第三話
憤りを持て余したまま天幕を出た葛葉の前に、白い影がそっと姿を現した。
西に傾く日差しを浴びて、茜色に染まる白装束。
人足風の女性、芙蓉である。
肩をやや前に突き出し、猫背気味に佇む芙蓉に向かって、
「姉さん」
葛葉は張りのない声でそう呼びかけた。芙蓉の顔を覆う白い布が微かに揺れる。ゆっくりとした足取りで、芙蓉は葛葉に近づいてきた。
砂を噛む音が微かに響く。待ち切れず、葛葉は芙蓉に駆け寄った。
「姉さん、体調は大丈夫なの?」
芙蓉の右手がゆっくりと持ち上がり、やがて葛葉の頭に乗せられた。優しく、その髪を梳る。芙蓉のするのに任せていると、さっきまでの憤りが少しずつ収まっていった。葛葉は困ったような笑みを浮かべながら、
「あのエロオヤジ、ほんとに最低なの。あんまりムカついたから、コップをぶつけてやったわ。頭からずぶ濡れで、ざまみろって」
すると、芙蓉はゆっくりと首を横に振った。その途端、堰を切ったように溢れかけた不平不満は、ことごとくが喉の奥で引っかかった。飲み込みたくないのに、飲み込まなければいけないように感じる。
「……それは……その」
それでも言い募ろうとする葛葉を遮るように、芙蓉は彼女の頭をそっと撫で続けた。
道士の名は無功という。西の都長安から、遙かこの砂漠地帯の入り口、玄関とも呼ばれる「玉門関」まで三人で旅を続けてきたのだ。
三人が野営するのは玉門関の城門近くにある、広大なオアシス地帯である。
砂漠は夜が訪れるのが早い。さっきまで陰っていた西日は既にわずかな光をこぼすだけで、間もなく夜の帳が砂漠地帯を覆い尽くすだろう。芙蓉の白装束も、次第に灰色に染まりつつあった。
「……アイツの言い草は到底納得できないけど、全ては姉さんのためだもん。あたしはずっと勝ち続ける。絶対に負けたりなんかしない。そして」
言いかけた葛葉の頰を、芙蓉の手のひらがそっと滑り落ちた。包帯越しに感じる芙蓉の体温は氷のように冷たい。葛葉は微笑みを浮かべると、芙蓉の手を優しく包み込んだ。
「任せて、姉さん。きっとあたしが、姉さんを救ってみせるから」
ゆっくりと静寂に包まれていく砂漠の上で、芙蓉の白布が小さく揺らいだ。
※
天空に仄かな明かりが灯りだした頃。
「今日はどこの焚き火にお呼ばれしようかしら」
芙蓉と一緒に、葛葉はオアシスの中を歩き回った。オアシス内では中夏と西域を行き来する隊商たちのキャラバンがたくさん滞在しており、焚き火で調理する光景はありふれた日常の一コマでもあった。
すると、ものの数分も行かないうちに、彼女たちを呼ぶ声があちらこちらから上がりだした。
「おっ、『砂上を舞う鳳鳥』のご光臨だ。嬢ちゃん、こっち来てオレと飯にしようぜ」
「さばきたての羊肉があるんだ。一緒に鍋をつつかないか?」
「こっちには酒だってある。無功先生も呼んできなよ」
葛葉は愛想よく手を振りながら、自分たちに投げかけられる勧誘の声を心地よく聞いていた。
「父さんは今ごろ高いびきよ。みんなも見た通り、昼間っから飲んだくれてたからね。ふん、風邪でも引いちゃえばいいのよ」
どっと笑い声が起こる。
葛葉は歩みを止め、調理に勤しむ焚き火を物色した。やがて、
「そうね、じゃあ今夜は羊肉をごちそうになろうかしら」
鍋の調理をするひげの男は歓声を上げると、すぐさま席を二つ用意した。選ばれなかった男たちは残念そうな表情を浮かべたが、そのまま夕飯の支度にかかった。
「今夜は譲ってやる。しかし、次はオレが」
「いやいや、オレさ」
賑やかな笑い声が砂上に響き渡った。澄んだ空気は月明かりを一層引き締め、人々の営みを照らし出していた。星々は小さく瞬き、どこまでも続く天の川が、夜空の広大さをより一層際立たせている。
「こっちでも夜空は一緒なのね。何だか不思議」
