第三章 与えられた仕事とは (1)
第三章 与えられた仕事とは
(1)
スリノアの英雄と、辺境の領主の娘との婚約が、正式に発表された。
マリアベルが引っ越す準備を整える間に、ベノル=ライトの策は全て滞りなく成し遂げられた。新たに提出された収支報告の裏づけがされ、それが真であると証明された。裁判はうやむやになり、ノックロックの地に平和が戻った。
私の苦悩はなんだったのよ、と言いたくなるほどに、あっさりと片付いてしまった。マリアベルの胸に、この権力社会のシステムをどうにかできぬものかという強い意志が生まれた。それを彼女が実現させるのは、数年後のことである。
この際ジュードを正式な領主にしてしまおう、という父の提案もあり、そのための準備でも彼女は大忙しであった。ふてくされている弟を部屋から引きずり出し、領地運営の細かなノウハウを伝えた。手続きのため、領地と王宮を何度も往復した。ライト家専属の馬車を自由に使える上、ライト邸では婚約者として迎えられたため、費用を気にせずに準備を進めることができた。
お金があるって便利ね、と、彼女は目いっぱいその恩恵にあずかる。これは『取引』によって得られた、彼女の『権利』なのだから。
それは、マリアベルが、手続きのついでにライト邸へ寄った、ある日のことだった。
晴れた日の夕方。彼女が馬車から荷物を抱えて降りたとたん、慌てふためいた使用人たちが駆け寄ってきて、彼女の荷物を奪い取る。何でも自分でこなそうとする主の婚約者に、彼らは狼狽し、振り回されることが多かった。狼狽という面ではマリアベルも同様で、まるでお嬢様みたい、と肩をすくめる。これからまさしく、その『お嬢様』になろうというのに。
「旦那様はすでにおかえりです。お呼びいたしますので……」
「いいえ、結構ですわ。私がお部屋まで参ります」
「とんでもございません! そんなことをされては、私が旦那様に叱られてしまいます」
年老いてはいるが健康的な執事は、強引に、マリアベルを一階の豪勢な応接間へと押し込めた。
マリアベルは大きなソファにそっと腰かけ、嘆息した。そして、日も暮れぬこの時間帯にベノルが邸宅にいるのは、珍しいことだと思った。何度かこうして訪ねては少しずつ荷物を運び入れ、客間に泊めさせてもらっているが、ベノルが王宮から帰るのは決まって夕食の時刻ぎりぎりか、または住み込みの使用人たちが就寝する少し前であった。王の右腕として国政にも取り組んでいる彼の毎日は、多忙を極めるのだろうと推し測れた。
それでも、マリアベルが来ていると聞くと、ベノルは必ず夕食を共にするか、夜更けに扉の外から一言挨拶を投げかけた。そんなに気を使わなくていいのに、と思うのだが、夕食後に楽しそうに笑う彼の様子や、挨拶の際の嬉しそうな声音を聞くと、まんざら悪い気もしないのであった。国の英雄は、案外人気者のようで孤独なのかもしれない。そういえば、すでに両親は他界しており、妹はだいぶ前に出奔してしまったと聞いたことがある。出奔。こんな恵まれた環境を捨てるなんて、どういうわけがあったのだろう。
そこまで思い至ったとき、紺色のスカートに白いエプロンの女中が現れ、優雅に飲み物を置いていった。ライト家の使用人たちは、よく教育を受けた者が多いと、マリアベルはいつも感嘆する。その女中がまだ去らぬうちに、執事が困り顔で戻ってきた。
「マリアベル様、申し訳ございません。旦那様はお部屋にいらっしゃいませんでした。今、行方を捜させておりますゆえ、もう少々お待ちください」
マリアベルは吹き出しそうになるのを堪えた。家の中で行方不明とは。マリアベルの住む館では、考えられぬことであった。大声で「ジュード!」と呼べば、どこかしらから返事が聞こえ、それで済んでしまう。
「執事様」
去り際の女中が、言い残した。
「もう一時間ほど前のことですが。旦那様がライナス様のお部屋へ向かわれるのを見た者がおります」
とんでいくかと思われた執事は、しかし、躊躇するように息を呑んだ。
ライナス=ライトとは、スリノア国民ならば誰もが知る名だ。ベノル=ライトの父で、例に漏れず騎士団長を務めていた。クーデターの際、王子や若い騎士たちを逃がすため最後まで王都に残り、壮絶に果てたと言われている、勇士である。
「ベノル様の亡きお父上のお部屋が、残されているのですか?」
マリアベルが驚きとともに尋ねると、執事は歯切れ悪く答えた。
「ええ。旦那様が、移ることを嫌がられて……」
「そのお部屋は、どちらですの?」
立ち上がったマリアベルを見て、執事は慌てた。しかし、マリアベルはここを譲る気はなく、案内するよう押し切った。
複雑な表情で、執事は彼女を一階の奥へと導いた。そして、立派な扉をためらいがちにノックする。
「旦那様。マリアベル様がおいでです」
狼狽の気配ののち、すぐに行く、と中から返事があった。上品な発音に澄んだ声音。まぎれもなく、ベノル=ライトのものだった。
