第二章 救済という名の取引 (1)
第二章 救済という名の取引
(1)
それから一週間ほど、マリアベルは領内の村々を飛びまわった。状況と、今後の展望を説明するためである。
ハイボン家の黒い噂は、領民の知るところであった。彼らはこの策略に憤りながらも、ハイボン領へと組み込まれた後の不幸な日々を思い、落胆した。その落胆を、日にいくつ受け止めねばならなかっただろう。領民の前では決して笑顔を絶やさず、希望を捨ててはならないと明るく振る舞い続けるマリアベルであったが、帰宅すると食事もそこそこに部屋へ引きこもり、枕を濡らして眠った。父もジュードも彼女を心配したので、三日目以降、食事だけはとるように心がけたが、自室のベッドに事切れたように倒れ込むと、涙がとめどなく溢れてくる。それを止めることだけは、できなかった。
そんなある日のことである。
遠くの村へ朝早くに出かけ、日が落ちかけた頃に、マリアベルは領主の館のそばへ戻った。ノックロック家は馬を所有していないので、遠出する際には近くの気のいい酪農家から馬を借りている。それを返却し、徒歩でふらふらと近くまで戻ってきたのだった。
ノックロックの領主の館は、一般的な家を少し大きくしたくらいのものだ。以前、用があって王都から訪ねてきた貴族の従者たちは、領主の館を特定できずにしばらく近辺を彷徨ったという。確かに、小さな正門には一人の番人も立たせていないし、もっと言えば、門をくぐった先には客人の馬を待たせておく小屋すら用意していない。庭と呼べるようなスペースもなく、玄関までの短い距離を殺伐とした石畳がつなぐだけの、なんとも貧相な見栄えである。
マリアベルは、そのことを特別気にしたことはない。馬など、門の前の柵にくくりつけておけば済むことであるし、番人や庭師を世話する金があるくらいなら、領民の暮らしを良くするために使いたい。無駄に見栄えを取り繕う必要を、彼女は感じなかった。だって、貧乏には違いないのだから。
こうした無頓着なマリアベルが、改めて館のことを意識した理由は、ひとつの異変であった。
門の脇に、見慣れない馬が一頭、静かに佇んでいたのである。
毛並みの艶が良く、上品な印象を与える馬であった。柵に繋がれてもいないのに、おとなしくその場を動こうとしない。忠実に言いつけを守るかのように。
例によって疲れ切っていたマリアベルだが、興味をそそられて、そっと馬に近付いてみた。先ほどまで乗っていた別の馬の臭いがついていたのか、鼻がひくひくと動く。それ以外に、馬は大きな動きを見せなかった。
なんて賢そうな馬なの。マリアベルは感嘆した。地方で放し飼いにされ、伸び伸びと育った馬にはない品が漂っている。きっと、王都の馬であろう。
そう気づいたとき、マリアベルの疲れが一気にぶり返した。同時に、投げやりな気持ちが芽生える。彼女は無気力に、ぼんやりと門をくぐった。どんな来客があろうと、知ったことではない。裁判の日取りも、そろそろ決定するであろう。あの馬は、監査員の従者を乗せてきたのかもしれないのだった。
「姉上、姉上!」
なぜか玄関の前で、ジュードが血相を変えて彼女を待っていた。裁判のことを告げられたにしては、大げさな迎え方だ。ただならぬ弟の様子に、不安がよぎる。
「どうしたの、ジュード?」
「お、落ち着いて聞いてください」
少年は、マリアベルの腕を強くつかみ、一息に言った。
「あの英雄ベノル=ライト様がいらしているのです!」
マリアベルの疲れた脳から、国の英雄の情報が取り出された。
ベノル=ライト。由緒正しきライト家の、現当主。ライト家は建国以来、代々、スリノアが誇る騎士団の長を務め、王の補佐をしている。また、多くの騎士を育て上げる、騎士の登竜門としての役割も、邸宅で担っている。要するに、国の軍事における最高の地位に君臨し続けているのが、ライト家の当主なのである。
さらに、ベノル=ライトは、スリノアの内乱を平定した英雄でもある。クーデターによって国を追われた王子を守り続け、スリノア奪還軍を組織しまとめ上げ、見事な指揮でスリノアへ自由と平和をもたらした。確か、まだ三十を超えたばかりの若き英雄であったはずだ。そして、その軍才だけでは飽き足らず、長身で整った容姿も評判だという。スリノアの象徴である森の色の瞳には、魔力があるとさえ言われている。まさに、大陸中に知れた貴公子なのである。
マリアベルは、大きなため息をついた。いきなりそんな別世界の住人の名前を出されても。
「ジュード。冗談ならせめて夕食の後にして」
「本当です、姉上に会いにいらしたそうです!」
この純粋な弟も、気苦労続きでついにおかしくなってしまったようだ。マリアベルは泣きたくなった。
「だいたい、そんな方が馬一頭でこんな僻地にいらっしゃるわけがないでしょう」
「とにかく、早く中へ。もう一時間もお待たせしているのですから!」
弟に強引に連れられ、マリアベルはくたびれた人形のように、無気力に応接間へと入った。
「おお、帰ったか、マリアベル」
応接間では、父が一人の男と向かい合って座し、歓談をしていた様子であった。父は娘の姿を見とめると、ゆっくりと立ち上がり、客へにこやかに紹介する。
「ベノル様、あれが娘のマリアベルです」
共に立ち上がった長身の男は、金髪を品良く切りそろえ、後ろへ流していた。洗練された動作で、マリアベルへと向き直る。騎士が鎧の下に着込む、スリノアの紋章が描かれた正装。ハンサムな微笑。そして、涼しい輝きを持つ、緑の双眸。
「十七年ぶり、と言ったらいいのか。美しく成長したものだ。私のことを、覚えてくれているだろうか」
正真正銘スリノアの英雄は、気恥ずかしそうに、そう言った。