第一章 喪失の予感 (4)
(4)
監査員は、非常に事務的な男であった。控える二人の従者も、無表情を崩さない。
氷室のような応接間兼居間で、ノックロック一家はその男と向き合っていた。
彼が鞄から何やら書類を取り出し、机に並べる間、マリアベルは落ち着かなく両手を握り合わせていた。ソファに腰掛けてはいるが、身を乗り出しすぎて、半分体が浮いている。
「まず、今回の収支報告書ですが」
監査員は、一家の手に届かない位置で、その書類を見せた。
「こちらで、間違いありませんね」
マリアベルは唖然とした。
彼女が送ったはずの報告書とは、桁が違うほどに内容が変わっている。
「それは、私が送ったものではありません!」
「ですが、ここにノックロック家の印と、あなたのサインがあります」
事務的な口調は、淡々と事実を述べる。
「これが偽物だと言うのでしたら、ノックロックの印も偽物ということになりますが。いかがでしょうか」
見た限り、印もサインも、一家のよく知る、ノックロックの証であった。
マリアベルは混乱した。どういうことなのだろうか。印はそう簡単に複製できるものではない。そもそも、複製を避けるために、領主一家と王宮の人間以外に印が目に触れることのないよう、どの領主も気をつけている。ノックロックも例外ではない。だが現に、印と、そしてマリアベルのサインも精巧に真似られている。今回届かなかった本物の収支報告書が何者かに奪われ、そこで複製が為されたのか。いいや、それにしては期間が短すぎる。まさか、かなり前から印が複製され、用意されていたというのか。いったい、いつ。どこで印が外へ洩れたのだ。これまでに、届かなかった、あるいは届くのが極端に遅れた重要書類はあっただろうか。
そこまで思考を巡らせてから、彼女は自らそれを断った。そんなことをいくら考えて答えを出してみたところで、現状を打開できる鍵には成り得ない。それは無駄というものだ。そして、同じ無駄に近い行為ならば、わずかでも現状打破の可能性を秘めた行為をとるべきだ。
マリアベルは、冷や汗の滲む手で、用意しておいた控えの書類を机に広げた。
「しかし、私は確かに、これと同じものを提出いたしました。まったく同じ内容のものを」
「写し紙ではありませんね」
またも淡々と事実を突きつけられ、マリアベルは黙するしかなかった。
「あなたが同じ内容のものを提出したという証拠は、ないというわけですね」
監査員は、勝手に納得し、結論づけ、話を進めていく。正確に楔を打ちつけ、埋め込んでいくかのように。
「こちらで受け取った書面には、疑わしい点が多々ありました。昨年よりも収入が激減し、支出の多くが『その他』の項目に振られています。つまり、支出の大部分を用途不明金が占めているわけです。正直、あなたがたの領地運営について、疑問を抱かざるを得ません」
己の人生を全否定されたに等しい言葉に、絶句するマリアベル。
その姉に代わり、ジュードが食い下がった。
「待ってください。本当の収支報告は、ここにある書類の方です。こちらが真実なのです。改めて、提出し直すことはできないのでしょうか?」
「できます。もちろん、受け取りましょう。しかし、ノックロック家が偽りの文書を提出したという事実は、変わりません」
正論はまたも楔を深く打ち込む。ジュードもまた、言葉をなくして黙するしかなかった。
「そして、その偽りの収支報告によって、あなたがたは国から相当な額の援助を受けたかもしれなかったのです。これは横領未遂です」
横領。マリアベルは血の気が引くのを感じた。誠心誠意で生きてきた彼女には、生涯無縁の言葉であるはずだった。横領。なんて重苦しい響きなのだろう。受け止めきれない。マリアベルは虚無を引き連れた白い波に飲み込まれないよう、何かを考えようと思った。横領以外の、別のなにか。
そしてふと、場違いに父の心配をする。この話だけで、死んでしまったりはしないだろうか。様子を横目で見てみると、顔面蒼白でプルプルと震えていた。とりあえず、生き長らえてはいる。
「では、王宮にて、裁判の準備を進めます。日程や対応については、後ほど従者から連絡をさせますので」
