まだら木の家
《Ⅰ》
三月の終わり、つい先日引っ越してきたばかりの我が家はなんと一戸建て。職場へのアクセスもいい。二世帯住宅のワンフロアを丸ごと貸してくれる上にとかく家賃が激安で、ということはすなわち相当な事故物件か何かかな、とは誰しも想像がつく。なんなら家主は逃げ出したらしい。そういうわけで取り壊し待ったなしだったわりにこうして生き残って新規入居者まで迎えているのは、一階に住んでいる斑尾という男が一向に退去しようとしなかったからだそうだ。
これがなかなか変なやつで。
「こんにちはー。……ん。あんたいつ死んだの?」
これが初対面での第一声だ。何しろ元は二世帯住宅、屋内にある階段で簡単に行き来ができる(ドアは二階についているが鍵はない。このせいで実質男性のみの入居に限られていた)。そこを上がってきて丁寧にノックをして、その上でこれだった。膝裏まで届く長い黒髪を後ろでひとつに括っている。いつもジーパン。綺麗な顔立ちだなとは思ったが眉毛の主張だけがあまりにも強すぎる。そんな顔。
「ね。享年なんぼ?」
「……なんぼ?」
思わず訊き返した。よく見たらTシャツに「鮪 -tuna-」って書いてあった。こういう家に住む人間ならこんなもんか、とちょっと思った。
「だってこんなとこ住みだすなんてさあ。あっち側だろ? 彼岸サイド?」
「いや。違います」
「またまたあ。淡いけど死んだやつのにおいがしてるじゃん」
「……あー」
嗅ぎ分けた根拠は分からないが、死臭がするとしたら心当たりはないでもなかった。
「湯灌師だからですかね」
「……ゆかんし?」
「死んだ人の体を洗って綺麗にする仕事です」
「え? ……あっ、ああ! 湯灌師か! へえーそっかそっか、ごめんなさい。てっきり死んでんのかと」
ちょっと待ってね、と言った斑尾は後ろ手に線香の箱を隠したままどんちゃか階段を降りていき(つまり丸見えだった)、何やらひっかきまわす音の後で線香を冷麦に持ち替えて戻ってきた。
「ごめん、蕎麦なかったわ。冷麦で許して?」
「はあ。……あっ『はあ』じゃない、ちょっと待ってください」
なんで引っ越した側が蕎麦もとい冷麦を受け取っているのか。慌てて取りに行った蕎麦を渡してやったら、斑尾はとても喜んだ。喜んだが、いいよ、と受け取らなかった。
「俺死んでるからさあ。あんまし食べないんだ」
……という。この衝撃の告白で、私と斑尾の実質シェアハウス生活が幕を開けたのだった。
無論、この家自体もやばかった。点けた覚えのない電気が点いている、触ってもいないのにいきなり点いたり消えたり、などは日常茶飯事。排水口はロングヘアが鬼のように詰まりまくり、掃除機もガンガン絡んで止まりまくり。物は落ちるわ風は吹くわ、扉は開くわ閉まるわであと三人くらいは住んでいるレベルの賑やかさだ。幸か不幸か霊感というものは一切ないので「本体」が見えたりはしなかったが、明らかにいるなというのは最初の一泊だけでももう疑いようがなかった。絵にかいたような幽霊屋敷だ。
極めつけはリビングの壁だった。
ちょうど赤ちゃんが掴まり立ちをするくらいの高さに、これまた掴まり立ちをするくらいの子どもサイズの手形が、いかにも掴まり立ちして歩きましたって感じの軌跡を描いて現れる。白の壁紙に赤というか茶色というか、要するに錆びた血の色で。もう確実にそう。絶対いる。時々足元にあったかい空気が流れてくることもある。多分あれも「いる」んだろう。なるほど常人には住めないわけだ。本当に大丈夫でしょうね、と契約の直前まで何度も何度も念押ししてきた大家さんの心中も察された。ただまあ、髪の長い人物を含むあと三人と子どもひとりが一緒に住んでいると思えばいいだけの話にすぎない。実質ルームシェアというわけだ。
一方、斑尾もやばかった。
一週間ほど経ってまたふらふらと上がってくると、まだいたんだ、と驚いたあとで猛烈に喜び、うち来なよ、と階下に招待してくれた。これがまた薄暗い。二階はまだマシだが、一階はとにかく日当たりが最悪だった。その上、こっちのリビングの壁は馬鹿でかい染みができている。転落死の現場を想像させるような飛び散り系の真っ黒な染み。最早何が起きたのかも分からない。
