終章 続く道の先
終章
叶うはずのない願い。
例えば、死者を蘇らせること。深い後悔の残る過去の分岐点へ戻ること。結ばれ得ない愛する人を手に入れること。
誰でも、そうした願望のひとつくらいは、持っているものだ。それを簡単に口に出す者もあれば、心の底に秘めておく者もある。いずれにせよ、叶うはずのない願いだからこそ、諦めつつ、あるいは安心して願うことができる、という一面もあるだろう。
しかし、それが叶うとしたら。叶ってしまうとしたら。
人は、どうするものなのだろう。迷わず願うだろうか。それとも、狼狽し、怯えるだろうか。冷静に熟慮し、己と向き合い、その果てに毅然と決断をすることなど、できるだろうか。
そんなことを考えながら、彼女は眠りから覚めた。
温もりと愛しさに、包まれている。彼女の首の下には、男の腕が敷かれていた。
目を開けると、大きな窓から、朝日が祝福するがごとく真っ白く降り注いでいる。清潔で柔らかなベッドの中、触れ合う素肌。静かな呼吸が、彼女の豊かなブロンドをくすぐる。鼓動は、穏やかだ。ゆったりと、だが生命の力強さをもって、刻まれている。
こうして夜が明けようとも、彼の情熱の残滓が身に刻まれているようだ。その激しさから生み出されたとは到底思えぬほどの、静かで、幸福な、まどろみ。
彼女は安堵して、男の胸に身を寄せる。衣擦れの音と、愛しい者が腕へ納まる気配に、男は目を覚ましたようだった。彼女の細い腰に無造作にかけられていた腕が、寝ぼけた緩慢な動きで、白い背へ回る。
抱き寄せられた彼女は、体中を満たす愛と幸福に、思わず吐息をついた。愛する人に抱かれ、その熱を感じ、共に眠りに落ちて隣で目覚める、この幸福。彼以外の全てを失っても構わないと思える一瞬や、逆に彼を含むこの世の全てが愛しいと思える時間が交錯する、素晴らしい日々。彼女は時折、溢れるほどの感情に、息苦しささえ覚えてしまう。
もう一度、彼女は至福の吐息をつく。そして、先ほどまで見ていた夢の内容を反芻し、ささやくように前置いた。
「ねえ。変なことを言うけれど、最後まで聞いてね」
彼女の美しい髪をすくように味わっていた男の手が、優しく彼女の頭を撫でる。それが肯定の意であった。彼は彼女を抱いた後と、寝起きの数刻は、とても無口だ。それをいいことに、彼女はとりとめのないことを、好きなだけ長々と口にする。彼が聞いていようがいまいが、構わない。穏やかな鼓動と温もりに抱かれながら、思ったことを好きに話すことそのものが、彼女の幸福なのだ。
「もしも、もうひとつの人生を覗いてみることができたら……分岐点で別の選択をしたあとの人生がどんなものになったのかを、見ることができたら。やっぱり大半の人は、見てみたい、って言うのでしょうね」
彼女の頭へ寄せられた男の口元が、微笑んだ気配がした。それを受け、彼女はふふ、と小さく笑う。
「私は、特別悔やんでることはないけれど。もし別の人生を覗いてみて、想像もつかないびっくりするような人生を歩んでいたら、覗いて見るのも面白いかもしれないって思うの」
彼女にとってはたわいのない話であったが、今朝のそれは、男の興味をそそったらしい。「例えば?」と、寝起きの気だるそうな声が問いかけてきた。
「例えば……そうね。
どこかの町で女商人として大成功して、大陸有数のお金持ちになるとか。世界の広さを見てみたくて、船で新天地目指して旅に出るとか。学者になって、歴史を紐解くために遺跡を掘って世紀の大発見をするとか。ノックロックの領主の補佐として、故郷に居残り続けるとか。領主の務めも霞んでしまうくらいの恋に落ちて、パン屋の奥さんとして慎ましく一生を終えるとか」
彼女が言葉を切ると、男は苦笑を乗せた吐息をつく。それを聞き、彼女はまた小さく笑った。
「どうしてこんな話をしているかって、さっきまで夢をみていたからなのよ。夢の中で、私はとんでもない人生を歩んでいたわ。
ノックロックが存亡の危機にさらされて、それを、誰もが羨む貴公子が助けてくれるの。その貴公子は、まさかのライト家の当主よ。彼がいきなりプロポーズしてきて、私は彼と結婚! おとぎ話みたいでしょう?
