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016


 二階がいつか言っていた。夜は危ない。夜はとにかく怪異の味方をする。


 その意味がようやく分かる。

 あれが、二階の見ている世界。


 ――しかし。これならやはり、なおさら。


「もっと早く知っておきたかったよなあ……」


 自分の見ている世界と、まったく重ならない世界を見ている俺と一緒にいることは、あいつにとってどういう心境のものだったんだろうか。新鮮だったのか、寂しかったのか、面白かったのか、役に立ったのか。――その全てだろう、と俺は思う。


 二階にとって、この視界は彼固有のものだった。

 俺との視差は役に立ったし、新鮮で面白かった。でもきっと寂しかった。

 そのことが今の俺にはよく分かる。手を繋いでは、やはりいけなかったのだ。


「俺もようやく今、寂しいもんなあ……」


 しかし、やるべきことは分かっている。二階がくれた護符を見る。

 それは淡く青く光って見えた。まるで蛍みたいに。

 自分の手すら見えないのに、護符だけは浮いて見えている。


 ――こんなに鮮やかに。あるいは禍々しく。


 俺は進む。階段を進む。吐き気が胃のほうから上がってくる。


 怪異の一つ一つが気持ち悪い。眩暈がする。視界がちかちかと火花が走るみたいに光っているけれど、これが霊のせいなのかただ俺の体調がすこぶる悪いだけなのか、判断が付かない。


 ――こんな、世界で。


 俺は進む。俺は怖くない。俺は知っている。何度も二階に聞かされていたから、分かってる――分かっていたつもりだった。


 足が震える。それでも進む。ここは夢の中だと思い込む。短いはずの廊下は無限にも思えたが、やがて終点にたどり着いた。手洗い場の前に。


 はたして()は其処にいた。


 黒の長髪、けっこうしっかりした上背、日本人らしい顔。人間の顔だ。

 確かに俺たちに似ているという気がした。どちらかといえば、二階に似ている。

 これが――髪の毛の長い幽霊。


 幽霊に万が一会うことがあったら、決して話しかけるな。そう言われていた。そういうことは俺がやるから、と。


 では二階がいない今、彼に話しかけるべきなのは誰だろう?


 彼はこちらを見ていた。目が合っているのかいないのか、どうしてか判別がつかない。


 俺の視界自体がふらついているから、よく分からないだけかもしれない。

 幽霊の前で情けないことだが、いったん座ることにした。

 そういえば二階もよく、座ったまま何かを祓ってたなぁ、と思う。


 俺はここから先、いったい何をしたらいいんだろう。今からどうすればいいんだと、聞く相手がいない。とりあえず挨拶だろうか。


「こんにちは」

「こんにチは」


 思っていたよりも当たり前に、返事があった。

 そういえば、異形のものは嘘をついたり返礼を欠かしたりすることができないんだったか。


 俺は黙っていたし、相手も特に動かなかった。


 彼はこちらを見ている。まだかなあ、とでも言いたげに俺の言葉の続きを待っている。

 暫くすると彼は待ちくたびれたのか、手洗い場のほうへ向き直り、石鹸の点検を始めた。

 俺が昼に使ったから、一番右にある石鹸はすり減っている。それを興味深そうに彼は見ていた。

 しばらくすると鼻歌を歌い始めた。たっぷり十五分以上は経ったあと、石鹸を緑色のネットに戻し、彼はまた俺を見た。


「どうシてここに来れタのかな?」


 ここでようやく、彼の瞳が真黒であることに気が付いた。


「相棒と一緒に来た。普通に来れた。歩いて来た」

「ふうン……誰かに話しカけられたり、話しかけたくナるような誰かを見たりはシなかった?」

「見たかもしれない……でも、話しかけるなと言われていたから」

「どうシてわたしにハ話しかけタのかな?」


 どうしてだろう。それが二階の仕事だったからだ、としか言いようがない。

 でもそれをそのまま彼に言うのは少し躊躇われた。何度目かの吐き気が込み上げてきた。


「言いたいことがあったから」

「言ってごラん」


 菅原さんが懐いたわけが分かるな、と俺は苦笑いを浮かべた。

 彼に言われた通り俺たちのプロフィール情報を調べて、呪いを掛けたに違いない。


 この幽霊と話したいこと。二階はなんと言っていたっけ?