「おしゃれっしょ? 前衛的っていうかさあ、美術館に住んでるみたいな気分よ。まいんち」
そう言いながら冷蔵庫を覗き込んで、ごめんなんもないわ、とその辺に置いていたリュックを背負う。いいですよと言ったのにまあまあと連れ出されて、着いたのは小さなカフェだった。夕方だけど大丈夫かな、と思っていたらどうやら夜はバーになるタイプの店舗らしい。入るや否や、いらっしゃいと声をかけてきた店主が開口一番。
「お塩そこね!」
「はーい」
入り口のすぐ横に塩が盛られている。友達の家で手を洗うくらいの感じで、斑尾はそれを肩に振った。もうそういう扱いらしい。二階に越してきたと斑尾が紹介すると、店主のおじさんはああそうと笑って同じ台詞を繰り返した。私も塩を振った。
「もうさあ、この人がそのまま入って来ると肩が重くてしょうがないんだよ。申し訳ないけど多分お客さんもそういうの持ってきてるだろうから」
だそうだ。今後は葬儀場に入る前にも一旦塩を振った方がいいのかもしれない。実際、あの強火の幽霊屋敷と死人でごった返す葬儀場とどっちが強いのだろうと思った。死人にトーナメント戦を強いるわけにもいかないので分からないのが若干残念だ。それはそれとして、キンキンに冷えたピルスナーとサワークリームの乗ったナチョスがおいしかった。
斑尾はなんだかんだで「ちょっと食が細め」くらいには食べていたと思う。今日は奢るという言葉には甘えてみたものの、その帰り道で「面白いよねえ、死んでんのにATMとか全然使えんだもん」なんて平然と言うからああやはり死んでいるらしいと思った。
「そうよー。あの家の前で車にはねられて死んでんの」
「でもさっき、ごはん食べてたじゃないですか。ビールも飲んでたし」
「それなあ。こっちも不思議なんよな。だって絶対死んでんだよ? お墓あるし。自分が埋められるの眺めたし。大抵の人間は俺のこと見えないし。でも、自動ドアとかは開くんだよなあ……。ご飯おいしいしうんこも出んの。なんならこの前牡蠣食ってあたったんだ、一周回って笑っちゃった」
「ははは」
取り敢えず笑って、複雑ですね、と言った。そうなんよ、と斑尾は笑った。それ以上は訊かないことにした。出所は分からないが、私に払ってもいい金ではあるんだろう。多分。お酒は見逃してね、と斑尾は言った。死んだ時は子どもだったけど、死んでからは結構経ってるから、と。
そんな謎だらけの斑尾が、実際のところ生きてるのか死んでるのかは分からない。
《Ⅱ》
越してきて一カ月ほど経った。
毎日のように夕飯を食べに来たり(毎度律義に白米とおかずを持参してくるのがなんだか面白かった)、どうしても風呂場のドアが開かないと借りに来たり(これは私も何度か借りに行った)、とにかく頻繁に行ったり来たりしながら過ごすうち、実質シェアハウス生活はほぼ実質同居生活と化していた。
まあ、何しろ頻繁に故障が起きる。電気系統の不調や水回りのつまりもそうだし、他にもドアが開かないとか、冷蔵庫が開いてもいないのに鳴りっぱなしだとか、その手のイベントが起きすぎて、一階と二階が相互にバックアップとして機能せざるを得ない。その度に行ったり来たりしていれば実質ひとつの家に二人(と、複数人)暮らしだ。むしろ、ここまで斑尾が自力で暮らしていたことの方が不思議だった。
夕飯の席でその話をしたことがある。
我が家のリビングは一応来客に備えて四人掛けのテーブルを置いているが、その誰も座っていない椅子が「だるまさんがころんだ」状態でがたんがたん動き出して流石に不気味だったので、一階に避難した。その日は斑尾が見たいというのでテレビをつけていたが、バラエティ番組の画面から笑い声が上がる度、どうも背後の右のほうから女の忍び笑いが聞こえる気がしてならなかった。一階は一階でまあまあのルームシェアぶりだ。
「いやあ。ホントにやべえなってなった時は『トリプル』に逃げ込んでた」
