第三章 与えられた仕事とは (2)
(2)
惜しまれながら領地を離れたとき、マリアベルはすでに、ベノルと夫婦であるような気でいた。彼も周囲の人間も、そのようにごく自然に彼女へ接していたからである。
その夜、いよいよ客室ではなく、例の一階奥の当主の部屋へ越したのだったが、彼女は与えられた自室で、込み入った手続きのための処理に追われていた。夕食を済ませると机にかじりつき、せっせと書類を片付けていく。道具のほとんどが、ノックロックから運んできた、使い慣れたものである。集中していると、自分がライト邸にいることを忘れてしまう。
ノックの音。彼女は苛立ちを覚えた。
「なあに? くだらない用なら、あとにしてちょうだい」
ドアに向かって言った後で、はっとする。悲鳴を上げながら、マリアベルはドアに飛びつき、開けた。
待っていたのは、ベノルの苦笑。
「ごめんなさい。ジュードが来たのかと思ってしまって!」
「いや、それくらい本音で付き合ってくれていいよ。くだらない用かもしれないが、少し時間をもらえないか? 冷えたワインがある」
マリアベルは、少しだけ本音を言った。
「一杯だけなら。明日は早く起きて、手続きを全部済ませてしまおうと思っているのです」
その言葉に、ベノルは唖然とした。
「明日は、婚礼の儀だよ。伝えていなかったか?」
すっかり忘れていた。もう夫婦であるような気になっていたのだ。マリアベルは、青くなり、非礼を詫びてから問うた。
「婚礼って、何をしますの?」
ベノルは困ったように微笑んだ。
「絆を誓い合う。そして、君の美しさを披露する。それだけだ」
「何か、準備は」
「いらない。言われた通りにしていればいいよ。それよりも、君はとても疲れているようだな。ワインは明日でも飲める。早く休んだ方がいい」
花嫁が隈を作っているのも、見栄えが悪かろう。マリアベルは素直に「おやすみなさい」と扉を閉めた。そして、小さなベッドで、泥のように眠った。
次の日。婚礼は、厳かに行われた。
スリノアの伝統に従い、謁見の間にて王の前で、二人は誓いを立てる。左手の甲をナイフで傷つけ、その血を一滴、ワインに混ぜて飲み交わすのだ。有名な「誓いの杯」である。手の甲の傷は誓いの証となって残る。マリアベルは痛みを堪えながら、ベノルが二度もこんなことをするのを哀れに思った。
内乱平定時には少年王と名高かったジャスティス=G=スリノアは、凛々しい青年になっていた。王は満面の笑みで、誓いの杯を口に含んだ。彼の隣には、精巧に作られた人形のような、完全なる美を備えた王妃がいる。絵画をそのまま現実にしたような光景だ、とマリアベルは感じたが、すぐに思い直した。いいや、違う、絵画がこの現実を描いたものなのだ。今、己の身に起きていることは、多くの芸術家たちを虜にし、作品にしたためたいと思わせるほどの、優麗な儀式であるのだ。
巨大なステンドグラス。窓の外の緑と、臨む湖の青。王族と騎士たちの正装。貴族たちの身につける宝石。赤絨毯。全てが、華やかに色づき過ぎている。マリアベルは、目眩を感じた。こんな世界で生きていたら、感覚が麻痺してしまう。
「ベノル様」
儀式を終えて謁見の間を出てすぐに、マリアベルは懇願した。
「そろそろ、手続きに出ても構いませんか?」
ベノルは、怪訝そうに眉を寄せた。
「この後は、披露宴だ。すでに議員や領主が集まっているよ。君のお父上も、いらしているはずだ」
マリアベルは、額に手を当てた。目を閉じると、世界が反転しそうだった。
「具合が悪いのか?」
「いえ、平気ですわ、このくらい。仕事ですもの」
ベノルが微笑む。少し、寂しそうに。マリアベルは、見なかったふりをする。割り切らなければ、やっていられない。
何度着替えて、何度化粧直しをしただろう。豪華な食事と、煌びやかな演出。この一日にかかった金額を、マリアベルは想像してみた。高名な名門騎士の婚礼や披露宴が貧乏くさくては、周囲に訝られてしまうのは百も承知である。しかし、この一部でも、ノックロックに寄付してもらえないものなのだろうか。世の中全ての不平等をどうにかできずとも、ノックロックの民だけには少しでも豊かさを与えたい。そんなことばかり考え、一日が終わった。