「はは、嬢ちゃんたちは長安からだっけか。オレは行ったことはねえが、夜空はどこも同じもんだと思うぜ」
やがて葛葉に小皿が渡された。薄く味付けされたスープの中で羊肉が揺れる。砂漠地帯に来た最初こそ臭いに慣れなかったものの、今では好物の一つになっていた。箸の先で肉をつまんだ葛葉に、
「そっちの白い姉ちゃんは、確か……いいんだったよな?」
男は確認するようにそう言った。葛葉は小さく微笑むと、
「芙蓉姉さん? うん、大丈夫なの。ありがとう」
芙蓉の白装束の上を炎の影がちろちろと揺らめいている。男はよそいかけた羊肉を鍋の中へ戻した。
「しかし、さすがは義に厚い無功先生一家だ。天下無双の武功を身に付けた娘さんが二人もいるんだからなあ」
義に厚い云々にはやや首を傾げるが、自分たちのことを褒められて悪い気はしない。
「ふふ。天下無双は姉さんの方よ。姉さんと立ち合って、あたしは一度も勝ったことないんだから」
誇らしげな葛葉の言葉に驚いたのか、男は興味深そうな目を芙蓉に投げかけた。
「そうなのかい。そいつはすげえや。その、芙蓉の姉ちゃんはどんな得物を?」
「使わないわ。徒手なの」
「マジかよ……へえ、一度その技を拝んでみてえぜ。姉ちゃんは比武はやんねえのかい」
男は興奮気味にそう尋ねたが、葛葉はスープに目を落としたまま、わずかに表情を曇らせた。
「うん。ちょっとね。あはは……」
歯切れの悪いその返事に、男は何かを察したのだろうか。気まずそうに頭をかくと、黙ってスープをかき込んだ。焚き火の爆ぜる音が小さく響く。わずかに訪れた沈黙が、美味しいはずの羊肉を急に味気なくしてしまったように感じられた。
焚き火の影がわずかに揺れた。やや間を置いて、芙蓉の左手が葛葉の頭に乗せられた。
柔らかな感触が髪を通じて葛葉の心にしみ込んでくる。芙蓉はいつもこうだった。葛葉が哀しいとき、苦しいとき、そして寂しいとき。決まって芙蓉は彼女の頭を撫でてくれるのだ。
包帯越しの彼女の体温は、凍り付くくらいに冷たい。しかし、葛葉にとってその手のひらは、何よりも温もりを感じさせてくれる、かけがえのない手のひらだった。
彼女の手のひらは、いつも葛葉の心に寄り添ってくれる。そして、元気づけてくれる。
「ごめんね、せっかくお誘いしてくれたのに」
男は慌てて手を振った。少し照れ臭かったのだろうか、夜空を流れる天の河に目をやった。葛葉はそんな男の横顔を見やりながら、
「ね、お代わりお願いできる?」
「あ、ああ! もちろんだとも。オレの作る鍋はな、自称このオアシス一なんだぜ。ハハ、それも暫定だがよ」
その突然のおどけた様子に、葛葉は口元がほころんだ。隊商を仕切る男たちには素朴でさっぱりした気質の者が多い。葛葉からすればそれこそ親子ほどの年の差だが、それが彼女にとって居心地のよさを感じさせてくれた。
「ありがとう。じゃあお代わりを食べたら、とっておきの物語を紹介するわね」
「お、ほんとかい? はは、独り占めしてえところだが、それじゃあ男が廃るってもんよ。仕方ねえ、振られた連中にも声をかけてやるとするか!」
葛葉はクスリと笑みを洩らした。一気に心が奮い立ってくる。
「そうね。その方が盛り上がるわ。父さんの事なんてほっといて、楽しくやりましょ」
夜空の下、男の豪快な笑い声が鳴り響いた。それに誘われるようにして、あちこちの焚き火から隊商たちが続々と集まってきた。
「待ってたぜ。嬢ちゃんの武勇伝、毎晩楽しみにしてたんだ」
男たちはめいめいが料理を提げていた。焚き火の回りにそれぞれが席を落ち着けると、あっという間に賑やかな雰囲気が満ち溢れた。
「呼ぶ前に来るんだから世話ねえや」
「たりめえだ。独り占めなんてさせねえからよ」
「へへっ、嬢ちゃん、いっちょ景気のいいヤツ、頼むぜ。血湧き肉躍る、冒険譚を聞かせてくれよ」