斑尾は苦笑いしながら言った。トリプルというのは例のカフェバーのことだ。正式には『tripleseven』という名前だが、斑尾は単にトリプルと呼んでいた。私もそれに倣っている。
「ほら、暇じゃん? 死んでると。やることも行くとこもないし。だから一日手伝いして、ご飯奢ってもらって、布団借りるの。いや面白かったな、そんときはもう、毎晩ずうーっと赤ちゃんの泣き声が止まんなくて寝れなくてさ。たまんなくて一週間くらい避難して――」
言いかけたところでテレビが消えた。あら、と斑尾が立ち上がる。
「面白いのに。嫌いかね」
ぼやきながらテレビをつける。暫くそのまま見ていたものの、また少しして今度は部屋の電気が消えた。だめかー、とため息をつき、部屋の電気をつけ直してテレビを諦めた。階上で何かががたんと鳴った。元気なことだ。
「そんな、好みの問題とかなんですか」
「うん。なんかね。気分の問題かもしんないけど、一階でも見れる時と見れない時あんの。これは見れない率高めな気するな。でもエッチなビデオだけはなんでか絶対見れる」
「……へえ」
「こればかりは連戦連勝だなあ。ホントに負けなし」
それはそれで好みの問題なんだろうか。ちら、と斑尾が私を見る。
「試しに見てみる? 今」
「え。……いや、見ません」
「あそう。映像じゃない派か」
「映像じゃない派、っていうか他人と見ない派です」
「あそう」
というかそもそもこの部屋女性が「いる」のでは、とちょっと思ったが特に言わなかった。先方に反応されても困る。斑尾は急に考え込むように天井(のなんとも言えない人の顔みたいな模様)を見上げ、そのまま暫くじっとしていたが、クレヨンとかかね、と急に言った。
「何が」
「子どもが簡単に遊べるもの。俺髪長いじゃん? 遊ばれちゃうんだよな。今みたいにさ」
「あっそれ引っ張られてるんですか?」
長い髪の束は床に向かってピンと伸びている。一見しただけだと単に垂れているようだが、よく見れば確かに、途中に握られたような不自然なくびれがあった。
「うん。俺だって好き好んであの染み見ないよ。気持ち悪いもん。……おっ」
首を戻したことから察するに手は放してもらえたらしい。だから最近こう、と、斑尾は床に触れかけていたひとつ結びをくるくると首に巻いた。解けてしまわないように端を上手いこと引っ掛けると、マフラーというか、大きな蛇か何かのように見える。おしゃれと言えばおしゃれだろうか。
「ほら、二階のリビングに手形あるじゃん。あの子じゃないかと思うんだよな。だからクレヨンとか……あと何、積み木とかさあ。なんか他のもんあげたらどうかなーって」
「ああ」
赤ちゃんの幽霊におもちゃを買い与える、ということを斑尾は提案しているらしい。考えたこともなかったが、何よりも先に「面白いな」という感想が来た。
「クレヨンなら、お絵かき帳みたいなものもあった方がいいかもしれませんね」
無論お絵かきどころではないものが既にペインティングされていることは別として、やはり賃貸である以上壁だの床だのに落書きをされては困るだろう。描くものがあるなら描かれるものもあった方がいいように思う。
提案を聞いた斑尾は意外そうな顔をしてこちらを見ていたが、やがてふうんと呟きながらおかしそうに笑った。
「並河さん、そういうとこ変よな」
「……そちらが提案したのでは?」
「いや、提案したってちゃんと聞いてくんないよ普通。死んでんのにお絵かきなんかって言われて終わりじゃん?」
「ああ。まあ、死人が相手の仕事をしてますから」
「あそっか。そうね、棺ん中に色々入れたりするもんね。服とかなんとか」
「クレヨンもお入れしたことありますよ」
「え、クレヨン入れていいの?」
「あれ可燃なので」
「はぇーそうなんだ」
のどかな雑談の合間に、突如トイレの水が流れる。節水ー、と廊下に向かって声をかけてから、じゃあ明日買い物行かない、と斑尾は言った。
「どうせならさあ、いいやつ買おうよ。絵の具とか買って手でべたべた塗ってもいいし。俺あれやってみたかったんだよ、髪を筆みたいにして書くやつ」
