第二章 救済という名の取引 (2)
(2)
何を食べたかも覚えていないが、マリアベルは夕食をとった。父と、弟と、英雄と。
こういう時の父の柔軟性には、いつも感服する。父はベノル=ライトとあまり面識がないはずで、会話の内容からも、それがうかがえた。しかし、まるで旧来の友人と接するかのような落ち着きようだ。
ジュードは、この年頃の男の子らしく、憧れの英雄の前ですっかり固くなっていた。ちょっとした警戒心もあるようだった。たまにベノルに話し掛けられると、彼は困ったように姉へ視線を向けた。私に振らないでよ、と彼女は目をそらす。そうすると、ベノルは慈しみに満ちた微苦笑を浮かべるのだった。
「突然お邪魔した上、夕食までいただいてしまい、恐縮です」
「とんでもございません。ベノル様でしたら、いつでも歓迎いたしますよ。もうすっかり日も暮れてしまいましたから、出立は明朝にされてはいかがでしょう。貧相な客間ですが、ぜひご使用ください」
「それはありがたいことです。日の出とともに御暇させていただきます」
「ええ、わかりました。気兼ねせずに、お好きにお過ごしくださいね。ところで、マリアベルに用がおありだとか」
マリアベルは悲鳴を上げそうになり、何とか飲み込んだ。恐る恐るベノルの顔を見ると、緑の双眸が真っ直ぐに、彼女を捉えていた。
「夕食も済んだことだし、君と二人で話がしたい。いいかな」
マリアベルは、壊れた人形のようにかくかくとうなずいた。
「こら、マリアベル。きちんと返事をしなさい」
父の穏やかすぎる声が、今はとても癇に障る。
「それに、部屋は片付いているのかい?」
「えぇっ!? 私の部屋にベノル様をお通しするの?」
「おまえの部屋以外に、どこが適当だと言うんだ。さあ、早くお連れしなさい」
こうして、彼女は自室で英雄と二人きりとなってしまった。
「そんなに緊張しないでくれ」
英雄はマリアベルの様子を見て、苦笑した。マリアベルの胸に、ひとつの謎が生まれる。なぜ、ベノル=ライトがすることには、全て上品さが付きまとうのか。苦笑いでさえ、育ちの良さを感じさせる。
「どうすれば、君をリラックスさせてあげられるだろう?」
マリアベルは、深呼吸した。そして、吹っ切れたように、英雄へと真っ直ぐ顔を向ける。
「スリノア騎士団長、ベノル=ライト様。私のような弱輩者に、どのような御用でしょうか」
ベノルは小さな期待を、大きなため息へと変えた。どうしろって言うのよ、とマリアベルは固く口を結ぶ。
「十七年前や、互いの十七年間の話でもできたらと思っていたのだが。すぐに本題に入った方が、よさそうだな」
マリアベルは、十七年十七年と何度言われても、ぴんとこない。確かに、幼い頃に一度だけ王宮へ行ったことがあり、少年だったベノル=ライトを見た覚えはある。しかし、直接言葉を交わしたり、強烈な出来事があったりしたわけではないのだ。
ベノルは彼女の戸惑いをよそに、涼しく微笑んだまま告げた。
「実は、今ノックロック家が陥っている状況を、私は知っているのだよ」
マリアベルは、息を呑んだ。
「申し訳ございません、父がお耳汚しを……!」
「そうではない。元々知っていて、ここへ来たのだ。君を悩ませている卑劣な策略のことは、陛下もご存知だよ」
「へ、へいか……?」
目眩を感じ、マリアベルは額に手をやる。話のスケールが大きすぎて、ついていけない。
ベノルは相変わらず涼しく笑んだまま、マリアベルを気遣ってか、ゆっくりと続けた。
「ハイボン家の陰の部分は、噂で流れては来る。しかし、うまいもので、なかなか尻尾を出してくれない。仕方なく泳がせていたのだが、今回ばかりは放っておけぬと思った」
「……ですが」
マリアベルは、正式な文書にも関わらず写し紙を使用しなかったミスを、打ち明けた。
「そんなことは、気にしなくていい」
ベノルは、さらりと言ってのける。
「ハイボン家は、様々な縁故を持っているようだ。文書の改ざんや監査員への密告が、それを物語っている。そうした悪の力に対し、正規の手法を持ち出したところで、通用するはずがない」
「では、どうすると……」
「簡単なことだ。ノックロックがハイボンを上回るような、強力な伝手を持てばいい」
不敵な笑みは、しかし、マリアベルを完全に安心させはしなかった。
「論は理解できますが……それを実行できなければ、意味を為しません」
ベノルは嬉しそうに、上品に微笑した。
「やっと、君らしくなってきた」
「からかわないでください」
私の何を知っているのよ、という苛立ちが少し、あとは恥ずかしさで、マリアベルはうつむく。
「ライト様のおっしゃることが可能ならば、私は全てを投げ打ってでも実行するでしょう。しかし、裁判までの短期間では無理があります」
「本当に不可能なことを、私が提案すると思うのか? 聡い君ならば、私の策を当てられるはずだ」
ベノルは大きな右手を、マリアベルの前に突き出した。謎かけと共に、長い指が現れ、増えていく。
「一つ目。私は陛下に許しを得て、休暇をいただき、単独で動いている。二つ目。私は君と話す前に、君の父上と打ち解けるよう、努めた。三つ目。私は、君と二人きりで話をしたいと願い出た」
控える指が残り二本になっても、マリアベルは口を開くことができない。ベノルは、意外そうに肩をすくめた後、ふと、気づいた。
「そうか。君は、噂話に興味がない。違うか?」
「……熱心に収集しようという気持ちは、ありません」
「では、私が二年前に離婚をし、今、結婚相手を探していることも、知らないというわけだな」
マリアベルは、ぽかんと口を開けた。次の瞬間、驚愕する。
このひと、正気なの?!