「どうして……どうして、菅原さんにああしたのか知りたかった」


 どうして彼女に呪いを掛けたのか、と直截に聞くことは出来ず、少し表現を和らげた。

 彼は手洗い場に半分腰掛けるみたいに両手をついて、俺を見ている。少しだけ首をかしげている。


「菅原サん? 下の名前ハ?」


 名乗り。他人の名前を教えるのは、問題ないんだろうか。

 もう彼女は成仏したようだし、別に言っても構わないんだろうか。


「菅原さゆり」


「ああ……彼女のコとか。またバレーがシたいと言っていタから。ただそれだケだよ。

 藤田くンと呼べばいいのかな――君に日曜に会っタと聞いて、少し心配になっタから簡単なおまじなイもついでに教えてあゲた」


 ほらこれだよ、と何処からともなく彼が一枚の紙を落とす。蹲る俺の足元に紙が落ちる。


 自分の足首も見えないのに、この紙は見える。まったく読めない言葉で書かれていた。

 東洋の文字なのか西洋の文字なのかすら分からない。

 見ているとぼやけてきて、なんだかよく分からなくなる。

 ただずっとずっと見つめていると、その文字の海の中に、藤田、という文字が見えたような気がした。


 この呪いについて。菅原さんを窘める時、二階はなんと言っていただろう?


「おまじない――その件で、俺たちは少し困った」

「少シ? 慌てふためいていルように見えたな。菅原さゆりをドうした?」

「行った。えーっと、光? のほうに向かって行った」

「…………そウか」


 表情の読み取れない顔だった。見上げていると、白い鼻筋がよく見える。

 俺は結構背があるから、男を見上げる機会ってのはそんなにない。

 大抵ちょっと見下ろしてるか、二階みたいに殆ど目線がぴったり合うかのどちらかだ。


「困らせタなら悪かっタ。それを言いに来タのかな? 大儀なことだ」


 悪かった。その言葉を引き出せた。俺は一度ため息をつく。

 しかしこれで十分なのだろうか。


「じゃあ、もうやめてくれるか?」

「やめるっテ、なにヲ? 泣いテる少女を助けるコとヲ?」


 彼はどこかきょとんとした声でそう言った。だよなぁ。そうなるよなぁ。


「わたしは戻すノが仕事だ。擦り切れた石鹸はソの分毎日戻す。

 最近男が二人入ってきタからちゃんと外に戻シたい。女の子が悲シんでいタのも、ちゃんと元に戻シた」


 戻した。そうであるべき状態へ。ああ――だから、こんなにも違う。


 彼からしたら、昼の間に、苛烈な世間のなかで失われたものを、ただ補充してあげているだけなんだ。

 かつて、いつの頃か分からないけれど、几帳面で世話焼きの男が一人死んだ。

 彼は学校のなかで亡霊となって、毎日石鹸を巻き戻す仕事をしている。


 この世界はそもそもすり減っていくものなのに、たった一つの石鹸を守って、いったい何になるというのだろう?

