりと回してロッカールームの入り口を見張っていればいい。やがてやはり機嫌の悪そうな二階が、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「おかえりー」
「……ただいま」
すぐパソコン開けて仕事を始めかねない二階を牽制するために、俺は笑顔でひらひらと手を振った。
二階も俺を無視しづらかったようで、こちらをちらちら見ながら鞄の片づけをちんたらとやっている。
よーし、今だ。
「二階って、今日はこのあと外出なし?」
「ああ。そちらも仕事帰りか?」
「そーそー。今ちょーど、シャワー浴びてさっぱりしたところ」
「さっぱり、ねえ……」
いやなんで溜息つくんだよ。
ちょっと話盛り上がってから、午後の仕事付いてきてーって頼みたいところだが、雲行きは怪しい。
「一応聞いてからにするか。どんな仕事だったんだ?」
「一応ってなに? ふつーに個人宅の清掃だよ。
一人暮らしにしてはけっこー汚してたおうちだったけど、床とかの浸食はなかったから楽なもん」
「ふうん。近くに寺はあったか?」
「えー? ああ、そういえば、横が墓だったな」
「なるほどな――」
鞄を漁ったままだった二階が、ようやく何かを探り当てたというふうに、右手を引き抜いた。
そこには何かしら難しそーな呪文の書かれた護符的なものが握られている。
なんだそれ、と聞く暇もなく、二階はさっぱりしたばっかの俺の肩にその古めかしい護符を貼り付けた。
何分古い紙なんで、粉が舞う。着替えたばっかりだってのに。
「…………え?」
「なんか憑いてた。普通、肩が重くなったり気が塞いだりするものだがな」
えー、ここに? 肩に? 全然気が付かなかった。
「どのみち数日で剥がれたとは思う。
ただ、俺の近くにいられるのはしんどかったから祓った」
「へーへー。どうせ俺には分かりませんよ……」
霊の影響を受けない特殊体質――これが、霊感の一切ない俺が、二階と組まされる理由だった。
近くに霊やら妖怪やらがいると具合の悪くなる二階と違って、俺は肩に何が乗ってようと快調快適。
霊との戦闘の途中でぶっ倒れる二階を担いでいつでも逃げ出せる。
まあ、俺は二階のお守り役のようなもんなのだ。
二階は用は済んだとばかりに、俺に背を向けてそそくさと仕事を始めようとしている。
あっやべ、早く頼まないといけないんだった。
「なー、二階くーん」
「なんだ? 札はもう外してもいい」
「いや、そっちじゃなくて。
ちょっと一件頼みたい仕事があるんだけど。
――その、今から」
「なんだ?」
二階がちらりと俺のパソコンを見る。
ちげーって、エクセルとかじゃねーから。
「片付けの仕事。緊急なんで今日行かないといけなくて、特急料金だから単価は良い。
心霊相談の要素はないけど、所長がなーんか怪しいから二階もどうかってさ」
わざわざ渡すまでもなく、二階は俺の机の上にある書類を見つけたようだった。
依頼書を取り上げ眺めている。
「ふうん……まあいいよ。何時から?」
お、意外と感触がいいぞ。しかし問題はここからだ。
「五分後」
「……五分後?」
二階が呆れたように眉をひそめる。
いや、俺も五分前に聞いたんだってー。
「ところでその部屋、やっぱ変なの?」
「……いや、むしろ、特になにも感じないな。
でも、写真じゃ分からないことの方が多いから、安心はできない」
ひらりと依頼書が返される。
もう一度写真を見つめてみるが、やっぱり俺にはよく分からない。
五分後、俺と二階は喜ぶ所長に見送られながら出発した。




