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015


 深夜。まさかこんな時間に学校に入り込むことになろうとは。


 しかし夜でなければダメそうだ、という結論を出したのは二階だった。

 しかも昼のうちから手洗い所の前で待っているのではダメで、夜になってからもう一度三階まで進まなくてはならないんだそうだ。


 そう判断した理屈を丁寧に丁寧に二階は教えてくれたのだが、結局俺は理解を放棄した。

 うんうん、分かった。とりあえず行こうぜ、と歩き始めたところを、後ろからがしりと掴まれる。


「待て! まったくお前は……これを持て」


「ん? なんだよこの紐。

 そんなに怖いなら手繋いでやろうか?」


「それだと不味い。お前に霊が見えたらどうする」


「……おてて繋ぐと見えちゃうの?」


「可能性はある。危険な目には遭わせない、と言ったのはこれだ。

 お前は何も見えないほうがいい。

 お前が霊を感じられないのなら、霊のほうからもお前に手出しはできない」


「でもさー、昔あったポルターガイストの案件の時みたいに、天井が抜けてきたりしたら終わりだろ?」


「そのぐらい力のある霊ならまあ、たしかに。

 でもこの霊は、対処さえ誤らなきゃそれほどでもない……俺たちに遠まわしに呪いをかけようとしたことからもそれは分かる。自分で直接手を下せるほど強い気持ちを持ってはいないし、その力もないんだ」


