第二話
「ああん、もう! せっかく華麗に決めてやったのに」
豪奢な天幕に入りながら、口をとがらせてぼやきを洩らしたのは、先ほど男を砂漠へ沈めた柳の少女だった。
名を、葛葉という。
彼女の漆黒の髪には、金粉を散らしたかのように砂がかかっていた。髪を軽く振るうと、砂は絨毯の上にはらはらとこぼれ落ちた。
「ふはは……今回はまあまあの稼ぎみてえだ」
葛葉はつい顔をしかめた。声の主は荷台の上でふんぞり返っていた道士である。道士はあぐらをかいて、象嵌の施されたテーブルの上で銅銭の数を数えていた。
「長安に比べりゃシケてるが、ここいらなら上出来だろ。ククク」
下卑た笑みを顔に貼り付け、道士は数え終わった銅銭を積み上げて小さな塔を幾つも築いていく。それを白猿が片っ端から叩き崩していった。
「しめて百五十錢、と。これだけありゃ、しばらくは酒にも困らねえ」
道士は散らばる銅銭には見向きもしなかった。満足したのか、ゴロリと寝そべると、ニヤニヤ笑いながら天井を見上げた。
葛葉は無言で道士を見下ろしていたが、膝を払うと絨毯に腰を下ろした。机の上に置かれたガラス製の水差しからコップに水を注ぐ。葛葉は少しだけ喉を潤すと、小さくため息を漏らした。白猿は散乱する銅銭を放り投げて遊んでいる。
「ねえ……父さん」
父さん、と呼ばれた道士は、じろりと葛葉に目を向けた。無精ひげのせいではっきりとはわからないが、肌のつやからして三十代の前半くらいであろう。
「なんだ、娘よ」
乾いた声の中に、微かな嘲弄の響きを感じ取ったのだろうか。葛葉はフン、と鼻を鳴らした。
「稼いだお金の一部でお酒を飲むのはいいわよ、別に。もともとそういう取り決めだし。でもねえ、あの約束は忘れてないでしょうね?」
道士は天井を仰いだままだ。
「約束、ねえ。さあて……」
そこまで言うと、道士は少し顔をしかめた。抜いた鼻毛をふっと吹くと、
「お前は本当に物覚えが悪い。父としては至極残念だ」
「……は?」
訝しむようなその言葉に、道士の口ひげが大きくつり上がった。日焼けした顔には、あざ笑うような、からかうような、そんな色が浮かんでいる。
「オレたちが、一体何のために、わざわざこんな砂漠くんだりまで来たと思ってやがる」
葛葉は思わず身を乗り出した。道士は変わらず天井を睨んでいる。
「父さん! ……やっぱり」
安堵を含んだその声に、道士は片肘を突いて上体を起こすと、ひときわ豪華な作りのコップを手に取った。銅銭で遊んでいた白猿が急いで道士の前にやって来る。白猿の前で数回それを振ってみせると、物欲しそうなその顔を斜めに見ながら、道士は喉を鳴らして飲み下した。
「やはり西域の葡萄酒はうめえ。猿にはもったいねえ逸品だ」
白猿は小さく歯ぎしりをすると、短い腕を伸ばしてコップの縁に手をかけようとした。
「確かにお前の活躍あってこそ、オレは『ほぼ』元手いらずの商売に励んでいられる。そこは……ハハハ、大いに認めているさ」
道士は指で猿の腕をいなしながらそう言った。少女の方には目もくれない。
「金はいくらあっても困らねえ。酒代然り、路銀然り、約束然り、だ。クク……父さんはまだ耄碌しちゃいねえ。だからよ、葉児」
そう呼びながら、道士は葛葉の顔を真っ直ぐに見つめた。その顔は酔いのせいか、赤黒く染まっていたが、瞳はまるで揺らいでいない。つい背筋を伸ばした葛葉に向かって、
「お前にはありがたいアドバイスをくれてやる。へへ、耳の穴かっぽじって、ついでに肝に銘じておけ」
小さく頷く葛葉に満足したのか、道士は自信たっぷりに言い放った。
「早すぎるのさ」
「……へ? 軽功のこと?」
「ハハ……察しの悪い娘を持つと苦労するぜ。倒すのが早すぎンだって。いいか、もっともつれさせろ。引張れ。客にスリルを提供するんだ。そうすりゃ儲けもうなぎ登りさ」
道士は立て板に水とばかり、一気にまくし立てる。
