第七話
結局、比武はその一回で打ち切りになった。葛葉の武功を目の当たりにした武芸者たちが一斉に尻込みしたからである。
その実、新参の武芸者は他にもたくさん流れ着いていた。事前に無功が仕入れていたその情報は、あえなく使い物にならなくなってしまったのだった。
その夜。
葛葉は芙蓉を伴って、無功の天幕にやって来ていた。無功から呼び出しを受けていたからである。
「結論から言う。オレたちは明日、このオアシスを発つ」
ある程度予想していたとはいえ、あまりに急な展開に、すぐに言葉が出てこない。
「誰かさんが大活躍してくれたおかげでな。ここじゃしばらくは稼げねえだろ」
「それは……その」
嘲弄を含んだ無功の声が、歯切れの悪い葛葉の耳に突き刺さった。
「なんだ、ちやほやしてくれるオッサンたちから離れるのが寂しいのか?」
「違うわよ!」
かあっと頬が熱くなる。そんな葛葉を、無功は薄い笑みを浮かべて見つめていた。
「あんだけ言い含めておいたというのに。やれやれ、親孝行なんぞあてにするもんじゃねえな」
無功の左肩には白猿が腰かけている。退屈そうに、耳の穴をほじくりながら、あくびをかみ殺していた。
「そこでだ。少し早いが、当初の予定通り、オレたちはスイヤーブに向けて出発する」
砂漠の玄関と呼ばれる玉門関を西へ抜け、広大な砂漠地帯を踏み越えた先には、砂漠最大の都、白亜のオアシスとの呼び声高い、スイヤーブという大都市があった。砂漠地帯を数百年に渡って統治する、イシク・クル王朝の首都でもある。無功たちが滞在するこのオアシスは西のスイヤーブと東の長安との中継地点であり、交易を生業とする商人たちの拠点の一つだった。
「もう少し稼いで、万全の態勢を整えてから発ちたかったが、ここいらが潮時だ。隊商の情報じゃあ、スイヤーブまではラクダでも一ヶ月はかかるらしい。今なら資金をやりくりすれば、それくらいの行程なら踏破も可能だ」
無功の声が熱を帯びた。いつもの揶揄する調子はすっかり影を潜め、真剣そのものの口調に、葛葉は思わず引きこまれた。
「オレたちの商売は見せ物だ。挑戦者と客がいないと成り立たねえ。ここでいたってジリ貧だ。それに……」
無功はそこで言葉を止めた。机上のコップには一瞥もくれず、真っ直ぐに葛葉を見つめながら、
「立ち往生しちまう前に出発しねえと、芙蓉が参っちまう」
その言葉は、葛葉の肺腑を容赦なく貫通した。
「そんな……!」
「芙蓉の化粧品が今にも底をつきそうなんだ。このままじゃ目当てのスイヤーブに着く前に、芙蓉がダメになっちまう。そうなれば……」
葛葉は固唾を飲んで次の言葉を待った。体がガタガタと震え出す。一番聞きたくない言葉が、無功の口からこぼれ出ることを、無意識の内に気づいてしまったのである。
「……約束どころじゃねえ」
頭が真っ白になった。視点が定まらない。短い絶望の言葉は、しかしはっきりと葛葉の耳に爪痕を残した。
「これまでに比武で稼いだ金は潤沢だ。モノがあれば大枚はたいてでも隊商から買い付けてやる。だが、ねえんだ。どいつも、持ってねえんだよ。いくら金があっても、モノがなけりゃあどうしようもねえ」
無功の言うとおりなのである。いくら比武で金を稼いでも、品物がなければ意味が無い。
それは呆然としたままの葛葉に投げた言葉なのだろうか。それとも己に向けた独り言なのだろうか。無功は低い声で、
「スイヤーブにこそ、摂理を覆す秘法が存在する。いや、糸口でも構わない。オレは玄女さまを信じている。必ず、それを手にしてみせる」
肩の白猿が嬌声を上げた。機嫌がよさそうに、両手をパチパチと打ち鳴らしている。芙蓉は小首を傾げたまま、葛葉の頭をそっと撫でていた。
※
地平線の遙か先から、太陽がぬっと顔を現した。陽光が砂上に注がれ、それにつれて気温が少しずつ上昇していく。オアシスのそこかしこでは、隊商たちが朝食の準備を始めていた。
人々の営みを促す陽の光。それに包み込まれるようにして、オアシスは今日を生き抜こうとする人々の活力で溢れかえっていた。