「ほう。でも髪傷むんじゃないですか」
「大丈夫、切ってもすぐ伸びるから。やっぱ心霊現象っつったら伸びる髪っしょ」
艶やかな髪を手で撫ぜながら、人形も作ってやろうかな、と斑尾は呟いた。
《Ⅲ》
午前中から隣町の大型ショッピングモールへバスで行き、こども用品店で大きな袋にいっぱいのアイテムを仕入れて帰宅した。絵の具を見送った代わりに(すぐ飽きた時に勿体ないからやめよっか、と斑尾は言った)、クレヨンは豪勢に36色セットとした。それに大きなスケッチブックと軽めの積み木。レゴブロックはどうかという提案が斑尾からあったが、手触りのよさを重視して木製のシンプルなものにした。それに、ニスも塗られていない無垢な木の色味なら、そこらに転がっていてもインテリア感があっていいかなという判断だ。帰宅早々、一緒に二階に上がってきた斑尾は手洗いもそこそこにダイニングテーブルへ陣取ると、手芸用品店で買いこんだものをテーブルに並べた。発泡スチロールの小さな玉が三つと、ボンド、黒の丸いビーズに毛糸と毛糸針。
「本当に人形作るんですか?」
「うん。子どもといえば人形じゃん。俺こっちで作ってるからさ、並河さん童心に返ってお絵かきしなよ」
「……何を?」
「え。なんだろ。キリンとか?」
キリンね、と思う。キリン。まあ描いてみましょう。
童心に返って、という斑尾の提案を受けて床に腹這いになる。なんだか懐かしい。記憶を辿りながら輪郭を取り、色を重ねていく。途中ピンポンダッシュらしきもの(そもそも人が押したものかどうか分からない)を受けて中断したりはしたが、まあこんなもんだろうというところで床に座ったまま声をかけた。
「できました」
「ん?」
「キリンです」
「おう。ちょっと待って、こことめちゃうから」
毛糸針を何度か動かしたらしい斑尾がすっと立ち上がって顔を上げると、掲げたスケッチブックを見た瞬間おおっと歓声を上げた。
「うっま! ええ並河さんめっちゃうまいじゃん、絵描くの好きなの?」
「まあ。絵本作家になりたかった時期がありまして」
「へえ~! いいね!」
作りかけの人形をテーブルに置いて隣にやってくる。しゃがみこんだまましげしげとキリンを眺めて、おお、と声を漏らした。
「めちゃくちゃいいよこれ、ねえゾウは? ゾウも描いてよ」
「サバンナつながりですか?」
「おう。サバンナの水場描いてよ。俺並河さんの絵好き」
「かしこまりました」
サバンナの水場、と内心呟きながら、ざっくりと画面中央に水辺の輪郭を取る。知らず知らずのうちに表情が緩んだ。絵を褒めてもらう機会などほとんどないままここまで来てしまったからか、斑尾のストレートな賛辞が素直に嬉しかった。
「うわー早。うま。ゾウじゃんもう」
「まだ丸ですよ」
「いやいや、ほらもう。パーツ揃ったじゃない。これはもう万人に通じるゾウだよ」
「恐れ入ります」
「子どもん時から描いてたの?」
「まあ」
「褒められた?」
何気ない問いに、ふっと言葉が途切れる。
「……いや」
迷った末に嘘がつけなかった。斑尾は黙って私の手元を見ていたが、何を言いたいのかは痛いほどわかった。私と斑尾の間に長い黒髪が垂れている。数瞬遅れて、位置的にどうやらこれは斑尾のものではないらしいとわかったが、流石に振り返って持ち主の顔を見るだけの勇気はなかった。
「母はそういうところの不器用な人間でしたから。私の描くものを見た時は決まって『ここに影をつけたらどうか』とか、『ここの輪郭をもっとよく見て書いてごらん』だとか、そういう遠回しな否定ばかりでした」
「親ってそんなもん?」
「そんなもんですよ。所詮は他人ですから、こちらの気持ちが読めるわけではないし。でも同時に、我が子にはもっと上手い絵を描いてほしいという気持ちも人一倍にある」
「あーそっか」
何かを確かめるように頷いた斑尾は小さく、いいな親って、と呟いた。
「まあ、悪くはありませんね」
「ふうん。そっかあ、俺も親になろうかなあ」
