第四話
「そこでね、あたしは相手の剣を跳ね上げると、急所に刺突を送り込んだの。さっきまで息巻いていた挑戦者だったけれど、あっという間に白目をむいて。それは気持ちよさそうに倒れたわ」
どっと笑いが起こる。
「応援してくれたみんなから、おひねりをいっぱい頂いたの。ま、そのほとんどは父さんの飲み代に消えたんだけどね」
「嬢ちゃんには?」
「特にないわ。……それに、あたしはお金になんて興味ないもの。磨き上げた自分の武功を発揮できたらそれでいいの」
葛葉は隣で座る芙蓉をチラリと見た。
「さすが、これぞ女侠の鑑だ! オレたちで何か贈り物しようぜ! なあ兄弟!」
歓声が夜空を震わせた。葛葉は指で頬をかきながら、
「ありがと。嬉しいんだけど……気持ちだけで十分よ。それよりも、お話の続きね。あたしはまとわりついてくる劉家の貴公子を何度も撃退したんだけど、しつっこくって。まるで諦めてくれないのよ。収入は得られたけど、ほんとストーカー。キモいったらなかったわ」
「男のすることじゃねえ!」
「そうだそうだ! 男なら引き際をわきまえろってんだ!」
葛葉は息巻く男たちを軽く手で制してから、
「ほんとそうね。みんなみたいに、物わかりがいいとよかったんだけど。剣を扱う、線の細いイケメンって感じだったんだけどね。で、ソイツ、荒くれ者を何人も雇って、あたしに闇討ちをしかけてきたのよ。無理矢理力づくで言うことを聞かせようってワケ」
「卑怯者め!」
「恥を知れ!」
「そんなヤツはひざまずかせて『お父様!』って呼ばせてやる!」
「みんなの言う通りよ。そう……あれは、ちょうど月の明るい夜だった。今夜みたいにね。都の大通りから少し離れた路地裏で、そいつらは奇襲をしかけてきたの。覆面をしていたから素顔はわからなかったけど、数十人はいたわ。月光を受けて煌めく剣や刀があたしを盛大に出迎えてくれたのよ」
固唾を飲んで聞き入る男たち。気をよくした葛葉は、
「その日は大忙しで、三……いや五人の挑戦者を退けた後だったの。少し疲れていたけれど、闇討ちなんかに怯むあたしじゃないわ。あたしは愛用の剣をすらりと抜き放ち、包囲のまっただ中に突っ込んだの」
ごくり、と喉を鳴らす音がひそやかに聞こえた。
「衆寡敵せずって言うけれど、あたしには関係なかったわ。軽く白刃を舞わせると、それにつれて黒い影は次々に倒れていった。もちろん命なんか取るものですか。あたしの剣を汚したくなかったの」
たちまち大喝采が巻き起こる。
「ふふん。残す影はあと二、三ってところだったかしら。あたしは暗がりに向けてこう言ってやったわ。『闇討ちを仕掛けてくるのは何者か。月の美しい晩に無粋も甚だしい。さあ、正々堂々と雌雄を決しようではないか』ってね」
「これぞ女侠の鑑だ!」
「嬢ちゃんこそ古の剣仙の生まれ変わりだ!」
「その瞬間よ。暗闇から銀色の影が音もなく飛来したの。咄嗟に剣を舞わせると、小さな音色を残して、地面に何かがぽとぽとと落ちたわ。月明かりの中、目を凝らしてみると、それは小さな針だった。敵は卑怯にも、暗器を放ってきたのよ」
「もう許せねえ」
「くそっ、オレがその場にいれば」
上機嫌で言葉を継ごうとした葛葉の袖口がくいくいと引っ張られた。腰を折られた形の葛葉が目を向けると、芙蓉の白布が微かに揺れていた。
「ああ、えっと、そうね。うん、そうだわ。ごめんね、みんな。いいところだったんだけれど、今夜はここまでにしましょ。その……父さんのお世話もあるし」
たちまち落胆の声が上がる。未練たらたらの男たちだったが、義侠の誉れ高い無功の世話となれば引き下がるほかない。
「ほんとごめんね。あはは、続きは次回のお楽しみ……ってことで! じゃあ、お鍋ごちそうさま。さすがオアシス一ね、美味しかったわ。みんな、お休みなさい」
葛葉は男たちに笑みを投げると、芙蓉と一緒に席を立った。
冷たい月明かりが照らす中、目指す天幕へと向かう道すがら、葛葉は父親である無功のことをぼんやりと考えていた。
金――いや、酒のためならば娘である自分に無理難題を押しつけて憚らない、不良道士。
稼ぐためには、どんな手段も厭わない。客を騙すことすら平然とやってのける。言葉巧みに誘導し、演出し、あの手この手で比武を盛り上げる。衣裳の件にしても、自分の商品価値を高めるための演出なのだ。
軽蔑したくなるところは幾つかあるが、それでも無功は義に厚い一角の人物として、オアシスに滞在する人々から尊敬の念を集めてもいた。
だから、葛葉は彼のことをただの守銭奴とまでは言いたくない。
金を必要とする理由を、十分に理解しているから。「約束」を果たすためには、金が必要不可欠だから。