 使っても石鹸が擦り減らないのは恐ろしい怪異なんだと、彼はもう常世の常識を思い出せない。でも、そのたった一つの回復に執着している。


 ――たった一つのものを巡っての口争いなら、さっきも負けたばかりだ。

 一つでも多く霊をなんとかしたいと言った二階と、あの×印いっぱいの手帳とが思い出される。


 俺はため息をついた。


「俺たちは、明日には、ここを出ていく。別にお前の邪魔はしない」

「そうナの? 石鹸を戻すノを嫌がっていタじゃないか?」

「それは構わない。掃除の人も助かるだろ」


 俺は笑った。無理やり頑張る必要はなかった。けっこう自然に笑えたと思う。

 彼に対し、俺はちょっと親近感を抱き始めていたのかもしれない。

 同じく彼も笑ったが、それは愛想笑いのように見えた。


「その代わり、頼みがある。お前は、戻すことが得意なんだよな」


「そうダね」


「じゃあもしも夜の間に子どもか誰かがここにやってきて、

 何かひどい目に遭っても、次の日に戻してやることができるか?」


「程度によルかな……」


「それで構わない。お前にそれを頼みたい」


「回答を保留スる。どうシて?」


「え?」


「なぜ、わたしにソれを頼む?」


 どうして、って。それは、この中学校の中で起こる悲劇を、少しでも軽減させたいからだ。


 でも、意図が上手く伝わるとは思えない。悲劇を減らしてくれ、と頼めば、彼は彼の善意に基づいて、また菅原さんのような霊を生きた子どもに見えるようにしたり、呪殺のやり方を教師のように教えたりするんだろう。それではいけない。


 二階なら――


 そもそも霊と俺たちとは、世界の根幹が異なる。だから、理解しあえると思ってはいけない。

 と、二階は言っていた。


「一旦、回答を保留する」


「ふウん、構わなイよ。

 そウいえば、もウ一人、人間が入ってきタよね」


「ああ……俺の相棒だ」


「相棒っテ?」


「二人で仕事をする相手のこと」


「明瞭でイい答えだ」


 彼が頷く。なんと言えば、納得してもらえるだろう?

 俺の足りない頭ではどうにも思いつきそうにない。仕方ない。


「さっきの質問。回答するよ」


「でハもう一度質問してあゲよう。なぜ、わたしにソれを頼む?」


「あなたが物を元に戻す力に長けていると思うから」


「元に戻す力とハ?」


「昼と同じ状態に戻してやること。

 できるだけ本人も周りも混乱しないように、夜のことは全て夢だったと思えるように。

 人間たちは、夜のことを知らないままのほうがいいんだ」


「ふウん……」


 彼はきっと頭の回転がいいんだろう。もしくは決断力がある、というべきか。

 彼はさほど長くは悩まなかった。やがて彼の中で判定が下り、にっこりと微笑む、その三日月のような薄い唇に、色がまったくないことに俺はようやく気が付いた。


「でハ、わたしも保留分を回答しよう」


「じゃあ、俺ももう一回質問を言おうか?」


「いヤ、それは不要ダ。わたしダけ回答しよう。

 わたしはできるダけ、ここに来た子を元に戻ス。

 どう戻せバいいのか、今まではソの子に言われた通りにやっていタが――できるダけ、昼と同じようにスるように努めヨう。そのほウが色々都合がいいようダから」


 彼の影がゆらゆらと近づいてくる。

 指切りげんまんでもするのかな、と思って右手を持ち上げたがやっぱり手首から先がない。

 でも彼は気にする様子もなく俺の横を通り抜けた。


 後ろから声が聞こえる。渦のような吐き気の中で、俺はそれを聞く。


「どんな存在にもなんデも頼めると思っているンだな」


「何度もコう上手くはいかない。これはタだの老婆心だが――」


「きみハもう少し、相棒のいうコとをよく聞いタほうがいいだロう」


 うん、と返事をした。

 この忠告が、彼なりの善意から来るものだと俺は分かっていた。


 異形の者になにかを聞かれたら、返事をしなくてはならない。

 返礼を欠かすことは呪いになるから。だから無視することはできない。

 でも首肯してしまったら――忠告を受け入れってしまったら、それはそれで別の呪いになるのかもしれない。


 そうぼんやりと考えながら、それでも約束をしてくれた彼に礼を欠かすのはやっぱ悪いなと思って頷いた。

 二階には怒られるかもしれないな、と思いながら。


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