彼女はライト邸の自室に戻るや否や、また机にかじりついた。こうして書類と戦っているのが私にはお似合いだわ、と胸を躍らせる。やればやっただけ片付く、達成感。領地運営は順調なのだ。
ノックの音。邪魔されたことを不愉快に思ってすぐ、昨夜の大失敗の記憶が蘇り、顔に血が上るのを感じた。彼女は努めて上品に明るく返事をし、自らドアを開けた。
「マリアベル。忘れ物だ」
ベノルが苦笑して、化粧落としの小瓶を目の高さで振って見せた。
「侍女たちが大騒ぎしていたよ。君が知らぬ間に、ドレスを脱ぎ捨てていなくなっていたのだ、と」
「あら、ごめんなさい。まだ何かあるだなんて、思わなくて」
受け取ろうと手を伸ばしたが、なぜかベノルは小瓶を引いた。目をしばたたかせるマリアベルに、微笑んでささやく。
「たまには、しっかり化粧をした君もいいな。綺麗だ」
取り合わず、マリアベルは肩をすくめた。
「よく言われますわ。でも、たまにするからこそ価値が生まれるのです」
ベノルは白い歯を見せて笑った。
「ははは。君と話すのは楽しい。昨日あきらめたワインを、今夜こそ飲まないか? 少しくらい疲れていても、今夜は付き合ってほしいよ」
断りにくい言い回し。彼は恐らく、意図的に行っているのだろう。戦や外交で鍛え上げられたスキルに、敵うはずがない。が、だからこそ、マリアベルの負けん気に火が付いた。僻地だけれど、領民の苦情やハイボンの圧力を、言葉巧みにかわしてきたのだ。
「もし私が、極度に疲れていると主張したら、どうされますの?」
にっこりと、挑戦する。ベノルは軽く目を見開き、困り顔で思案した。その表情だけでも、マリアベルは満足だった。
「嘘ですわ。ちょっと困らせてみたかっただけ」
ベノルはそれを聞くと苦々しく笑み、こう言った。
「君の本音を当ててみせよう。くだらない貴族たちの相手で、今日という時間を浪費してしまった。それを取り返すべく、今は手続きに関する仕事をしたい。それを邪魔されると、正直、不愉快だ。どうだろう?」
マリアベルの満足感は、みるみるうちに潰れていった。やっぱり、ベノルが一枚上手だ。
彼女の表情で、ベノルは悲しくも己の言葉が正しかったことを知った。さすがに気落ちした様子で、ため息をつく。
「仕方がないな。今後、その書類の束よりも君の気を引けるように、精進するよ。おやすみ」
無理やり不敵に微笑んで、彼は扉を閉めた。
部屋に一人、マリアベルは婚礼中の自分の態度に問題がなかったかを、思い返してみた。妻として最低限のことをこなしてさえいれば、ベノルがいくら傷ついた顔をしようとも、自分に言い訳ができる。これは、『取引』なのだと。仕事さえミスなく行えば、ノックロックは守られるし、私はここに存在していいのよ、と。
ともかく、今日は大きな一仕事を終え、正式に妻となったわけだ。
そこまで考えて、マリアベルは息を呑んだ。
「きゃー!」
思わず悲鳴を上げ、部屋を飛び出る。ちょうど、ベノルが寝室の扉を開けた時であった。驚いた彼は、すぐに彼女へ歩み寄って問うた。
「どうした?」
「ベノル様、ごめんなさい。あんなに誘ってくださったのに、私ったら、初夜だっていうのに……!」
そこまで一気にまくしたて、口を押さえて真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい!」
両手で口を押さえたまま、うつむく彼女。左手の包帯と赤く染まった耳を見て、ベノルは、ふ、と小さく吹き出した。
「今夜は、本当に疲れているようだから、様子を見ようと思っていた」
彼はマリアベルの頬に右手を伸ばし、包み込むようにして、優しく顔を上げさせた。
「だが、気が変わったよ。聞き流してくれていいから、言わせてくれ。今、心から、君が愛しい」
マリアベルはそのとき、領地を出立する前夜のことを思い出した。
「父様。ベノル様の二年前の離婚について、何かご存知?」