おまけに、彼はとても寛容だったわ。国務に携わる仕事を任せてもらえて、自由にやりたい放題させてもらえたの。健康で可愛い息子も生まれて、周囲は異常なほどに沸き立っていた。ノックロックは高名な貴族の後ろ盾を得て安泰だし、私も贅沢をしたければ好きなだけできたわ。万能でハンサムで、地位を約束された旦那様は、とっても優しかった。文句のつけようもない、幸せな日々。
……のはずだったのに、それは私にとって、満たされない人生だった。
彼は私を愛しているふりで、実は、幸せだった過去ばかり見ていたから。その過去に、もちろん私はいない。彼は全てにおいて人間離れしていて、私の存在なんてまるでちっぽけだったわ。私なんかいなくたって、彼は困らない。必要だったのは、子どもを産むことだけ。そう思うと、遣り切れなった。
突拍子もない結婚のはずが、いつの間にか、私は彼を愛していたのよ。
最後には、ノックロックの伝承にある、幸福の女神なんかが現れて。過去へ戻って歴史を変えることなんて、本来ならばできるはずがなくて、諦めるしかないのに。女神にたった一言願えば、叶ってしまうという状況で……」
彼女は、甘えるように男の肩へ頬を寄せた。
「私は、彼のために願うの。彼を過去へ還してあげてほしいって」
わずかに笑みを含んだ声が、「それで?」と続きを促す。彼はもう、すっかり覚醒している様子だ。声や腕に、普段の力強さが戻っている。
彼女はまた小さく笑って、目を閉じた。
「秘密!」
少女のように、悪戯っぽく突き放す。すると、男は彼女を抱き寄せていた腕を解き、彼女の細く白い肩をやんわりと押した。そうして仰向けに寝かせた女へ、静かに唇を重ねる。
穏やかな、慈しむような口づけ。甘いひと時が終わると、男は目を閉じたままの彼女の顔を覗き込む。
「マリー」
呼ばれ、彼女は微笑とともに目蓋を上げた。
彼女を真の愛で満たし、至上の幸福を与えてくれる存在が、彼女の碧眼を真っ直ぐに見つめている。
「そんなに、続きが知りたい?」
艶やかに笑んでみせると、男は困ったように柔らかな微苦笑を浮かべる。マリアベルはからかうように含み笑いし、明るくはつらつと語って聞かせた。
「彼は、私の願ったとおり、十年前の過去へ還ってしまったの。そして、彼の幸福を手に入れて守り通したみたい。そうなったことで、歴史は当然、塗り替えられてしまった。
私は何も分からないまま、その未来を生きるの。ライト家の当主の妻になるだなんて、初めからあり得なかったことなんだし、それが正常な世界だった。……夢の中で感じたことなのに、なぜか、すごくすっきりと受け入れられたわ。
私の第二の人生は、とっても恋多きものになったのよ!
ふらりとノックロックに立ち寄った吟遊詩人とか。隣の領主の息子の、もてもての幼馴染とか。王都の議員の息子とか。学校一の秀才とか、才能ある詩人の卵とか。すごくセクシーな遊び人とか。いろんな男性に告白や求婚をされて、困っちゃうくらい嬉しい楽しい人生だったのよ。でも」
マリアベルは、最愛の人を、切なさの宿る眼差しで見上げた。
「その夢が覚めて、隣にいたのがあなたで、ほっとした」
彼女へ降り注ぐ視線は、つい今まで面白くなさそう翳っていたというのに、彼女の甘えた声と視線を受けたとたん、熱を持つ。
「……可愛いな」
酔ったように一言漏らすと、彼は微笑む。その表情は相変わらず、優雅で、紳士的で、穏やかだ。しかし、瞳には灼熱の炎が宿っている。彼女を虜にしてやまない、凶暴で愚かな、情熱の炎。
「そんな顔を見せるのは、どうか私の前でだけにしてくれ」
芯からいとおしそうに、マリアベルを見つめる。
その双眸の色は、美しい緑。スリノアの英雄の、象徴の瞳である。
ノックロックの遺跡の最奥で、幸福の女神を前に、ベノル=ライトは高らかに己の意思を告げたのだった。
「幸福の女神よ。貴女は、間違っている。そうでなければ、私をからかって、試しているのだろう」
マリアベルが息をするのも忘れ、驚愕に目を見開く中、ベノルは至極落ち着いた様子で女神へ挑んでいた。何者も揺るがすことのできぬ、強靱な意志の力を、緑の双眸に宿して。
「私の幸福は過去の一時にあると貴女はおっしゃったが、私は過去へ戻されても、同じ地獄を見るだけだ。それは決して、私にとって幸福とは言えない」
女神は、幼子を慈しむような声音で問うた。
『あなたはこう言うのですか? たとえ過去へ戻れたとしても、この現在へ行き着くために、同じ運命を辿ってみせるだろうと』
「その通りだ」
ベノルは寸分の迷いなく、きっぱりと答えた。そして、茫然と立ち尽くしているマリアベルへと、軽やかに微笑して見せる。