葛葉はとっくに起きて旅装を整えていた。正確には、ほとんど眠ることができなかったのである。
天幕の入り口に置かれた長い匣。その中では、彼女が姉と慕う芙蓉が眠りについている。小さくノックしてから蓋を開けると、中から冷気がこぼれ出した。冷気は白い煙を立てる側から、先を争うようにして陽光の中へと消えていった。
芙蓉は静かに上体を起こすと、ゆっくりとした動作で砂上に降り立った。
「姉さん、おはよう」
白布が揺れる。葛葉は微笑みをこぼすと、
「じゃ、我らが父上とやらを起こしに参りましょ」
おどけた調子でそう言った。
手を振ってくる隊商たちに笑顔で応えながら、葛葉は芙蓉と連れだって無功の天幕を目指した。芙蓉は緩慢な歩調で砂を踏みしめてついてくる。
「よう、嬢ちゃん。相変わらず白い姉ちゃんは朝が弱いみてえだなあ」
馴染みの隊商だった。いつも人垣の最前列で声援を飛ばしてくれていた、熱心なファンの一人である。
「……お? その格好は、もしかして」
「うん、そうなの。ごめんね、急なんだけど」
つい俯いてこぼした言葉の端に、男は湿っぽさを感じ取ったのだろうか。
「ははは、旅立ちの朝ってのは、景気よくないといけねえ。下を向いたって砂しかねえぜ? 未来へ向けて踏み出すんだ、しっかり上を見ないとな! ほら、お天道様が微笑んでるぜ」
豪快に笑いながらそう言い放った。すると、あちこちの天幕から続々と男たちが集まってきた。旅立ちの噂をいち早く耳にしていたのか、それぞれが手に餞別の品を提げていた。
「無功先生に聞いたぜ。もう発つんだってなあ」
「寂しくなっちまうが……スイヤーブはいいところだ、オレが請け合う」
「足のラクダはオレんとこのだ。スイヤーブ生まれだからよ、きっとスムーズな旅になるぜ」
男たちは口々に励ましの言葉を浴びせると、景気のいい笑い声を上げた。抜けるような蒼天がまぶしい。葛葉は目を細めると、
「ありがとう。みんなから受けた恩義は、絶対に忘れないから」
「ああ。またどっかで再会できるのを楽しみにしてるぜ!」
「無功先生のお世話もしっかり頼むぜ。飲み過ぎ注意ってな」
「オレにもこんな娘がいたらなあ。何だって言うこと聞くのによう」
「何なら比武で勝ってよ、娘になってもらうってのもアリじゃね?」
葛葉もついお腹を抱えて笑ってしまった。笑いすぎたのだろうか、葛葉は目の端を指でそっと拭った。
「何だ、賑やかじゃねえか」
話の輪に入ってきたのは無功である。
「……あっ、こりゃ無功先生。おはようございます」
「今日はからっといい天気ですぜ。旅立ちにはもってこいでさあ」
「先生、今までいろいろとありがとうございました。先生のおかげで……」
「ええ、本当に助かりました。あのままでは……」
無功は口々に礼を述べる男たちを手で制すると、
「いいんだ。オレが勝手に首を突っ込んだだけだからよ。こちらこそ、みんなには世話になった。今までありがとうな」
葛葉は複雑な気持ちで無功を見ていた。別れを惜しむ男たちの様子からすると、やはり無功は噂通りの義侠の士のようだった。
そこに、別の男がラクダを四頭牽いてやって来た。ラクダを売ってくれた商人の使用人であるらしい。
無功たちの荷車は規格外の大きさである。その中には、狭いとはいえ三段ベッドが左右に備わっており、六人もの人間が寝泊まりできるだけの仕様になっていた。しかも芙蓉専用の匣まで荷車の底に格納できるよう、巧みに改造されていたのである。
それを牽いていくのだから、ラクダたちも最精鋭の四頭が選ばれていた。
「ほんとにいいのかい。相場の半分もしねえじゃねえか」
無功から銭の入った袋を受け取りながら、ラクダを提供した男は照れ臭そうに答えた。
「先生の恩義に報いるには、これでも足りやせん。ははは……それに、オレも商人の端くれ、こいつは投資だとでも思って下せえ」
「なるほど。……そうだな、では遠慮なく」
男は無功と握手をすると、袋の中身も確認せずに懐へ忍ばせた。