「いいえ、旦那様、申し訳ございません……マリアベル様はもう、ここにおいでなのです」
ちょっとした間の後、はは、と笑い声が聞こえてきた。
「どうぞ、お入りください。ノックロックの姫君」
冗談めかしたその言葉に渋面になりながら、マリアベルは扉を押した。執事は扉の外で控えるつもりのようで、一歩下がって恭しく礼をして彼女を見送った。
部屋の内部の印象は、マリアベルにとって、荘厳、の一言であった。
正面には大きな装飾窓がふたつあり、斜陽が降り注いでいる。美術品のような、味わい深さを感じさせる家具の数々は、いたってシンプルな造りであるが、その中に、何百年と愛されるものをという職人の気概が漂うようだった。天井のシャンデリアは、銀製だ。蝋燭を差し入れたならば、どれほど美しく輝くであろうかと、ため息を誘うほどの絢爛さである。
ベノル=ライトは、奥の書斎へ通じる出入り口のところへ立っていた。マリアベルの姿を見て、嬉しそうに笑んでいる。
「君のいる人生は、退屈しなさそうだな。いつも私を驚かせ、楽しませてくれる」
「私が勝手を申し上げたのです。執事の方を叱らずにいてあげてくださる?」
「日々の働きに感謝はすれど、彼らを叱ることなど滅多にないよ。私を過剰に恐れるのは、父が厳しい主だったせいだろう」
マリアベルは、この部屋がよく手入れをされ、綺麗に保たれていることに気づいた。そして、壁に飾られたタペストリーの下の小さな台に、シンプルなデザインの鉢植えと、そこに咲く生花を見とめた。濃い鮮やかな緑の葉に、ふわりとしたピンクの花びら。こぼれるように咲くその花の中央部分は、うっすら黄色く色づいている。
「カトレアという花だ。蘭の一種だよ」
彼女の視線を追ったベノルが、絶妙のタイミングで説明を入れた。
マリアベルは二年間、故郷を離れて王都の学校へ通ったことがある。農耕分野の勉強をして、領地運営へ活かすためだ。その学生生活の中で、花について学ぶ機会もあった。蘭は美しいが育成に手間がかかり、咲かせるのは難しい。細かな手入れは、ベノルが使用人に命じているのだろうか。主を失ったこの部屋で、立派に咲き誇るその蘭は、どこか寂しげに映った。
「私の母は、もう二十年も前に亡くなったのだが、花の好きな女性だった。父が口下手で、よく花を贈って取り繕ったからなのだが」
なぜか気恥ずかしそうに、ベノルは両親を語った。
「彼女に先立たれた後も、父はいとおしむように花を置き続けた。私が長くここを離れている間に、それらは全て枯れてしまった。だが、ひとつでも置いておきたいと思い、母が一番愛したカトレアを選んだのだよ」
マリアベルは動くことができず、その花を遠くから眺めたまま、おもむろに言った。
「『あなたは美しい』」
ベノルはすぐに察し、嬉しそうに微笑した。
「正解だ。カトレアの花言葉。父はよく、アスターや白のストックも母へ贈っていた」
「『私の愛はあなたの愛よりも深い』。『永遠の恋』」
「博識だな。素晴らしい。こっちへ来ないか、父の書斎だ」
招かれるまま、マリアベルはその書斎をのぞいた。
居間と同じように、質の良さそうな家具が置かれてある。本棚には書物が詰められており、それは兵法を始め、様々な分野に渡っていた。窓へ向かった机には、主が愛用していたと思われる万年筆やメモ帳が、そのままに置かれている。椅子は斜めに少しひかれており、まるで誰かがそこから立ち上がった痕跡を残すかのようだった。
「ライト家の当主は」
言葉の出ないマリアベルのそばで、ベノルは静かに語った。
「代々、ここに住んできた。元当主が生きていようが、その地位が譲られれば部屋の主も交代する。誰が決めたのか定かではないが、使用人たちはそれが習わしだと信じ込んでいる。だから、私がここへ移らないことを、不審に思う者が多いようだ」
まるで、主を待ち続けるかのような空間。ベノル=ライトが王子と共にスリノアへ帰還したのは、三年も前であったはずだ。その間中、ずっと、この部屋はこうして保たれ続けてきたというのか。主は決して、還らぬというのに。
ベノルは書斎へ歩み入り、椅子の背に、そっと手を乗せた。老いた彼の父がそこにおり、その肩を労わるかのような手つきであった。
息を呑むマリアベルへと向き直り、彼は何かを吹っ切るように微笑んだ。
「君を迎えるにあたって、ここへ移ろうかと考えているのだが。どうだろう」
悲しい微笑と静かな声音は、マリアベルの胸へ染み渡った。引きずられるように、哀しみがあふれてくる。
彼女は微笑むことができず、ただ、ぽつりと、答えた。
「貴方が、そう望むのなら」
静かに暮れ行く中、マリアベルは夫となる男の内面へ、初めて触れたのだった。英雄は華々しく讃えられながら、未だ過去に囚われて生きている。彼の喪失の根深さが具現化されたこの空間は、それのほんの一部なのであろうと思われた。
それほどまでの喪失を、マリアベルは、知らない。
その深い絶望を味わう前に、彼女はこの英雄に救われたのだ。