「今にも負けそうに見えるピンチを演出して、そこから大逆転劇とかもいいな。そうすりゃ、観客の中から新たな挑戦者が出るかもしれん。だいたい、派手に勝ちすぎるのはよくない。客足が遠のいたら、儲けにならんだろうが。長安で干上がったのも、お前が無双しすぎたからだろ? 金持ちの坊ちゃんで、そこそこの武芸を身につけたカモがたくさんいたってぇのに。ああ、劉家の小せがれなんか、一体どれくらいオレたちに貢いでくれたと思ってる? 何度負けても、惚れた弱みよ。金づるだったのにな」
葛葉は思わず顔をしかめたが、道士はまるで気にとめるようすもない。
「もっとサービスしろ。その方が盛り上がるだろ? 少しくらいは服を切り裂かれてだな、『きゃんっ』とかやってみろ。……ああ、あくまで少しな。思い切りやられると金がかかる。こんなへんぴな砂漠じゃ、その衣装を直すこともできねえ」
今や葛葉のトレードマークになっているオレンジの衣裳。扇情的な際どいスリット、遠慮なくぱっくりと開いた胸元。相当狭い布面積を誇るそれは、脇の下まで剥き出しで、背中もほぼ丸出しになっていた。スカート前面には鳳凰の刺繍が施され、いつしか葛葉は「砂上を舞う鳳鳥」の二つ名で呼ばれるようになっていた。
「ちょっと、それって何よ! ありえないわよ! アンタねえ、仮にも娘が、柔肌晒して戦ってんのに、その言い草はないんじゃない?! ちょっとは心配しなさいよ!」
「もちろん、いつも心配しているさ」
「嘘ばっかり! 口ばっかり上手くて、お酒ばっかり飲んで」
いきり立つ葛葉を尻目に、道士は真剣な面持ちでアドバイスを続けた。
「嘘じゃねえ。落ち着けよ。金になるんだから、衣裳は大切にしないとな。忘れたか? 特注だったろ、それ。わざわざオレがお前との幸せ溢れる生活のため、都屈指の衣装店で大枚はたいて注文してやったってのによ」
いけしゃあしゃあと続ける道士に、葛葉は顔を真っ赤にして絶句した。握りしめた両手がぶるぶる震えている。
「だからさ。さっきの勝利を思い出せ。磨き抜かれた軽功で相手の背後に回り込み、刺突を五発喰らわせた。決着が早かったのは残念だが、重要なのはそのあとさ。あれこそ天佑だろうよ」
「ちょっ……! やめてよ!」
それは試合終了直後のことだった。凪いでいた風が、大風になって砂塵を巻き上げたのである。そのせいでスカートがまくれ上がり、白い肌を余すところなく衆目に晒してしまったのだ。スカートを押さえてうずくまる、羞恥を露わにした美少女剣士に対して、観衆の興奮は最高潮へと達したのだった。そのおかげで、戦いが終わった後もしばらく投げ銭が続き、結構な額の収入を得たのである。
「いいじゃねえか。減るもんじゃなし」
「よくないわよ! 信じらんない! このエロオヤジ! くたばれ!」
葛葉はそう叫ぶと、コップを思い切り道士の顔面に投げつけた。コップは狙い過たず道士の額に激突し、温くなった水を盛大にぶちまけた。差し込む陽光の中、白猿の甲高い鳴き声が天幕の中で小刻みに響いた。
「痛えな、オイ。全く、せっかくのアドバイスの礼がこれかよ。あれはイヤ、これはイヤ、わがままの尽きない娘を持つと苦労が絶えないぜ。世の父親たちはなべてこんな感慨を懐くものなのかね。父親になんてなるものじゃない」
「うっさい! 黙れ! アンタ、ホントいい加減にしなさいよ!」
そう言い放つと、葛葉は怒気も露わに立ち上がった。道士に背を向け、天幕から出ていこうとする。
頰を滴る水を舌で舐め取ると、道士はややすごんだ声音で葛葉の背中に語りかけた。
「水でよかったな、葉児……もう一度念を押しておく。いいか、結局のところ、お前はオレから離れることはできん。これは事実だ。覆りはしない。運命なんだ、仕方ねえだろ? ま、オレにとってお前は食い扶持でもある。だからよ、前から言っているようにだ、ここは仲良く共依存ってことでいいじゃねえか」
ギリ、と葛葉は奥歯を噛んだ。道士の言葉には応えず、そのまま天幕の出口に歩を進める。
「ハハハ……ま、仲良くやろうぜ、我が娘よ」
道士は嬉しそうな表情を浮かべ、再び絨毯にその身を預けた。コップを手の中で弄びながら、光の加減できらめきを変える象嵌を興味深そうに眺めていた。