 なるほど。呪いを掛けてくる、ってことはそれだけ強い力を持った奴なのかと思っていたが。

 遠回りの道を使った、という風に捉えるならば、慎重で、気弱で、実際会えば大したことない奴なのかもしれないという気もしてくる。


「この青の護符を」

「これ、なんだっけ?」

「退魔だ。万が一俺と離れたら……効くかどうか分からんが、それを使ってくれ」

「おう、分かった」


 夜だ。霊感が一切ない俺でも、やっぱり夜の学校はちょっと怖い。

 緑色の明かりでぼんやりと満たされた校舎。濡れたように見える床、揺らめいているような気がする影。

 はーあ。なんでこんなに怖いんだろうな。やっぱり小さいころから学校の怪談話を沢山聞いてきているからだろうか。


 二階が言う。ぽつりと、呟くみたいに、独白みたいに。


「準備はいいか?」

「……なんの?」

「心の」

「ああ、それなら大丈夫だ」


 どうせ俺には、なにも見えない。

 どちらかというと、二階の吐き気止め薬の準備のほうが気になる。


「じゃあ入ろう。必ず紐を離すな」

「……うん」



 *



 夜の校舎に入ったのは初めてだった。紐を握っているから右手が塞がっている。

 電気を付けよう、と俺は提案したが、二階の反応はすこぶる悪かった。


「明るくしたら、霊に、俺たちがいることを気づかれるだろう」


「入った時点で気付かれちまうだろ?」


「そうでもない。

 心霊スポットで霊に出会う時というのは、向こうのほうもそれなりに驚いているもんなんだ」


 山で出会う熊みたいだな、と俺は思った。


「じゃあなに? この暗いまま進んだほうがいいの?」


「そうしよう。今回は髪の長い幽霊にだけ会えればいいから、他の怪異とは出来るだけ……」


 うっ、と二階が呻く。言葉が詰まるほどの何かがいたらしい。

 俺には何も見えないが、二階の視線の先に、何かがいるんだろう。


「いや、問題ない」

「おう、りょーかい……」


 その後も、俺がこいつを担いで進んだほうが早いんじゃないかと思うほど、二階は数歩おきに立ち止まりながら進む。


「大丈夫か?」

「一階からこれほどとは……上がれば上がるほど、酷くなると思う」


 一応、弱い霊なら素通りして大丈夫だと二階からは説明受けていた。

 どうしようもなくなった時だけ、二階の指示のもと俺が護符を使う。


「進むぞ」


 ぶつかったり、躓いたりしないよう、動くときには声をかけながら。

 何枚か護符を消費しつつ、俺が先導する形で廊下を進んでいく。


 十分ほど掛けて、ようやく廊下の奥にたどり着いた。

 階段を一つ上がる。理科室、音楽室などの特別教室が並んでいる。

 三階に行く階段には、さらに一本廊下を進まなければたどり着けない。

 まったくもって導線の悪い校舎だ、こういうところも霊の吹き溜まりを作る原因になっているんだろう。


 上がれば上がるほど酷くなる――と二階は言った。

 とはいえ、ここまでで大体半分は進んでいる。一度作戦会議したほうがよさそうだ。


「二階、止まれ。二階……いるか?」


 俺は紐をわずかに引きながら、ゆっくりと歩調を緩めて止まった。

 二階も――というか、二階と繋がっているはずの紐も、俺に合わせて止まる。

 しかしやけに暗いな、と俺は思った。


「……どうした?」

「お前、俺のこと見える? 紐ってそんなに長くなかったよな?」


 紐は二メートルもなかったはずだ。

 学校のなかは暗いとはいえ一応非常灯はついていて、数十メートル先の「理科室」の看板の文字がわずかに読める――それなのに。


「……いや、紐しか見えない」


 どうしてか、紐の先は途中で切れたように闇のなかにぽつんと浮かんでいる。


「大丈夫なのか?」

「どちらかというと、紐を持っててよかった、という感じかな。

 無かったら、多分はぐれていた」


 ひゅう、と口笛を吹きたくなる。しかしやめておいた。

 俺の目にも見える範囲で異変が生じるほどに、怪異の力が強まっているということだろう。


「このまま進めるか?」

「うん、と言いたいところだが……来る」


 え? 俺は二階の視線の先を見なければと振り返ったが、やはりそこには闇しかない。

 見えるはずのものが見えないってのはちょっと不気味なもんだ。

 二階がどこを見ているのか分からないので、どこに怪異がいるのかも分からない。


「どこにいる?」

「どこ、とかじゃない。すぐ来るはずだ、黄の護符を」


 分かった、と返事をしながら左手のほうでバッグの中を漁る。

 右手は紐を掴むのに塞がっているから使えない。ちょっと不便だ。

 護符を探しながら、俺は自分の足元すら見えなくなっているのに気が付いた。

 まるで幽霊みたいだと思う。自分の身体なのに、膝から下が見えない。


 そして、僅かな音が響いた。

 ――とん、とんとん、とん。

 ノック音だった。はじめは小さな音だった。

 しかしドアを叩かれているという感じじゃない。俺は天井を仰いだ。


 やがて少しずつ、音は大きく、大きくなっていく。潮騒のように。あるいは――


 大きな箱のなかに入れられている小動物の気分だ。

 箱をがさがさと探られたあと、こんこん、と箱全体が揺れるほどのノックをされている。

 飼い主の女の子からしたら些細なノックなのに、受け取り手の俺たちにとっては轟音に聞こえる。


「大丈夫だ。紐さえあれば……」


 二階が言う。そうだ、二階だ。二階がいる。この紐の先に。


 ぼうっと俺は、紐を見た。


 紐は夕暮れの公園に設置されたブランコのように穏やかに揺れている。

 護符は何故か見つからなかった。でも紐はまだある。紐が震える。

 紐が動く――紐の先の人は、どこに行こうとしている? 紐の先の人?


「いや――二階!」


 紐はまだある。これは命綱だ。

 その紐が今、誰かが何度かジャンプした後のつり橋みたいに大胆に左右に揺れている。

 あるいは大縄跳びのように。ゆらんゆらんと揺れている。たった二メートル弱の紐なのに。


「藤田!」


 二階が俺の名前を呼ぶ。あーあ、珍しい場面なのに、顔が見えない。


 こんなん、四の五の言っていられるか!


 俺は紐を手繰り寄せ、二階の手に触れた。

 ぎゅっと握ると、同じく握り返す力がある。

 相変わらず手首より先は見えないが、しかしこれは二階の手だ。


「……ふー。危なかったな」


 気付けば音は止んでいた。さすがに俺も焦っていたらしい。

 鼓動が少しずつ落ち着いていく。汗を拭きたいと思った。

 紐は落としたようで、どこかに行っちまった。


「あまり無茶をするな」


「手はこのまま繋いでるぞ。離したら却って危ないだろ」


「……わかった」


 あくまでもしぶしぶ答える二階に苦笑いを返す。

 しかしおそらく、向こうからも俺の顔は見えていないだろう。


「しかし――今のはなんだ?」


 暗くなっていく手元と足元。揺さぶられる紐。少しずつ大きくなるノック音。


「警告だよ。しかし上品な怪異だ」

「上品? 子どもがプレゼントを逆さに振るような扱いだったが」

「間違えていらっしゃるようですよ、帰ってはいかがですか、と言っていたんだよ」


 上品、ねぇ。俺にはとてもそんな風には思えそうにない。


「やっぱり霊の考えることってのは分からねぇなあ……」


 答えながら、二階の手首を眺める。

 手首から先は木炭で塗ったかのように黒く闇に溶け込んで何もない。時計屋とかにある、手だけのマネキンみたいだ。


 すぐ隣にいるはずなのに、声は聞こえているのに、顔がまったく見えないってのもなかなか不思議なもんだな。めちゃくちゃ近づけば見えるようになるんだろうか、と思ってぐっと引いてみたが、どうやらダメそうだった。


