003
「……よし、大体これでいいだろう」
三室まわって、お札を貼った。室内の優美な雰囲気を崩さぬよう、二階はあの手この手で視界に入らない隙間を探していた。ごっほ、ごほ、ごほ、ごほ。二階がせき込む。とりあえず貼ればいいなら俺やろうか? と申し出てみたが、そんな簡単なものでもないそーだ。そりゃそうか。
「もしかしてさあ、花粉じゃなくて、埃アレルギーとか、あと、食べ物とか? なんか違うやつなんじゃねーの?」
「うっ、可能性はあるな。室内にいても具合が悪いし……自宅だけは、何故か楽になるんだが」
「ほんとになんなんだろうなあ……」
可哀そうだが、病気じゃ俺には何もできない。さっさと病院連れてってやるぐらいしか。
さ、仕事も終わったし、管理人の眞形さんに挨拶だけして帰るか。――と、腰をあげて伸びをした時だった。
「藤田……見えるか?」
「え?」
二階が、一つの本棚を指差していた。特に目立つ本があるわけでも、本が欠けているわけでもない。よく見えないのでもう少し本棚に近づいてみようと歩き始めた俺の手を、二階が押さえた。
「な、なに?」
「行くな。何も見えてないってことだな?」
「お、おう……ってか、ここからじゃ何も見えねーんだけど」
「俺が指差したのは本棚のほうじゃない。もっと手前にいる緑色の化け物のほうだ」
「……えっ?」
もう一度本棚を見る。いや、見えない。俺に見えなくて、二階に見える。ということは――
「いや、そうだよな……確認するまでもない。あれは明らかに『フランケンシュタイン』の怪物だ……」
二階の顔が引きつる。俺は空虚を見る。見えないってのはこれはこれで恐ろしいもんだ。手を引かれ、引かれるままに、俺は二階と部屋の外へ出た。
*
「――あれは、どう考えても異形のものだ」
閉めた扉に二階が札を貼る。それ、ほんとにフランケンシュタインにも効果あんの?
「だろうなぁ。ハロウィンはもう過ぎてるし、フランケンシュタインがふらふら家の中歩いててたまるもんかよ」
「あれの本体がいるはずだ」
「本体?」
「うん。なんだか半透明だったから。多分、完全じゃあないんだ……」
「じゃあ、不完全なうちに倒しちまったほうがいいんじゃないの?」
「うーん……実態がなんなのか分からないことには。見た目はひどいが、危険じゃなさそうだし、たぶん、祓わなくていい可能性のほうが高い」
え、化物だろ。祓わなくていいの?
「そのままにしとくのはナシだろ?」
「いや、そうでもない……あれは、悪魔や怨霊の類じゃない。なにか物に縁があるはずだ。まずはメアリ・シェリーの肖像画を見に行くが――とにかく、不完全なものを探そう。もう半分がどこかにいるはずだ」
不完全、ねぇ……二階が廊下を駆けていく。メアリ・シェリーの肖像画はすぐそこだった。ぱっと見、欠けているものはなかったらしい。相棒は首をひねって絵画を睨み続けている。
「不完全な……もの……ねぇ……」
そんなもの、この屋敷にあっただろうか。本と絵画とレプリカの家具しかないこの屋敷に。絵画のほうは、二階が見ている。俺が見るべきは――
ふと思いだす。あったよな、変な本。さっきの閲覧室に。
「なー、二階。その絵、どう?」
「なんにも分からん……これが本体ではないんだが、やけにこの絵の周りが歪んで見える。関係はある……というか、この絵の周りによくいるのか……? やはり、さっきから気になってはいたんだが……」
「ところでさ、不完全? かどうかは分からないけど、なんか解かれてない問題集みたいなのなら見たけど」
「問題集?」
「そ。なんか普通に本なんだけど、合間合間でたまにヌケがあってさ。なんで解いてないんだろーなー……なんて……」
二階が絵画から目を離して俺を見る。あ、なんか機嫌悪そうだな。
「藤田、絶対にそれが本体だ……上製本の問題集があってたまるか……」
そ、そーなの?
「そうか、本体は本か……それって、回覧室か?」
俺の返事を待たず、二階は歩き出す。
「本のお化けってこと?」
「違う、たぶん、付喪神だ。炎で炙られた程度じゃ消えないわけだ」
「つくもがみ?」
「物は百年大事にされると魂を持ち、付喪神になる。神、とはついているが、いわゆる神仏とはちょっと違う。精霊みたいな感じかな。本の付喪神とは珍しい」
「へぇ……」
霊というよりも、妖怪って感じだろうか。江戸時代ぐらいには、そういうこともありそうだが……。
「なあ。メアリ・シェリー、だったか? そいつって、フランケンシュタインのなかでどんな役割を果たすんだ?」
二階は驚いたように目を丸くしてから、ああ、と笑った。
「メアリ・シェリーは『フランケンシュタイン』の作者だよ。つまり、彼にとってはある意味母親だ」
「ああ……なるほど」
勝手に登場人物だと思っていた。作者さん、油絵で肖像画が描かれるほどの人物だったんだ。まあ、俺でも知ってる小説の作者だもんな。
二階は回覧室に入り、俺が指差す前にその本を手に取った。
「そーそーそれ! よく分かったな」
「よく分かった、も何も……これ、『フランケンシュタイン』の私家版じゃないか」
シカバンってなに? と聞きたたかったが、また馬鹿にされそうだったので俺はやめておく。
「で、対処法は?」
「簡単だ。この本を、メアリ・シェリーの前に置く」
「……それだけ?」
「多分、『フランケンシュタイン』の付喪神であるあの怪物は、メアリ・シェリーの絵を母親だと思っている。その前に行きたいんだが、あまり目がよくないから、迷って館のなかをふらついてしまうんだ。まあ、そのままにしていても害はないだろうが、毎日迷わせるのも可哀そうだ。立派な本だし、メアリ・シェリーの絵画の下に棚でも置いて飾っておけばよく似合うだろう。眞形さんに提案してくる」
……ほー。それだけで、直るの?
「でもさ、危険だろ。炎が出たのは、その本のしわざなんだろ?」
「うーん。違う」
違うのかよ! 洋館で炎が出る。怪しい噂が続く。それって全部異形の者のしわざ……じゃないの?
「最初から言ってるだろ、失火は関係ない。そもそも人ではないものが出した炎なら、たぶん機械の検知にもひっかからず、スプリンクラーで消せなかったんじゃないかな……」
そ、そーなの? もうよく分かんねぇなあ、心霊現象って。
「じゃ、もしかして、ほんとに祓わなくていいの?」
「付喪神は霊でも悪魔でもない。なんなら……こういうのも変だが、自然現象のようなもの、というか……」
いやまあ、それは言い過ぎだと思うが……。
「本って、みんな百年経てば神様になんの?」
「みんなじゃない。大事にされていれば、だ。他の本だって粗雑にされているわけではないだろうが、この本は特に読み込まれ愛されていたんだろう。本棚の中でも手に取りやすいよう下に置かれていたし。眞形さんの趣味かな」
「なるほどなー。でもさ、あの管理人さん、本の趣味もいいみたいだが、霊能力者の審美眼もあるよな。エクソシストには見つけられねーだろ、東洋の付喪神」
オカルト知識がほとんどない俺でも、『付喪神』が日本に伝わる妖怪であることは知っている。エクソシストよりは、道士や僧侶や陰陽師の出番だろう、多分。
「そうとも限らんだろうが、まあ、たしかにそうだな……」
二階はわらった。




