第二章 救済という名の取引 (3)
(3)
マリアベルの決心が揺らぐことはなく、矢のように二日が過ぎた。
約束の二日目、彼女は領地運営に関する業務を、一切、放棄した。生涯共にするはずだった故郷の思い出の地を回り、哀愁に浸って日が暮れた。
昨朝の弟の言葉が、ふとする度に胸へ突き刺さる。ジュードは英雄の提案に対して不快感と怒りを露わにし、猛反対した。しかし、姉がすでに結論を出してしまっていると知ると、顔を真っ赤に染めて叫んだのだ。
「姉上なんか、大嫌いだ。一生、権力者の操り人形になっていればいい!」
その言葉が、どれほど彼女を傷つけたことか。少年がそれを知るのは、当分先のことであろう。マリアベルには、わかっていた。それでも、涙が止まらない。
いい加減、泣き疲れた頃、彼女は帰宅した。門の脇には、ベノル=ライトの美しい馬。思わず、ため息がもれる。つい三日前までは、かけ離れた世界だったというのに。
「マリー!」
門の傍でぐずぐずしていると、馬の駆ける音が近づいてきた。煌びやかな衣装に、過剰な香水。テオである。
「おまえ、結婚するかもしれないって、本当なのか?」
馬から飛び降りた彼の顔には、珍しく下卑た笑みはなく、焦りの色が濃い。
「たいした情報網ね」
この男に対する怒りはすでになく、マリアベルはいつも通りに冷たくあしらった。
「相手が誰かも、調べ上げているわけでしょう」
「そんなこと知るか。一体どんな物好きだ? 俺に断りもなく、おまえに突然プロポーズするなんて」
マリアベルの胸に、小さな企みが生まれた。
「その物好きの顔、見てみたい?」
挑発的に笑んで誘うと、テオは息巻いた。
「来てるのか? 一発殴って、追い返してやる」
マリアベルは必死に笑いをこらえ、すまし顔で彼を中へ連れた。応接間では、二日前と同じように、父とベノルが歓談をしていた。
「ただいま戻りましたわ、ベノル=ライト様」
にっこりと、英雄へ呼びかける。傍らでテオが固まるのがわかった。
「やあ、おかえり」
立ち上がったベノル=ライトは、やはり涼しげに微笑み、マリアベルと隣の派手な男とを交互に見やった。
「ご紹介いたしますわ。彼は私の幼馴染で、テオ=ハイボンという者です。隣のハイボン領を治めるハイボン家の、次男ですわ」
「ほう」
ベノルはマリアベルの意図を察したのか、微笑は崩さない。しかし、緑の双眸が鋭さを増し、剣呑な光を放った。テオが上げた小さな引きつった声を、マリアベルは聞き逃さなかった。
「彼はここ半年ほど、私に求婚してくださっているのです。新手の男を、ぜひ拳で迎えたいと、きかないものですから」
「なるほど。素手の勝負はあまり得意ではないが、もちろん、受けて立とう。さあ、表へ出ようか」
ベノル=ライトは右の拳を左手に当て、不敵に笑んだ。優雅な立ち振る舞いの中にも、どこか凄みが感じられる。
歴戦の英雄に挑まれ、その凄みを真っ向から浴びたテオは、「ケッコウデス!」と叫ぶように応えた。そして、脇目も振らずに背を向け、泡を食ったように逃げ出す。あまりに必死だったのか、出入り口付近の壁に体のどこかをぶつけた音と、小さな悲鳴が聞こえてきた。
マリアベルはこらえ切れずにぶーっと思い切り吹き出し、壁を叩いて大笑いした。
「なんて痛快なの! ざまあみろだわ、最高! ねぇ、見た今の?」
とベノルに振ってしまい、悲鳴を上げる。
「きゃー! 失礼しました、きゃー!」
大爆笑から一転、真っ赤になって口を押さえるマリアベル。その変わり身の早さに、今度はベノルが吹き出す番だった。彼はうつむき腹を押さえ、堪えるように肩を震わせる。それを見て安堵したマリアベルは、テオの裏返った声と情けない逃げっぷりを思い返し、再び吹き出して爆笑した。
ねじが飛んだかのように笑い転げる娘を、父が困り顔で諭した。
「マリアベル、あまりテオ君をからかうと、可哀想だろう」
「可哀想なものですか! これで二度と大きな顔をしてここへ来られないでしょう。ざまあみろだわ。あー、なんて気持ちいいの!」
やっと笑いが静まったのか、ベノルが顔を上げた。
「ははは、君はずいぶん楽しそうに笑うんだな。つられてしまう。こんなに笑ったのは、久しぶりだ」
「だって、あいつに一泡吹かせてやれるなんて! 本当に最高」
なおも笑うマリアベル。ベノルは領主に会釈をし、彼女を自室へと促した。移動し、部屋に二人きりとなっても、マリアベルはまだ、笑いの尾を引いていた。
「笑顔が、一番似合う」
ベノルは前置きしてから、親指で彼女の目元へ触れた。
「だから、気になって仕方がない。君が今日、どこにいて、なぜ泣いていたのか」
マリアベルは、少しだけ腫れた目を、見開いた。誰にも気づかれない程度に落ち着いたからこそ、帰宅したというのに。さすがは騎士の頂点に立つ男だわ、と微苦笑する。女性の扱いには、慣れたものなのだろう。
「このところ、毎日泣いてばかりですわ。中央は中央で大変なのでしょうけれど、僻地は残酷なほど無力感に溢れておりますもの」
ベノルの顔に、安堵の色が広がる。
「そうか。突然現れた男にさらわれる恐怖が、君を泣かせていたわけではないのだな」
「少女じゃあるまいし、そんなにヤワじゃありませんことよ。取引に応じますわ、ライト様」
「ベノル、でいいよ」
涼しく笑んだまま、彼は根気強く待った。
マリアベルは困ってみせたが、相手が折れそうもないので、言い換えた。
「取引に応じますわ、……ベノル様」
「ありがとう。では、改めて」
非の打ち所のない英雄は、マリアベルの前へと跪いた。
「どうか、私の妻となってください」
左手にキスをされ、マリアベルは耳までも赤く染めた。
第三章へ続く