表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

第一話

 静かに砂塵舞う空があった。


 天と地が果てしなく連なり、茫漠たる砂上には何の遮蔽物もない。


 そこを支配するのは絶対的な渇きだった。

 太陽は容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものから水気を奪い続ける。

 抜けるような蒼穹には雲一片たりとも浮かんでいない。


 広大な天空を、二つの黒い影が滑っていった。

 まるで海の中を自在に泳ぐ魚のように。

 乾いた空気の中、鋭く細い鳴き声が尾を引いて流れていった。

 つがいのイヌワシである。

 やがてその二羽は、砂上に群がっている人間たちの頭上を軽やかに舞った。

 岩陰からは一匹のトカゲが顔を出し、赤い舌先をチロチロと見せている。


 砂上には大きな荷車が一台止まっていた。車中で寝泊まりが可能な、屋根付きの豪華な作りである。ただ、車体はかなり痛んでいた。相当な年季が入ったものなのか、それとも遙か万里の彼方を旅してきたからだろうか。


 その梶棒のところには、人足であろうか、みすぼらしい格好をした女性が一人、ぽつねんと立っていた。


 こぼれる黒髪と胸のふくらみ具合から、そう見てとれた。


 女性は白ずくめだった。白い長袍で身を包み、指先まで白い包帯でぐるぐる巻きである。顔には白い布を一枚垂らし、素顔をうかがい知ることはできない。日光を拒絶するかのような重厚な出で立ちは、見る者全てに奇異な印象を与えた。


 ここは砂漠である。頭上には照りつける太陽、足下を過ぎるのは乾ききった風。水分はそのことごとくを奪い去られ、少しの日陰でもあれば我先にと駆けていきそうなものだ。


 しかし女性は暑苦しい衣装のまま、汗一つかかずにぼんやりと立っている。


 荷台の上には、人を食ったような表情で無精ひげをしごいている男が一人、あぐらをかいていた。衣装はボロボロであるが、その身なりから旅の道士に見える。


 左肩には一匹の白い子猿がちょこんと座っていた。


 道士は腰に提げてあった瓢箪を口に含んだ。それと見た猿が瓢箪に手をかけようとする。苦笑を漏らした道士は身につけていた道袍をいきなり脱ぎ捨てた。猿は小さな悲鳴を上げると慌てたようすで肩から飛び降りたが、すぐに荷台の端へと一目散に駆けていった。


 道士が瓢箪を転がしたのである。


 瓢箪を追う白猿を横目に見ながら、道士は盛大にゲップを漏らした。飲んでいたのはアルコール度数ばかりがやたらと高い安酒である。赤く染まった顔に酔眼を漂わせて、道士は砂上で展開されている光景に目をやった。


 荷車からやや離れたところには、一本の剣を構えた少女。


 目にもまぶしい、オレンジ色の衣裳で全身を包んでいる。


 少女に対峙するのは、長大な両手剣をひっさげた屈強な男。


 荷車のすぐ傍には大きな旗が一本、地面に突き立てられていた。


 風はなく、旗に何と書かれているのかはわからない。


 人垣はそれらを取り囲むようにして成されていたのだった。

 およそ三十人はいるだろうか。その誰もが、固唾を飲んで少女と男に視線を注いでいる。


「芙蓉。今のうちに投げ銭を集めておけよ。いいな、びた一文たりとも無駄にするんじゃねえ」


 道士は砂上に散らばった銅銭を機嫌良く眺めながらそう言うと、上着の袖をまくり上げた。筋骨隆々では決してないが、華奢という表現が当てはまるとも言いがたい。程よく筋肉のついた、しなやかな印象を抱かせる腕だ。


 芙蓉、と呼ばれた人足ふうの女性は、小さくうなずくと、ゆっくりとした動作で、地面に転がる銅銭を拾って回った。


 砂漠に響くのは、控えめな彼女の足音と、中空を舞うイヌワシの鳴き声のみ。

 さっきのトカゲはもう姿を消していた。日の当たらない凹みへとその身を潜ませたのだろう。


 道士は滴る汗を拭うと胸元をくつろげ、右手で脇腹をぽりぽりとかいた。ちょうどみぞおちの辺りには、入れ墨だろうか、勾玉のような形をした黒色の紋様が浮かんでいた。


 砂上で向かい合う二人は、ひたすらに無言である。

 長剣を構えた少女の頬を汗が伝った。


 降り注ぐ日光、立ち上る陽炎。

 乾いた風が音もなく足下を抜ける。


 どれくらいこうして向き合っているのだろうか。

 しかし少女の口元は涼やかな微笑みをたたえたままだ。


 子連れの観客の一人が、両肩に娘を担ぎ上げた。たくさんの大人たちで人垣ができているのだ、小さな女の子が背伸びをしたところでどうにもなるまい。女の子は頬の赤い人形を脇に抱いたまま、あどけない両の手のひらで父親の頭髪をつかみ、興味深そうな視線を二人へ注いでいる。