書斎に現れて突然そんなことを聞きたがった娘へ、ノックロックの領主はしばし黙した後、諭すように微笑んだ。
「男の過去は、あまり詮索するものではないよ」
「格好をつけていないで、早く教えてくださる?」
誤魔化しを辛辣に跳ね除けたのには、訳がある。
領地と王都を行き来する間、マリアベルには引っかかることがあった。ベノル=ライトの結婚に対する、国民の反応である。
ノックロックの民は、とても分かりやすい。これで生活が楽になるかもしれないという期待、そして、マリアベルの転機を祝う気持ちで、真っ直ぐに明るい。しかし、中央へ寄れば寄るほど、この噂話には影のようなものがつきまとう。言うならば、国民は恐れのようなものを抱いているようなのだ。
さすがに自分事である。マリアベルは噂話をよく聞いた。そして、二年前のベノル=ライトの離縁のことに思い至ったのである。
一体、何があったのか。知りたい気持ちが強くなった。しかし、本人に聞けるようなことでもない。ライト家の使用人たちも、どこかその話題を避けるかのように振舞う。仕方なく、父に尋ねてみたのだったが、散々好奇心を我慢した挙句に焦らされては、苛立ちも大きい。
父は娘の不機嫌をこれ以上煽るまいと、ぼそぼそと語り始めた。
「……あくまで噂だがね。彼は当時敵対していた、西のワオフ族の王女に恋をしてしまった。それも、まるで気が触れたかのように」
「あら。童話のようですわね」
「いやいや、そんなに美しいものではないよ」
父は身震いした。
「彼は恋に落ちる直前、ワオフ軍を殲滅し、彼らの地を制していた。王女にとって、彼は憎むべき仇であったのだよ。二ヶ月あまりの結婚生活の終わりは、ベノル様の自害未遂だという。恐ろしいことだ」
英雄が投獄されたという噂だけは、マリアベルも耳にしていた。騎士の命は王のもの。自害は王のものを粗末にする重罪なのである。
「よく分かりました。だから彼は、あんなにも自信がありませんのね」
肩をすくめると、父は小さくうなった。
「うむ。『取引』、か。彼は諦めてしまっているのか、それとも、目を閉じていたいだけなのか」
「……父様、何をおっしゃいたいのか分かりませんわ」
「実は私も、よく分からない」
「呆れた!」
立ち去ろうとした娘を、父は呼び止めた。
「マリアベル。おまえは、『取引』ということについて、どう思っているんだい?」
マリアベルの数々の決断に信頼をおき、これまでの26年間、口をほぼ一切挟まなかった父であるため、マリアベルは一瞬、どきりとした。どのような理由であれ、娘が高名な家柄の当主に貰われることを、父は喜んでいたはずである。
彼女は、取り繕うように、微笑んで見せた。
「要するに、互いを尊重しながら共に暮らしていけばいいということですわ。愛したら、負け。でも大丈夫。彼は確かに紳士的でハンサムだけれど、特別な感情を持つかどうかは別ですもの。貴族や王族は皆、そうして折り合いをつけて暮らしているわけでしょう? 笑顔を絶やさないのも、子供を産むのも、上品に振舞うのも、全て、仕事だと思えばいいのです」
言い訳がましくなるのを、どうすることもできなかった。父は察したように、何も言わずに微笑み返してくれただけであった。
マリアベルはその夜、ベッドの中で、父との会話を反芻してみた。ベノル=ライトの一度目の結婚は、よほど衝動的であったのだろうと思われた。自分を憎む敵国の王女を妻とするなど、なんのメリットも浮かばない。それほどまでに、その女を愛してしまったということなのだろう。
気が触れるほどに、人を愛すること。叶わぬ想いに、命を絶とうとすること。一体どれほどの情熱であろうか。
あの涼しい緑の双眸に秘められた激情。想像できないわ、と彼女は大きなあくびをし、眠りに落ちていったのだった。
しかし、
「今、心から、君が愛しい」
そう言った時の、ベノル=ライトの瞳。
マリアベルは、今の言葉も、その瞳も、全て忘れなければと思った。そうでなければ、魔法にかけられたように、引き込まれてしまいそうだ。
キスより、体を重ねることより、何よりもそれが、こわかった。