「葛葉、芙蓉。生活用品に旗、一切合切積み終えたな? 酒甕も忘れるなよ。なにせオレの生命線だからな」
芙蓉の白布が風にそよぐ。無功は満足そうな笑みを浮かべ、荷車の屋根に飛び上がった。白猿も続いてその左肩に飛び移る。
無功はお決まりの場所にあぐらをかくと、早速酒甕の蓋を開けた。酒を汲もうとかがみ込んだが、一緒になって甕の中をのぞいていた白猿が危うく落ち込みそうになった。白猿は慌てて無功の首に手をかけると、歯をむき出して金切り声を上げた。
ラクダの手綱を執るのは葛葉だった。その横に芙蓉がちょこんと腰かける。
葛葉が小さく手綱を打ち鳴らすと、ラクダたちは一斉に足を上げた。最精鋭という名は伊達ではなく、一糸乱れぬ力強い足取りで、ラクダたちは荷車をぐんぐん牽きだした。乾いた空気の中、軋んだ車輪の音と蹄の音が響く。三人を乗せた荷車は少しずつオアシスを離れていった。
後ろを振り向くと、オアシスの出口辺りには隊商の男たちが大勢集まり、めいめい名残惜しそうに手を振っていた。それに応えるように、葛葉も小さく手を振り返した。
照りつける陽光の下、荷車は一路西を指す。東西文化が交わる地点、文化の要衝とも呼ばれるスイヤーブへと。
※
「なあ、兄弟。知ってるか?」
無功たちを見送っていた商人の一人が、ポツリとこぼした。
「あ? 何の話だい」
「無功先生たち、中夏の長安から来たって話だろ。ここまでどうやってあのバカでかい荷車を牽いて来たかって」
「いや……? そりゃ馬とかラクダだろ」
「そう思うだろ? ところが違うんだよ」
その言葉に、商人たちは一斉にざわめきだした。
「違う? ならなんだよ。まさか、虎や龍とか言わねえよな。いくら先生だって」
「おいおい。知ってるんなら、もったいぶってねえでさっさと教えろよ」
周りから小突かれながらも、言い出しっぺの男は自慢げに言った。
「あの白い姉ちゃんだよ」
一瞬、砂漠が水を打ったように静まり返った。
「……おい、マジかよ」
「適当言ってんじゃねえだろうな」
「マジだよ。嘘じゃねえ。オレは見たんだ」
その男は、無功たちが始めてこのオアシスに来たときのことを語って聞かせた。
「牽いてたよ。一人で。砂に足をめり込ませながら、そりゃ力強くてよ、あのラクダたちにも全然負けてねえ」
「すげえな。にわかには信じられねえが……まさに万里の彼方からってところか」
「その通りさ。何でも中夏の皇帝さまは、この世の財産を独り占めできるくらいの勢いを誇ってるだろう? あちこちの国に圧力をかけては、貢ぎ物を強要しているのは有名な話だ。そんな凄え国から来たんだ、先生が不思議な術をバンバン使えるのも納得ってもんだろ」
「それならわかるぜ。なら、あの白いのがずっと牽いてきたってえのも」
「そうさ。無功先生直伝の武芸やら術やらがあるってことよ」
「へへ、さすが中夏の道士さまだ。懐が深すぎるぜ」
「しかもだぜ。こいつは小耳に挟んだんだが……あの白い姉ちゃん、何でも嬢ちゃんよりも強えらしい」
男たちの口から一斉にため息がこぼれた。
「ほんとかよ。いったいどんだけなんだ?」
「でも力技って感じだろ? 動きはのろいし、嬢ちゃんの早業に敵うとは思えねえな」
「まあそうだよな。あくまで噂さ」
「ハハハ、だな。そういや、見た目はボロボロだけどよ、すげえいい香りがしてたんだぜ、あの白いの。すれ違うとふわっとしてよ」
「そうだった! 甘い感じの。最近は全然しなかったから、忘れてたぜ」
「何でも化粧品が不足していたらしい。先生も必死で探してたが」
「残念だったよなあ。先生のお役に立てるチャンスだったのに」
「それにしても、芙蓉さんか……何だか神秘的だよな」
「わかる。全身白ずくめで覆面までしてるんだから」
「きっと天女さまみたいに神々しいんだぜ。ははは、綺麗な衣装を着せてみたいよ」
「白いのに熱を上げるヤツも結構いたしな。一目素顔を拝みたかったもんだ」
「そいつはお前だけじゃねえのか?」
「おっと、ならオレが独り占めできるってワケだ」
男たちの明るい笑い声が、乾いた空気の中で響き渡った。