葛葉は足を止めて後ろを振り返った。そこには緩い足取りの芙蓉がいる。
彼女の白布が小さく揺れた。首を傾げたようだった。
やがて二人は無功が居住する天幕の前にたどり着いた。豪奢なあつらえのそれは、無功に恩を感じる隊商たちが無償で提供したものだ。
天幕を前にして、葛葉はやや意外に感じた。
中では小さく燈火が揺らめき、どうやら無功はまだ起きているらしかった。
入り口には厚めの布が垂らされており、中からは空気を裂くような鋭い音が微かに聞こえる。葛葉が布を開こうと、手を伸ばしたときだった。
「葉児か」
無功の誰何の声が響いた。
「そうよ。父さん、まだ起きていたのね」
「ああ。ちっと調べ物をな……少し待て、許可を与える」
すると、入り口の布が小さく波打った次の瞬間、音もなく勝手に開いたのである。
葛葉は驚きに目を見張ったものの、直ぐに気を取り直して天幕の中へ足を踏み入れた。
先ほどの鋭い音はもう聞こえず、燭台の火がときおり乾いた音を立てるだけだった。
無功は変わらず絨毯の上であぐらをかき、お気に入りのコップを手にしていた。ただ夕暮れ時と異なるのは、机の上に古ぼけた書物が積んであることだった。
その表紙には何やら文字が書かれていた。書物の題名だろうが、葛葉にはまるで読めない。漢字のようにも見えたが、見たことのないものだった。書物にはところどころに虫食いがあり、ページを綴じる紐も随分と傷んでいた。
無功は慎重な手つきでページを繰りながら、もう片方の手ではコップを手放さない。
その顔を、揺らぐ燈火が音もなく濡らしていた。眉間には皺が数条刻まれている。
葛葉はいつになく真剣な無功の表情を、ただ黙ったまま見下ろしていた。何となく、声をかけるのが憚られた。
蝋が垂れるその度に、白い塊がぽつぽつと生み出されていく。
無功はおもむろにページから目を離すと、グラスを傾けて喉を潤した。
「何の用だ」
気だるそうなその声に、葛葉ははっと我に返った。
「何って……ちょっと様子を見に来ただけよ」
「ハハ……そうかよ。生憎とまだ介護される覚えはないがな」
いつも通りの憎まれ口だ。葛葉は口元を緩めると、芙蓉と並んで無功の向かいに腰を落ち着けた。
無功は葛葉を一瞥すると、書物を机の脇へどけ、空になったコップに葡萄酒を注いだ。
葡萄酒と空気の混ざり合う音が、より一層夜の静寂を引き立てる。最後の一滴が水面に小さな波紋を立て、杯に映り込む無功の顔が細波で数度揺れた。
「で……何を調べてるのよ。ボロボロの本を熱心に読んじゃってさ」
無功は黙ったままだった。やがて大きくコップをあおると、
「ふう。いけねえ。これが最後の一杯だってのに」
小さなため息を漏らした。コップと机の触れ合う音が涼しく響く。
葛葉の耳には、燈火のくすぶる音と、蝋の滴る音が混じって聞こえていた。燈火は静かに揺らめき、無功の頬を撫でる。陰影が薄く浮き上がった。
「答えなさいよ」
「……ククク」
その含み笑いに、葛葉はやや気勢を削がれてしまった。普段とは違う無功の様子に、わずかでも身構えてしまった自分が急におかしくも感じた。
「『雲笈七籤』だ」
「……は? 何よそれ。急に」
無功は無精ひげを撫でつけながら、小さく吹き出した。
「相変わらず察しが悪いな、葉児。てめえから訊いてきたんじゃねえかよ」
「え? ええと。その、本の名前かなんか?」
「そうだ。雲笈七籤。オレたち道家の間では価値の高い書でな。……学校とやらでは習わなかったのか」
「習うわけないじゃない。そんなうねうねしたミミズみたいな字、見たこともないしさ」
葛葉は表紙に書かれた正体不明の文字を見やりながらぼやいた。
「ハハハ……お前にかかっちゃ篆書も形無しだな」
そのとき、積み上げた古書の後ろから、あの白猿がちょこんと顔を出した。勢いよく飛び上がると、体をくるくると回転させて、無功と葛葉の間に降り立った。見ると、右手には爪楊枝くらいに見える、小さな竹の枝を持っていた。
白猿は葛葉の顔をじっとのぞき込むと、やがてキキキと小さな鳴き声を残して、スタスタと机の上から去っていった。
「アイツ……何だか無性にムカつくんだけど」
「葉児。お前もくるくると忙しいヤツだな。まるで落ち着きがねえ」
「うっさいわね。よそ見しながらお説教のつもり?」
葛葉は無功の視線を追った。そこには小さく燃える燈火が一つ。燈火は風に吹かれるでもなく、ふらふらと揺れている。
「察しろ……と言いたいが、どだい無理か。まあいい、わざわざ父さんの様子を見に来てくれたんだ、今ここで明日からの予定について連絡しておこう」