「……なんだ?」

「いや、なんでもない」

「遊んでるんじゃない。そのまま真っすぐ、あれへ向かって行けるか?」


 真っすぐ。音楽室と、理科室と、あと三つほどある自由教室の先。

 そのへんに三階へ上れる階段があるはずだった。


「あれって、階段のこと?」

「階段の横にある光。見えないか?」

「ああ、見えない」

「じゃあとにかく階段の方へ……しかしおかしいな、あれは怪異じゃなくて単に非常灯だと思うんだけれど……」


 非常灯をやけに眩しく見せる霊? そんなのいるんだろうか。

 地味でちょっと面白いな、と俺は笑った。笑っている場合ではなかった。


「いや、やっぱりおかしい。藤田、どこを見てる?」


 さっきまで耳元で聞こえていた声が、少し遠くなった。いや、さほど遠くじゃない。でも、前を進んでいる俺のほうを向いていないなら、二階はどこを見ている――?


「二階? いるよな?」

「藤田? ここにいるだろ。どうした?」


 その声は紛れもなく二階のものだった。でも、遠ざかっている。

 手を繋いでいるのに、声が遠ざかっている!

 では、この手は誰のものなのか!?


「――二階、その手は俺のじゃない! 階段の方へ!」


 考えるな、考えるな。今はなにも考えるな。


 手を振り払って走る。しかし、今や手首は完全に癒着して繋がったように離れない。

 もう俺は殆ど全力で走っているのに、二階の手は俺にくっついたままぶんぶんと前後に揺れている。

 この手首の先には誰もいない。いくら振り払っても手首は取れない。


 知らない肉が俺の身体の一部になっている、めちゃくちゃ気持ち悪い感覚。

 拳銃を持っていたら撃っていただろうし、ナイフを持っていたら削ぎ落としていただろう。

 でもどちらも持っていなかったので、俺はなくしたはずの青の護符を貼り付けた。


 マシュマロが焼けるみたいにじゅわりと、二階の腕だけが溶けていく――いや、二階の腕のように見せかけていた、化物の腕が。


 煤を掃う。しばらく粘ついた何かが俺の手に残っていたが、揉むように何度か手を大きく擦ったらなんとか消えた。ため息をつく。廊下に蹲る。なんだよあれ、反則じゃねーか。


 当然のように二階はいなかった。俺は念のため振り返る。

 そこに相棒がもしもいたなら、すぐに駆け寄ろうと思って。


 でもいなかった。そこにいたのは、化物だけだった。


 ――危険な目には遭わせない。


 二階の言葉が蘇る。俺はあの時、あいつの言う『危険』の意味を、正しく理解できていただろうか。


 ――お前は何も見えないほうがいい。


 だろう、と俺は今更二階に同意する。


 見えるか見えないかなら、見えないほうがいいに決まってる。


 ――お前が霊を感じられないのなら、霊のほうからもお前に手出しはできない。


 見えるということ。それは弱点だ。多分俺は今まで呑気に強かった。

 今まで二階に何度も伝えられていたことが、今、迫真をもって理解できる。


 振り返った視界の先では、足首の軍勢が躍っている。

 巨大な鬼の顔が笑っている。

 理科室からは人体模型が何度もキャスターのガラガラ音を鳴らしながら

 出てきたり引っ込んだりしていて、それを真っ黒な教師が助けてやろうとしている。

 くるくると回転しながら踊る女生徒には顔がなくて、

 後ろ姿がまわっても、反対側もまた同じく後ろ姿で、

 もじゃもじゃの生き物が駆け抜けていって、足元をタコ足蠢く薄ピンク色の虫が這っている。

 すべての金属には目玉が映りこんでいて、みんな俺を見ている。

 遠くに俺の妹がいて、こちらを見て笑っているような気がしたが別人だろう。

 七不思議はないほうがいい。俺にはそのことがよくわかる。


 まったく、現世で本物の心霊現象に出会えるとは思わなかった。


 ふと手元を見る。もう俺には手首より先がなかった。太腿より下も見えない。


 魑魅魍魎。踊る人体標本に、足首の行軍、そして全てが狂ったような視界――これが、二階の見ていた世界。


 絶望的な状況のなか、緑色の非常灯の明かりが投げかけられる階段の下に、俺はいた。


 ここから先に行こうと思えば行けるだろう。


 でも、二階がいない。


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