「何度思い描いてみても、変わらない。私は過去へ戻され、あの恐ろしい夜を食い止める力を持とうとも、それを実行しないだろう。それにより、どれほどの人が命を落とし、私自身が多くを失うことになると、分かっていても。私は全て受け入れる努力をし、同じ歴史をなぞるに違いない。しかし、それはひどく耐え難いことだ。だから、そうすることが君の幸福であるといくら説かれようと、承諾するわけにはいかない。すまない、マリアベル」
「……どうして」
マリアベルは、言葉を知らぬ赤子のように繰り返した。
「どうして……」
「簡単なことだ」
ベノルは彼女と対照的に、理路整然と述べた。
「過去を変えてしまえば、君を妻とすることは難しい。ジェラールにも会えなくなる。この幸福を手放すことなど、考えられない。あの恐ろしい顛末をなぞることになろうとも、虚しく辛い戦後を生きようとも、たとえ……君が今後も私に心を開かずとも、私は君を妻として共に生き、ジェラールをこの腕に抱きたい。それだけだ」
穏やかに微笑んで告げていた彼であったが、ここで自虐的な苦笑を見せた。
「と言うと聞こえはいいが。いざこうして選択を迫られなければ、私はおそらく、目を背け続けていただろうな。こんな簡単なことに気づくために、ずいぶん遠回りをしたものだ。情けない。君に敬遠されて、当然だ」
もう、一年も前になる出来事だ。しかし、マリアベルは思い返すたびに失笑してしまう。ベノルの幸福が自分の幸福であると明言したマリアベルに対し、彼はなおも卑屈に、心が通じていないと本気で考えていたようだ。それが、可笑しくてたまらないのだった。人の心を容易く見透かす才を持つようで、案外、恋愛の機微には疎い男なのかもしれない。
しかし、その失笑の後、マリアベルは幸福に酔いしれる。
ベノルが疑いようもなく示してくれたのは、彼女が願ってやまなかった、真の愛情であった。今を共に生きるマリアベルの手をとり、幸福を未来へ求めようとしてくれた。
だからこそ、遺跡から出てテオが去った後、彼女は素直に告げることができたのだ。
「貴方が過去の幸福よりも私を選んでくださって、幸せです。……私、貴方を幸せにしてあげられますか? 貴方をただ愛することしか、できませんけれど」
緑の双眸が驚きに見開かれたのを、マリアベルは忘れない。一呼吸の後、彼が慌てたように彼女を抱きすくめ、肩を震わせながら、彼女の名を繰り返し繰り返し呼んだことも。今もこの身に刻まれている。加減を知らぬ熱い抱擁と、身悶えするかのような嗚咽交じりの声。
しかし。今日のような夢を見ると、あの遺跡での一連は本当に現実だったのだろうかと怖くなることがある。
『あなたは幸福です』と言い残しただけで、女神は消えてしまった。同じものを目撃し、体験した幼馴染は、「意地張るなよ、馬鹿マリー!」と相変わらずの憎まれ口と妙に晴れやかな笑顔を置いて、馬を走らせ北の地へ去っていった。
確かなものは、目の前の最愛の存在だけだ。
それで、十分だ。本来ならば、それで十分過ぎるというのに、マリアベルは彼の優しさに甘えたくなってしまう。
「ねえ、お願い。あの時のように、抱きしめて」
白い朝日の中、マリアベルの碧眼が、濡れたように切なく輝く。
ベノルはその美しさに、息を呑んだ。湧き上がった欲望へ身を任せることと、彼女の願いを叶えることは、強い抱擁というひとつの行為によって成し遂げられる。
灼けるような、苦しささえ覚えるほどの抱擁は、彼女が願ったとおりのものだ。ひとつだけあの時と違うのは、彼が彼女を愛称で呼ぶようになったことのみ。想いを持て余すように耳元へ落とされる声は、やはり変わらぬ熱で彼女を満たしていく。
至福に全てを奪われ、マリアベルは目を閉じた。鼓動の音が高い。彼の鼓動か、自分の鼓動か。もう、分からない。分からなくて良かった。別々の体だが、まるでひとつの生命のようだ。
生きていくのだ。共に。これからを。
後悔も、悲しみも、苛立ちも。深く耐えがたかったそれらは、全てこの至上の幸福の瞬間のためであったのだ。
ならばきっと、これから起こり得る不幸も、全て、先の幸福への過程に置かれた、小さな道標に過ぎないのかもしれない。そう、全ては、幸福への道筋。諦めない者の前には、必ず幸福は腕を広げて待っているのだ。
『幸福へ繋がることならば、私は万能です』
幸福の女神の言葉が、蘇る。
彼女は正しい、とマリアベルは思う。つまり幸福とは、様々な事象や経験が積み重なった結果として、とある瞬間に訪れるもの。
だから女神は、誰にでも、最後にはこう言えばいい。
あなたの幸福は、未来にしかないのです。その道をひたすらに歩みなさい、と。
辺境の才女編・終
こんばんは、12月の風です。
予定よりだいぶ遅れての完結となりました。持てる力を注いだつもりではありますが、やはり苦しいもどかしさが募ってきたりします。
一言だけでも構いませんので、忌憚なきご評価、ご感想をお待ちしております。読み手の皆様と気軽に交流できることこそが、ネット小説の楽しさだと考えておりますので。
よろしくお願いいたします。(09/10/24)