呟いた声色が真剣そのものだったので、余計なことを言うのはやめた。代わりに、さっき描いたキリンの奥に小さなキリンをもう一頭描いてみた。斑尾はじっとそれを見届けてから、徐に立ち上がって人形制作に戻る。肩には未だに黒髪が乗っていた。よほど気に入ってもらえたのか、それとも早くやめろという圧力なのかは判然としないが、命にかかわるような行為をしてきたことはないから大丈夫だろうと判断する。なるべく無視して、水辺に他の動物たちを足していった。シマウマ、ガゼル、カバ……ライオンとチーター。大きなスケッチブックにクレヨンを走らせるのは実際気持ちがよかった。特に構想を練るでもなく、気が向くままに描いていく。
珍しく何も起こらない静かな時間の後で、できた、と斑尾が声を上げた。
「見て見て」
「見ます見ます」
「よっしゃー」
斑尾が隣にやってきたタイミングでするっと髪の毛が背後に消えていった。どいてくれたらしい。ほら、と手のひらの上の人形を私の目の前に差し出しつつ、次の瞬間には描きかけの絵を見て歓声を上げる。
私は人形を凝視するので精一杯だったが。
「すっげー! サバンナの水場じゃん! かわいい! てかこれ、このちっちゃガゼルめっちゃかわいい! 好きだわあ」
「……よかったです」
「あっ、でもちっちゃキリンもいいなあ。全部かわいいじゃん。……ねえこれもらっていい? うちの廊下に変な真っ黒の額縁あるからさ、あれ中身外してかけ替えたい」
「いや、それは構いませんが」
「……え、どしたん」
「これブードゥー人形では?」
なんだそれ、とばかりに斑尾は怪訝な顔をした。
「そんな名前なの?」
一時期ブームになっていたあのフォルムだ。丸い頭に、とにかく紐的なものをぐるぐる巻きつけた感じの細い手足と身体。そもそも呪い人形だというのもなかなかパンチが効いているが、真っ黒で艶やかなその見た目から察される素材も相当だ。
「というかこれ何で作りました?」
「俺の髪」
「マジか」
思わずナチュラルに言ってしまってから、失礼、と添える。
「いいよ。むしろなんでずっと敬語なんだろって思ってたし」
「基本的に敬語で生活してるだけです」
「あそう。いいけどさ。……でもこれよくない? かっけえじゃん、他とは一線も二線も画してるし」
触り心地いいぜと差し出されたそれはかなり不気味だったが、結局気になって手を伸ばした。当たり前だが本当に髪を触っている時の感触がする。髪の流れに沿って指を滑らせれば確かに心地よかった。実態は頻繁に排水溝を詰まらせているあれと同じだとしても。
「人形としては悪くないと思います。……呪い効果が強そうですが」
「えっ、これ呪いに使えんの?」
「使わないでください」
「えー」
一瞬目をキラキラさせた斑尾に釘をさすと、途端に随分と残念そうな顔をした。今日は随分と色々なことを表情に出してくれるな、と思う。
「そんなに呪いたい相手が?」
「いや、誰がってわけじゃないけど」
それが分かったら苦労せんのよな、と言いながら、斑尾は手の中の人形をひっくり返してサバンナの動物たちに手を振らせた。
「ここだけの話、俺って色々まぜこぜになってんのよ。いっちゃん強いのはここの家の前で死んだ『俺』なんだけど、他にもなんか……その辺にいた色んなもんが寄ってきてくっついたっていうか、重なっちゃったっていうか。そんでもう分かれようがないからさあ、このままいこうかなって。そんだから、まだらの男で、マダラオ。いい名前でしょ?」
「なるほど?」
言っていることは今ひとつだったが、重なっているという表現にはどこか納得できるものがあった。沢山の幽霊が重なって、まだら模様になっている存在。
「重なってるから人間に近いのかもしれませんね」
「ん?」
「なんていうか……半透明のものをいくつも重ねたら濃くはっきりしていくでしょう。そういうことなんじゃないですか、ご飯食べたりお酒で酔えたり、実体があるみたいに生活できるのは」
「あ、そういうこと? はーん、だからめちゃくちゃ髪伸びんのかな。バリカンでいっても三日でこれなんだけど」