 さくり、と小さな音がした。

 両手剣の男がわずかに足を動かしたのだ。

 微かな音に引きずられるようにして、空気が動き始めた。

 男は足を慎重に交差させながら、少女の左側面へと歩を進めていた。

 少女を中心にして、半円を描くように、少しずつ。

 彼女は右手に剣を持っている。よって左からの攻撃には対応が遅れるだろう、と踏んでのことだ。


 大ぶりの足跡が砂上に刻まれていく。微かな足音が次第に力強さを帯びてくる。

 その視線は少女に注がれたまま、まるで逸れることはない。

 眉間に縦皺を数本刻み、汗を拭うことすらせず、わずかな隙も見逃さぬとばかり、少女の剣尖をねめつけていた。

 それは獲物を狙う猟師のような眼差しだった。


 オレンジの少女は変わらずに微笑みを浮かべている。


 男が歩を止めた。柄を握り直し、呼吸を整える。

 緊張が人垣を支配する。つばを飲み込む音さえたやすく響きそうだった。


 肩車の少女もオレンジの彼女から目が離せないでいた。太陽を反射して煌めく剣身が不思議と冷たく感じられる。透き通った水のようだと少女は思った。


 男の盛り上がった肩越しに、オレンジがわずかに覗いている。視界を男に遮られた少女は、のぞき込むようにして首を伸ばした。


 オレンジの少女は落ち着いた様子で剣を構えている。ほっそりと、しなやかで、以前父親に連れられて中夏の都長安に行ったときに見た、柳という植物に似ている、と思った。


 水辺に並ぶ、碧の柳たち。ここ砂漠地帯ではまず見られるものではない。

 それゆえ、深く印象に残っていたのかも知れなかった。


 対する男は筋骨隆々で、砂漠に屹立する岩のようだ。


 肩車をする父親の腕に力が込められた。娘があまりに首を伸ばすので、バランスを崩しそうになったのだ。しかし当の本人はそんな父親にはまるで無頓着で、砂漠に揺らめく一筋の柳に夢中だった。


 そのとき、ふとオレンジの柳と目が合った。柳の彼女はほっそりとした眉根を広げると、大胆にも片目をつぶってみせた。


 瞬間、ざぐりと砂を蹴る音がした。

 男が剣を振りかぶり、少女目がけて突っ込んだのだ。 

 男は瞬く間に距離を詰め、両手剣の間合いに少女を捉えた。長大な得物のリーチを活かし、少女の間合いの外から斬撃を叩き込むつもりだ。

 鋭い気合いがほとばしる。

 わずかに遅れて、長剣が乾いた空気を切り裂いた。


 風を巻いて頭上を襲う一撃に、肩車の少女は思わず目を伏せた。

 人形を抱きしめる腕に力がこもる、その一刹那の後。

 彼女の耳を大歓声が驚かした。

 つられて、恐る恐る顏を上げる。


 そこに柳の彼女の姿はなかった。

 もうもうと巻き上がる砂塵だけが残されている。

 両手剣の男は慌てた様子で左右を見渡していたが、やがて驚愕の声を上げた。


 慌てて視線を追う。その先には笑みを浮かべた柳の彼女。

 長い黒髪が微かに揺れている。

 柳が右手を静かに持ち上げ、肘を引いて刃を寝かせると、剣尖が小さな輝きを発した。


 凜とした佇まいに気圧されたのだろうか。男は柄の感触を確かめるように握り直すと、慎重な面持ちで二三歩後退した。


「おっ、びびってやがるぞ!」


「嬢ちゃん、今だ! やっちまえ!」


 人垣から少女を後押しする声が上がった。

 それは静寂を一気に押しのけ、乾いた空気を震わせて青空に響き渡る。

 少女はクスリと笑みを洩らした。声援に応えるように音もなく砂を蹴る。ほんのわずかにこぼれた砂の粒子が、陽光の中で小さく光った。


 際どいスリットの入ったスカートが翻る。

 白い腿がオレンジの隙間から惜しげもなくこぼれた。


 男は慌てて防御の構えを取った。しかし、瞬きをする間もなくオレンジが眼前に迫る。

 砂を踏む音さえ聞こえない。

 それは無音の跳躍だった。

 男は瞬時に判断した。一撃は避けられないが、それさえ耐えれば反撃できる――と。

 肉を切らせる覚悟を決めたが、しかし同時に驚愕が男を襲う。

 迫ったオレンジの姿が瞬く間に視界から消え失せてしまったのだ。


 一瞬の空虚。

 わずかな間隙。


 冷や汗が滑るよりも早く、男は背中に強烈な痛みを感じた。

 膝からすうっと力が抜け、握りしめていた両手剣を取り落とす。

 そしてそのまま、男はゆっくりと砂上に倒れ伏した。

 砂塵が小さく立ち上る。


 少女は突っ伏した男を見下ろしていたが、やがて目を上げると、抜けんばかりの蒼天めがけて剣を掲げた。


 たちまち大きな歓声が少女を包み込む。それは波濤となって彼女の頭上に降り注いだ。

 観衆たちは足を踏みならし、拳を突き上げ、華麗な武芸を披露した少女を褒め称えていた。


 砂が少しずつ舞い上がる。

 少女は歓声に応えるかのように、その細い腕を軽く曲げてみせた。


 肩車の女の子も、小さな手を懸命に打ち鳴らして、心からの拍手を送っていた。


 凪いでいた風が、そよそよと流れ出す。

 やがてそれは大風となり、遠慮なく砂を巻き上げた。


 荷台の横に立てられた旗。青空を切り取るかのように、風にたなびいている。

 そこには、くっきりとした文字で「比武招婿」と墨書されていた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