ベノルはそんな視線を受けながらも、相変わらず上品に苦笑した。
「気を悪くしないでほしいのだが、私は君を物扱いしたいわけではない。むしろ、君という女性に、敬意を抱いているくらいだ。恵まれぬ中、善政で領地を支えてきた。統治者の鏡だ」
「ま、ま、待ってください……」
力なく言葉を挟んだものの、次の言葉が浮かばない。それを察したベノルが、続けた。
「だが、これはある種の『取引』だ。君は領地を救うため、私は私の思惑のため。互いに互いを利用するというわけだ。もし君が不快に思うならば、今すぐ退室し、二度と君の前に現れないと約束しよう」
取引、思惑、利用。そういった単語が、マリアベルを徐々に冷静にしていった。まともに働き出した脳が、この場に最もふさわしい言葉を探し始める。
「よく、わかりました。私がライト様と結婚したならば、毒をもって毒を制すことができるというわけですね」
「そういうことだ」
「一点だけ、腑に落ちないことがあります。ライト様のおっしゃる『思惑』とは、具体的にどのようなことでしょうか。僻地の領主の娘を貰うことで、英雄に何のメリットが?」
ベノルは一瞬、考えるような素振りを見せたが、すぐに口を開いた。
「私のように下手に権力があり、祭り上げられているような男は、本来ならば慎重に妻を選ばなければならない。貴族間の力の均衡を崩してしまうと、厄介だ」
あとをマリアベルに託すかのように、彼は黙って含み笑いをした。仕方なく、マリアベルは続きを拾う。
「だから、中央の貴族の娘ではなく、私だということですか」
「それもひとつの要因ということだ。元々、私にとって君は特別なのだよ。まだ、恩返しができていない。くだらない地位や名誉が、このような形で役に立つというのであれば、喜んで君のために使いたい」
なぜこんなにもベノルが自分を買いかぶっているのか、理解に苦しむ。しかしマリアベルは、彼の『思惑』についてはひとまず納得した。ノックロックほど他の領主とのつながりが薄く、影響のない家も、珍しいのである。確かに、面倒なことにはなりそうもない。
「こんな男で申し訳ないが、君の力になるためだと思ってくれ」
「何をおっしゃいますの……」
マリアベルにはとても信じ難い、ベノル=ライトの言葉と自虐めいた笑み。こんなにも全てを揃え持った貴公子には、まったくもって相応しくなかった。
さては、何かあるわね。マリアベルは、このハンサムな英雄の隠された短所、性癖を想像してみた。そういう目で見てみると、緊張や高揚が霧散していくようであった。彼もまた、ただの一人の男という側面があるはずなのだ。
「大事ではあるが、急を要することだ。返答は、二日後にくれないか。私には、ノックロックの東向こうに友人がいる。彼に顔を見せてから、また戻ってくるよ」
「返答だなんて」
「突然の報せは感情を高ぶらせ、判断を鈍らせる。君の才知が私の策を冷静に認めてくれることを、祈っているよ。ぜひ、生涯のパートナーとして、君を迎えたい」
英雄は静かに微笑み、部屋を立ち去っていった。とても上品な、洗練された動作で。
マリアベルは、頬を思い切りつねってみた。
とても、痛かった。