前言
比武招婿。
これは「武を比べて婿を招く」という婿探しのパフォーマンスである。
結婚適齢期であるにも関わらず、武芸に夢中で色恋沙汰から遠のく一方の娘をどうにかこうにか結婚させるために行われる催しだ。
だいたいは都の大通りや繁華街など、人が多く集まる場所で行われる。
一般に中原と呼ばれている黄河流域の地なら西都長安、東都洛邑。南方の長江河口域なら金陵、西の山岳地帯なら錦城。これらは中夏の地で隆盛を極める大都会であり、四大都市とも呼ばれていた。人口はそれぞれ数百万を優に超える。
比武招婿はこうした都市ならば頻繁に見られる催しものの一つに数えられていた。
例えばここを西の都長安の大通りだとしよう。
そこには流しの軽業師や美人姉妹と評判の演奏家、はたまた波斯の方からやってきた紅毛碧眼の曲芸師たちが連日芸を披露して、幾許かの投げ銭を得る――そんな舞台が設えられていた。
その上に立つのは、みすぼらしい身なりの中年の男性と、質素ながらも上品な装いに身を包んだ妙齢の女性。腰に一振りの剣を提げ、顏は凜とした英気で満ちている。
二人は親子である。
やがて興味を惹かれた人々がぞくぞくと足を止め、舞台を囲うようにして人垣ができあがる。
観客が十分に集まった頃合いを見計らい、父親が「比武招婿」と大書された幟を掲げると、人垣から一斉に歓声が湧き起こる。
父親は慇懃な仕草で観衆に礼をすると、朗々と口上を述べ始めるのだ。
曰く、
本日はお忙しい所をご参集下さり、誠にありがとうございます。こちらは手前の一人娘、玉鸞と申します。物心ついた頃から武芸一辺倒、師父からも一目置かれるほどの才を秘め、その将来を嘱望されるほどでございます。さて時の経つのは早いもの、玉鸞も今年で十七才になりますが、深まるのは武功ばかりで浮いた話などとんとございません。娘は江湖に名を馳せる剣客として日々成長しておりますが、それと同時に、私の胸中に複雑な思いが蟠っていることは、皆さま方にもご理解いただけることと存じます。そこで本日は、腕自慢の方に一手武芸の深奥についてご教示いただきまして、粗忽者ではありますが、ぜひとも玉鸞と比翼連理の間柄になって下さいますよう、伏してお願い申し上げます。
要するに、舞台上で手合わせを行い、勝てば娘を我が物にできる、ということだ。
もちろん挑戦するには「参加料」が必要になる。やがて娘の美貌に心奪われた武芸自慢の貴公子などが「我こそは」と手を挙げ、参加料を支払って、衆人環視の中手合わせが行われる。
ところが、ただ勝てばいいというものでもなく、勝ち方が問われることも往々にしてあった。一方的に倒しては娘の自尊心を著しく損なってしまうのだ。つまりはさじ加減ということである。
相手は物心ついた頃から武芸一辺倒だった娘であり、いかに美貌を備えていようと、恋愛などには目もくれず、腕を磨いてきたという誇りがある。よって負けるつもりなど毛頭ない。いや、むしろ――挑戦者を叩きのめすことに喜びを感じているような娘さえいるのだ。
こうした娘を心服させるには、細心の注意を払って立ち回る必要がある。例えば――自分に恥をかかせないよう手心を加えてくれた、などと思わせながら、紙一重のところで勝ちを引き寄せたかのように演出する。
しかし事が上手く運ぶことはそうそう滅多にない。
名勝負になるか泥仕合になるか、剣を交えてみないとわからないのだ。明暗を分けるのは互いの実力如何ということになる。
挑戦者の想像を遙かに超えて、娘の武功が圧倒的であれば、手心云々の前に全く勝負にならず、観客からは罵声や哄笑が飛んでくる。また挑戦者が娘を散々に打ち負かし、敗北した娘が悔しさにおいおい泣こうものなら、娘に同情した観衆から怒声や冷笑が浴びせられる。
結局のところ、どちらが勝とうが負けようが、観客からすれば面白い見せ物であり、ショーの一つだったのである。
しかし、舞台上で挑戦者を募る親子にとって、比武はただの見せ物ではなかった。この一勝負に、今後の生活――いや人生がかかっているのだから。
それゆえ、観客は熱狂した。大喝采が起こることがあれば、罵詈雑言が飛んでくることもあった。試合内容によっては、喝采とともに観客が幾許かの「投げ銭」を寄越してもくれた。これが親子にとって収入源の一つになっていたのだった。
観客にとって魅力的な催しである比武招婿だが、同時に親子の心を悩ませ続けるものがあった。それは相手を選べないということである。
イケメンで、金持ちで、優しくて、そして武芸の腕は超一流……という挑戦者が現れて欲しいと願うのは誰しも皆同じなのだが、これら条件全てを兼ね備えたような異能者にはまずお目にかかれない。大概はどれか一つ、いや複数が欠けているものだ。
気に入らなければさっさと打ち倒せばよい。しかし、悩ましいのは理想の相手が現れた場合だった。
娘がいかにその相手のことを気に入ったとしても、父親がどんなに結婚を熱望したとしても、わざと負けることなどあり得ない。そんなヤラセに等しいことなど、幼いころから武芸に全てを捧げてきた娘の矜持が許さないのだ。
これこそが比武招婿の抱える最大のジレンマだった。とある知識人が、このことについて次のように語っている。
曰く、
強ければ客は増えていく。美しければファンもつく。当然収入が増える。しかし、それに反する形で――娘の婚期はどんどん遅れる。理想的なお相手に巡り会うまでは絶対無敵を誇るしかない。ところが、強すぎると相手はいなくなってしまうものだ。最強の娘は適齢期を過ぎ、やがて父親も年老いる。結婚どころか生活に支障を来すようにさえなるだろう。明るい未来など到底望むべくもない。嗚呼、兎角この世は生きにくい。
さて、古来より中夏では文武両道が称揚されてきた。これは「対の思想」と呼べるもので、陰があれば陽があり、儒教があれば道教があり、聖人がいれば仙人がいるというように、必ず対立する存在を並べ立てるものである。この二項対立によって、世の中はバランスよく運行されていると考えられた。そしてこの対立は、同時に互いを補完するものでもあった。
こと比武招婿においては「美」と「武」が特に重んじられた。美しいだけではすぐに負け、不本意な相手だろうと結婚せねばならない。強いだけでは、挑戦者の手が上がることはなく、いつまで経っても独身を貫くことになる。
美と武――この二つを兼ね備えた武芸自慢の美少女たちは、それぞれが何らかの事情によって白刃の下にその柔肌を晒し、卓越した武芸を披露して観客から絶大な支持を集めていた。
ある者はまだ見ぬ幸せのため。
またある者は己が武功を高めるため。
そして、ある者は自己の存在証明のため。
見よ――
少女の数だけ、ドラマがある。剣風吹きすさぶ戦いの巷にこそ、彼女たちが追い求めてやまない「もの」があるのだ。