それは知らないが、とは思いつつ、手から流れ落ちる黒髪を眺める。
「髪伸びるタイプの呪いの重ね掛けってことですか」
「そうそう」
「なくはないかもしれません」
あはは、と斑尾は声を上げて笑った。それから改めて人形をひっくり返し、ビーズの目と見つめ合う。
「……そのまだらのどっかがさ、誰かを呪いたがってんの。多分。でも、別のどっかはなんか、『親になりたい』って言ってる感じがすんだ」
少し首を傾げながら斑尾は言う。
「俺もさ、まだらになってはっきりしなくなっちゃったからなんとも言えないんだけどさ。でも幽霊って基本未練あるじゃない。それなのかなって。それを満たしてやったら、重なってるのがひとつひとつ抜けて、まだらじゃなくなってくんかなーって。――おっ」
突然部屋中の電気がついた。せつでーん、と言いながら立ち上がった斑尾が消しに行く。その隙にというべきか、テーブルの向こう側で派手な音がして、どうやらビーズが床の上に散らばったらしい。
「あらら」
「急に大はしゃぎですね」
「ねー」
フローリングの上を自由奔放に転がっていったビーズを、拾っては手のひらに集めていく。随分買ったものだなとは思ったが、品定めをしている最中の斑尾がこんなに要らないのにと愚痴をこぼしていたのも思い出した。
「ごめんねー。あとで掃除機かなんかかけなよ、踏んだら痛いから」
「そうします」
というより今かけていいだろうか。廊下の物置へ掃除機を取りに行こうとして、途中で足が止まった。何の違和感だ、と一瞬思考が止まったものの、少し丁寧に見てみればそれはすぐに分かった。
「斑尾さん」
ビーズを袋に戻している斑尾を呼んで、壁を指差した。
「どしたい。――おお」
決して目立たないものではない。手形で形成された錆色のラインの上に、真っ青なクレヨンの線がのたくっている。壁際に落ちているその色のクレヨンは、ついさっきまで使っていたのを飽きて投げ捨てた、とでもいうような雰囲気だった。
あらー、と斑尾が苦笑する。
「壁いったかあ。んでも遊んでるじゃん、よかったよかった」
「気に入ってくれるといいんですが」
「そうねえ。……えっ? あっ、うわー!」
斑尾が急に頭を抱えたので何かと思えば、同じ青のラインが床を突っ切って、さっき私が描いていた絵の上にも無秩序に踊っている。なるほど「うわー!」だ。
「ちょっとー! 俺の大事な絵~!」
「そんな。また描きますよ」
「えっホント? うれしい、でもダメだよひとの絵の上に描いちゃ! めっ!」
どこにいるか分からないせいで、四方八方に「めっ!」を飛ばす斑尾。思わず笑ってしまってから、まあまあ、と宥めた。
「このくらいで怒っちゃダメですよ。この子の――、いや、ひとりかどうか分かりませんが。とにかく、なんらか子どもの親になるなら、あまり目くじらは立てないことです」
「……おお」
ぱち、とまばたきをした斑尾は大いに驚いたようだった。
「並河さん、実は子どもいる?」
「いや? いません。……まあ、昔子どもだったことがあるだけです」
「うわー。ロマンチストじゃん」
「否定はしません」
「あら」
くすっと笑った斑尾が、テーブルの上から取り上げた人形を積み木箱に寄りかからせた。
腕以外は動かないらしいその人形は綺麗に立ってから、こてん、と妙に愛らしい動きで倒れた。
《Ⅳ》
更に一年ほどが経った。
リビングの片隅には積み木とスケッチブック、クレヨンのセットが広げっぱなしになっている。お手製の絵本もいくつか置いてみた。私も斑尾も、それから他の誰かも、気が向いた時に遊んでいる。積み木を無垢材にしたのは正解だった。かたん、という軽くやわらかい音が心地いい。誰の立てている音かは知らないが。