監査員が立ち上がる。従者たちが浮き足立つように撤収へ意識を向けるのが感じられた。
ここで黙って見送っては、領民を守れない。マリアベルは、最後にせめて一矢報いようと、鋭く監査員を呼び止めた。
「お待ちください」
同時に、彼女はすっと立ち上がる。毅然としたその声に、監査員は数歩踏み出した足を止めた。マリアベルを一瞥するも、体は半分、戸口へと向いたままである。
「まだ、なにか?」
「事実は事実として、受け止めますわ。しかし、私は監査側の態度に疑問を感じます」
「どういうことでしょうか」
「収入が激減したことと、用途不明金が多いことを、あなたは」
口にするのは抵抗のある言葉を、ためらいつつ吐き出す。
「…横領未遂の根拠とされましたね? しかし、何かの要因で収入が減ることは、有り得ない話ではありませんし、用途不明金も、あまりに細かく項目が膨れ上がる場合には『その他』とひとくくりで出すことも、事例としてあるはずです。それなのに監査側は、ろくな調査も行わずに突然、警告状を送りつけてきました」
監査員は、初めて興味をそそられたように、礼儀をもってマリアベルへと向き直った。声はあくまでも事務的だが、彼はどこか警戒する気色を見せながら、問いを投げかけた。
「我々が調査を行っていないと、なぜ言い切れるのですか」
マリアベルはあまりの緊張に軽い吐き気を覚えたが、努めて、すまし顔でゆっくりと告げた。
「報告書が中央へ届いたのは、早くとも今から二週間前。それなのに、警告状は、今から一週間前に届きました。充分な調査を行う期間があったとは、とても思えません。それでも調査を行ったとおっしゃるのであれば」
彼女は、にっこりと、そしてわずかに挑発の色を滲ませて、微笑む。
「あなたがたの大好きな『証拠』を、見せてくださいませんこと?」
沈黙の中、傍らで、ジュードが笑みを忍ばせながら膝の上で拳を握った。
マリアベルは、まだまだ少年であるこの弟ほど楽観的ではない。この程度の反撃で現状をがらりと変えることは、難しいだろう。だが、せめて時間稼ぎにでもなれば。
彼女の切実な期待は、しかし、すぐに粉々に砕けた。
「確かに、調査を充分には行っていません」
監査員は、最後まで事務的に告げたのだった。
「我々が疑念を抱いたのは、ハイボン家の証言があったからです。ノックロック家が経済的に貧窮していることを語られ、その上、あの報告書では、疑う余地がありません。裁判へ向けたご準備を、お願いいたします」
結局、起訴は避けられず、監査員は立ち去ってしまった。
しかし、最悪の事態になった場合の復讐の対象は定まった。書面の改ざんも、ハイボンが手回しをしたに違いない。マリアベルは、警告状が届いた次の日にテオが訪ねてきた理由を、ようやく知ったのだった。彼はこの家の様子を偵察がてら、あざ笑いに来たのだ。
救いようのないクズだわ。彼女は夜、自室で怒りに震えた。あんな男の思い通りに事が運ぶなど、耐えられない。が、もはや打つ手はなく、絶望的な裁判の結果を待つことしかできないのである。
マリアベルは、机の引き出しから、シンプルなデザインの小物入れを取り出した。ふたにサファイアが埋め込まれている以外に、金銭的価値はない。しかし、彼女にとっては、この世にただひとつの、母の形見である。
「母様の、うそつき」
涙と共に、つぶやく。この代々伝わる家宝には、幸せを呼ぶ力があるのだ、と母はマリアベルに教えた。正しい心を持っていれば、幸福が味方についてくれるのだ、と。
そんな魔法のようなことが、あるはずがない。母は代々伝わる教訓を、この小さな箱に込めてマリアベルへ贈っただけだ。わかっていても、今はその不思議な力というものを信じ、縋りたい。彼女は出会ったことがないが、この世界に魔法使いという存在があることは確かなのだ。それならば、幸福を呼ぶ魔法が、この状況から彼女を救ってくれることだって、起り得ないことではない。絶対に起り得ないとは、言い切れない。
「……馬鹿みたい」
マリアベルは、深く自嘲した。どんなに涙で濡らしても、サファイアはただ、美しく輝いてみせるだけであった。
第二章へ続く