第一話
静かに砂塵舞う空があった。
天と地が果てしなく連なり、茫漠たる砂上には何の遮蔽物もない。
そこを支配するのは絶対的な渇きだった。
太陽は容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものから水気を奪い続ける。
抜けるような蒼穹には雲一片たりとも浮かんでいない。
広大な天空を、二つの黒い影が滑っていった。
まるで海の中を自在に泳ぐ魚のように。
乾いた空気の中、鋭く細い鳴き声が尾を引いて流れていった。
つがいのイヌワシである。
やがてその二羽は、砂上に群がっている人間たちの頭上を軽やかに舞った。
岩陰からは一匹のトカゲが顔を出し、赤い舌先をチロチロと見せている。
砂上には大きな荷車が一台止まっていた。車中で寝泊まりが可能な、屋根付きの豪華な作りである。ただ、車体はかなり痛んでいた。相当な年季が入ったものなのか、それとも遙か万里の彼方を旅してきたからだろうか。
その梶棒のところには、人足であろうか、みすぼらしい格好をした女性が一人、ぽつねんと立っていた。
こぼれる黒髪と胸のふくらみ具合から、そう見てとれた。
女性は白ずくめだった。白い長袍で身を包み、指先まで白い包帯でぐるぐる巻きである。顔には白い布を一枚垂らし、素顔をうかがい知ることはできない。日光を拒絶するかのような重厚な出で立ちは、見る者全てに奇異な印象を与えた。
ここは砂漠である。頭上には照りつける太陽、足下を過ぎるのは乾ききった風。水分はそのことごとくを奪い去られ、少しの日陰でもあれば我先にと駆けていきそうなものだ。
しかし女性は暑苦しい衣装のまま、汗一つかかずにぼんやりと立っている。
荷台の上には、人を食ったような表情で無精ひげをしごいている男が一人、あぐらをかいていた。衣装はボロボロであるが、その身なりから旅の道士に見える。
左肩には一匹の白い子猿がちょこんと座っていた。
道士は腰に提げてあった瓢箪を口に含んだ。それと見た猿が瓢箪に手をかけようとする。苦笑を漏らした道士は身につけていた道袍をいきなり脱ぎ捨てた。猿は小さな悲鳴を上げると慌てたようすで肩から飛び降りたが、すぐに荷台の端へと一目散に駆けていった。
道士が瓢箪を転がしたのである。
瓢箪を追う白猿を横目に見ながら、道士は盛大にゲップを漏らした。飲んでいたのはアルコール度数ばかりがやたらと高い安酒である。赤く染まった顔に酔眼を漂わせて、道士は砂上で展開されている光景に目をやった。
荷車からやや離れたところには、一本の剣を構えた少女。
目にもまぶしい、オレンジ色の衣裳で全身を包んでいる。
少女に対峙するのは、長大な両手剣をひっさげた屈強な男。
荷車のすぐ傍には大きな旗が一本、地面に突き立てられていた。
風はなく、旗に何と書かれているのかはわからない。
人垣はそれらを取り囲むようにして成されていたのだった。
およそ三十人はいるだろうか。その誰もが、固唾を飲んで少女と男に視線を注いでいる。
「芙蓉。今のうちに投げ銭を集めておけよ。いいな、びた一文たりとも無駄にするんじゃねえ」
道士は砂上に散らばった銅銭を機嫌良く眺めながらそう言うと、上着の袖をまくり上げた。筋骨隆々では決してないが、華奢という表現が当てはまるとも言いがたい。程よく筋肉のついた、しなやかな印象を抱かせる腕だ。
芙蓉、と呼ばれた人足ふうの女性は、小さくうなずくと、ゆっくりとした動作で、地面に転がる銅銭を拾って回った。
砂漠に響くのは、控えめな彼女の足音と、中空を舞うイヌワシの鳴き声のみ。
さっきのトカゲはもう姿を消していた。日の当たらない凹みへとその身を潜ませたのだろう。
道士は滴る汗を拭うと胸元をくつろげ、右手で脇腹をぽりぽりとかいた。ちょうどみぞおちの辺りには、入れ墨だろうか、勾玉のような形をした黒色の紋様が浮かんでいた。
砂上で向かい合う二人は、ひたすらに無言である。
長剣を構えた少女の頬を汗が伝った。
降り注ぐ日光、立ち上る陽炎。
乾いた風が音もなく足下を抜ける。
どれくらいこうして向き合っているのだろうか。
しかし少女の口元は涼やかな微笑みをたたえたままだ。
子連れの観客の一人が、両肩に娘を担ぎ上げた。たくさんの大人たちで人垣ができているのだ、小さな女の子が背伸びをしたところでどうにもなるまい。女の子は頬の赤い人形を脇に抱いたまま、あどけない両の手のひらで父親の頭髪をつかみ、興味深そうな視線を二人へ注いでいる。
さくり、と小さな音がした。
両手剣の男がわずかに足を動かしたのだ。
微かな音に引きずられるようにして、空気が動き始めた。
男は足を慎重に交差させながら、少女の左側面へと歩を進めていた。