あの後すぐ描き直したサバンナの水場のイラストは、無事に額に収まった。これまではどんなに直しても少し左下がりになっていたのが絵を変えてからはしっかりまっすぐになっている、と斑尾が嬉しそうに教えてくれた。理屈は分からないが、ちょっと誇らしい。壁と床のクレヨンの件は大家さんにきちんと申告した。「ええっまだ住んでたんですか!?」と予想外の方向で大声を出されたが、それはそれとして「解約する時にいったん綺麗にする(きれいにした状態だけ確認できればその後に『何が現れても』おとがめなし)」という条件で合意に至った。そこからは、床の落書きは流石に消したが、壁の方はある程度放っておくことにした。
これが面白いことに、どうやら子どもの身長が伸びているらしく、落書きの位置が少しずつ高くなっていく。柱に傷つけるみたいだねえ、と斑尾は心なしか面映ゆそうだった。
この家、でっかい棺なんかもな、と斑尾は言ったことがある。
「『俺』と、まだらな部分とさ。死にきれなかった未練の部分、ここで綺麗にしてもらってる気がすんだ。並河さんの仕事と一緒。だから、いつになるか分かんないけど、ちゃんと綺麗になったら成仏するからさ。そん時はお蕎麦じゃなくて、お線香ちょうだいよ」
そう言って、私と一緒に子どもの面倒を見て、親をやって。
そうして過ごしてきた斑尾が今日の朝、急に嬉しそうな寂しそうな顔をしてやってきて、「子どもが軽くなってきてる気がするんだ」と言った。
――ガチャ。
ドアの開閉か。階下に気配を感じて、階段の上から声をかけた。おーう、と間延びした声の後で顔をのぞかせた斑尾を、ちょっと来てください、と招く。どしたどした、と言いながら階段を上がってきた斑尾は、リビングの壁を見た瞬間声を失った。
「――置き土産みたいですよ」
ありふれた子供の絵だ。大きな丸に、目と口、針のような髪の毛。大きいものがふたつに、間に小さなものがひとつ。右の大きなものは赤で描かれているせいで頭頂から噴水のように出血している感じになっているが、それが長髪の表現であることは容易に想像がつく。その下、色とりどりの丸と緑のぎざぎざは花畑だ。帰宅してから何度も何度も見返した、自作の絵本の一ページを開いて見せた。同じ構図になっているそのページでは、両サイドにいる二人の兄が中央の弟に花束を差し出している。
「ああ、花束か。ほっぺたかと思った」
斑尾が穏やかに笑う。両サイドの二人が差し出した花束の先は、中央の顔のちょうど頬の部分に重なっていた。大いに赤面しているようにも見える。絵の下に散乱したクレヨンはもはや動かなかった。積み木は鳴らず、あのブードゥー人形はどこかへ行ってしまって見当たらない。
冥途の土産というやつだろうか。
「……よかったんかな、これで」
「いいんじゃないでしょうか。……なんというか、絵を描くことを楽しめるようになっている感じがします。上手です」
「そう?」
「ええ。成長したなと」
「そっか」
「……『よかった』」
その瞬間。斑尾の口から、ひどく柔らかな、慈愛に満ちた女性の声を聞いた。
それきり暫く、どちらも口を開かなかった。改めて壁の絵を眺めた。斑尾が棺と表現したこの家の中に花束があるということは何やら気分がよかった。小さくも確かなひとつめの献花だ。クレヨンの絵は未だ壁の半ばにもかかるかどうかというところだったが、下の方にある手形のラインを見れば、遥かに、遥かに高くなったと思った。
「……軽い」
ぽつりと、斑尾は呟いた。「よかったですね」なのか「寂しいですね」なのか、適切な返事が見つからない。迷いながら伸ばした手で斑尾の背中に触れた。昼に触れたご遺体の体の感触を思い出せば、それは明らかに生者の体のものに近かった。
「お線香、買いに行きますか」
「……いや。どっちかっていうとお花買わない? お線香じゃうれしくないと思うな、あの子」
悪戯っぽい笑みを浮かべた斑尾が言った。
「……なるほど。そうかもしれません」
「でしょ。そんでビール買って、帰りにトリプルでナチョスのテイクアウトすんの」
「最高ですね」
「おっしゃあ、行こう」
言った瞬間、がちゃっ、と勝手に玄関の鍵が開いた。セキュリティー、と苦笑しながら、斑尾が部屋を出ていく。
そんな謎だらけの斑尾が、実際のところ生きてるのか死んでるのか。
私には未だに分からない。
fin.