少女を中心にして、半円を描くように、少しずつ。
彼女は右手に剣を持っている。よって左からの攻撃には対応が遅れるだろう、と踏んでのことだ。
大ぶりの足跡が砂上に刻まれていく。微かな足音が次第に力強さを帯びてくる。
その視線は少女に注がれたまま、まるで逸れることはない。
眉間に縦皺を数本刻み、汗を拭うことすらせず、わずかな隙も見逃さぬとばかり、少女の剣尖をねめつけていた。
それは獲物を狙う猟師のような眼差しだった。
オレンジの少女は変わらずに微笑みを浮かべている。
男が歩を止めた。柄を握り直し、呼吸を整える。
緊張が人垣を支配する。つばを飲み込む音さえたやすく響きそうだった。
肩車の少女もオレンジの彼女から目が離せないでいた。太陽を反射して煌めく剣身が不思議と冷たく感じられる。透き通った水のようだと少女は思った。
男の盛り上がった肩越しに、オレンジがわずかに覗いている。視界を男に遮られた少女は、のぞき込むようにして首を伸ばした。
オレンジの少女は落ち着いた様子で剣を構えている。ほっそりと、しなやかで、以前父親に連れられて中夏の都長安に行ったときに見た、柳という植物に似ている、と思った。
水辺に並ぶ、碧の柳たち。ここ砂漠地帯ではまず見られるものではない。
それゆえ、深く印象に残っていたのかも知れなかった。
対する男は筋骨隆々で、砂漠に屹立する岩のようだ。
肩車をする父親の腕に力が込められた。娘があまりに首を伸ばすので、バランスを崩しそうになったのだ。しかし当の本人はそんな父親にはまるで無頓着で、砂漠に揺らめく一筋の柳に夢中だった。
そのとき、ふとオレンジの柳と目が合った。柳の彼女はほっそりとした眉根を広げると、大胆にも片目をつぶってみせた。
瞬間、ざぐりと砂を蹴る音がした。
男が剣を振りかぶり、少女目がけて突っ込んだのだ。
男は瞬く間に距離を詰め、両手剣の間合いに少女を捉えた。長大な得物のリーチを活かし、少女の間合いの外から斬撃を叩き込むつもりだ。
鋭い気合いがほとばしる。
わずかに遅れて、長剣が乾いた空気を切り裂いた。
風を巻いて頭上を襲う一撃に、肩車の少女は思わず目を伏せた。
人形を抱きしめる腕に力がこもる、その一刹那の後。
彼女の耳を大歓声が驚かした。
つられて、恐る恐る顏を上げる。
そこに柳の彼女の姿はなかった。
もうもうと巻き上がる砂塵だけが残されている。
両手剣の男は慌てた様子で左右を見渡していたが、やがて驚愕の声を上げた。
慌てて視線を追う。その先には笑みを浮かべた柳の彼女。
長い黒髪が微かに揺れている。
柳が右手を静かに持ち上げ、肘を引いて刃を寝かせると、剣尖が小さな輝きを発した。
凜とした佇まいに気圧されたのだろうか。男は柄の感触を確かめるように握り直すと、慎重な面持ちで二三歩後退した。
「おっ、びびってやがるぞ!」
「嬢ちゃん、今だ! やっちまえ!」
人垣から少女を後押しする声が上がった。
それは静寂を一気に押しのけ、乾いた空気を震わせて青空に響き渡る。
少女はクスリと笑みを洩らした。声援に応えるように音もなく砂を蹴る。ほんのわずかにこぼれた砂の粒子が、陽光の中で小さく光った。
際どいスリットの入ったスカートが翻る。
白い腿がオレンジの隙間から惜しげもなくこぼれた。
男は慌てて防御の構えを取った。しかし、瞬きをする間もなくオレンジが眼前に迫る。
砂を踏む音さえ聞こえない。
それは無音の跳躍だった。
男は瞬時に判断した。一撃は避けられないが、それさえ耐えれば反撃できる――と。
肉を切らせる覚悟を決めたが、しかし同時に驚愕が男を襲う。
迫ったオレンジの姿が瞬く間に視界から消え失せてしまったのだ。
一瞬の空虚。
わずかな間隙。
冷や汗が滑るよりも早く、男は背中に強烈な痛みを感じた。
膝からすうっと力が抜け、握りしめていた両手剣を取り落とす。
そしてそのまま、男はゆっくりと砂上に倒れ伏した。
砂塵が小さく立ち上る。
少女は突っ伏した男を見下ろしていたが、やがて目を上げると、抜けんばかりの蒼天めがけて剣を掲げた。
たちまち大きな歓声が少女を包み込む。それは波濤となって彼女の頭上に降り注いだ。
観衆たちは足を踏みならし、拳を突き上げ、華麗な武芸を披露した少女を褒め称えていた。
砂が少しずつ舞い上がる。
少女は歓声に応えるかのように、その細い腕を軽く曲げてみせた。
肩車の女の子も、小さな手を懸命に打ち鳴らして、心からの拍手を送っていた。
凪いでいた風が、そよそよと流れ出す。
やがてそれは大風となり、遠慮なく砂を巻き上げた。
荷台の横に立てられた旗。青空を切り取るかのように、風にたなびいている。
そこには、くっきりとした文字で「比武招婿」と墨書されていた。