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第六章  幸福の女神 (4)

(4)


 黒塗りの扉が、こちらへ向かって、ゆっくりと閉じてくる。

 それが完全に空間を隔てる寸前、マリアベルは衝動的にそれを抑えた。そして、そのままにテオを振り返る。

 テオは満足げに笑んでいた。

 「切羽詰れば、素直なんだな」

 まるで面白がられているようで、マリアベルは憮然とする。

 「私はいつだって素直よ。しおらしいばかりが女の本性だと思ってるなら、大間違いなんだから!」

 「はいはい。いいから行こうぜ」

 テオは相変わらず、鷹揚に苦笑するのだった。

 「さっき、英雄に奪われてたはずの命だ。おまえの好きなように使えばいいさ」

 「……馬鹿なこと言ってないで、ちゃんと守ってよね!」

 マリアベルが懲りずに動揺して撥ねつけると、テオは「どーせ俺の出番なんてないって」と軽口を叩きながら、扉を押して先を歩んだ。

 中は、広く天井の高い部屋であった。神殿の一部のような荘厳な空間を、いくつかの柱が貫いている。奥には小さな壇があり、そこだけ煌々と青白い灯りに照らされていた。壇の四方には、水晶と見える大きな宝珠が置かれてある。その価値を考えれば、ここへ踏み入り生きて帰った遺跡荒らしが一人としていないであろうことが、伺い知れた。

 マリアベルがそこへ入ったときには、ベノルはすでに部屋の中央まで歩みを進めていた。彼は立ち止まり、剣を片手に静かに佇んでいた。

 マリアベルからは見えなかったが、スリノアの英雄は目を閉じ、神経を研ぎ澄ませていたのだった。彼がいち早く感じていた「何か」の正体は、その後すぐに、誰の目にも明らかとなる。

 部屋の隅の暗がりからの、ずずず、という不気味な摩擦音。そして、重く引きずるような、複数の足音。

 マリアベルは、驚愕に悲鳴を上げることさえできなかった。目前で起きていることは、とても現実とは思えなかった。

 暗がりから緩慢な歩みで姿を現したそれらは、長身であるベノルやテオをゆうに超えるほどの、土の巨体であった。五つの巨体は大雑把な人の形でもって歩み、ゆっくりとベノルを取り囲んでいく。彼らがただの土人形ではないことは明白であった。彼らが重々しく動くたびに、空間にひずみが生まれているかのような、わずかなぶれが見える。人で言う手にあたる部分には、棒状のひずみが握られていた。

 その『ひずみ』の正体を、マリアベルは知らなかった。しかし、ベノルが口にした言葉により、その名を知ることとなる。

 「魔法か。久しぶりに見たな」

 スリノアの英雄は忌むように目を細め、巨体を見上げる。土の巨人たちに取り囲まれても、彼はさして動じた様子を見せない。一瞬、ちらりと視線を送ったのは、マリアベルにではなく、テオへだった。覚悟を再度問うための、念押しであったのだろう。

 彼は迷わず、マリアベルたちから一番離れた、奥の敵へと向かった。

 床石を蹴り、駆ける。瞬時に間合いを詰めた彼の剣は、土の胴の左半分を薙いだ。ぼろりと土の塊が床に転がる。しかし、土人形は動きを止めない。ずずず、と擦れるような音と共に、欠けた胴へ別の部位からの土が集まり、修復されてしまった。結果として、土人形はベノルが薙いだ分、一回り小さくなっただけであった。

 続いて、重く振り下ろされた棒状のひずみを、ベノルは素早く跳躍で避ける。しかし、着地の瞬間、彼の眉がわずかに寄った。避ける瞬間、魔法の棒に最も接近した左膝の一部を、彼は負傷していた。衣服が焼かれたように消失しており、皮膚はやや爛れて赤くなっていた。

 「なるほど」

 ベノルは泰然とつぶやくと、剣を力強く握り直す。

 「厄介だ」

 一人の剣士の劇変を、マリアベルは目撃した。

 彼の周囲の空気が、恐れを為して萎縮したかのようであった。呼吸を許さぬように、瞬時に張り詰める。緑の双眸には、野性的で凶暴な光がぎらりと宿った。圧倒的な威圧、射るような強い目。

 次の瞬間、彼は身を翻し、力強く踏み込む。彼に近付いていた巨人の手の部分が、音速の剣戟で叩かれた。土が吹き飛び、棒状のゆがみが消失する。間髪入れず地を蹴り、彼は跳躍していた。誤ることなく頸部へ突きを見舞い、柄を両手でつかんだまま着地する。頸部に深々と差し込まれたまま、てこのように押し上げられた刃は、土人形の頭部を抉るに留まらず、その凄まじい力強さと勢いによって小爆発のごとく吹き飛ばした。大小の土の塊が飛び散り、ボタボタと音を立てて落ちる。それでも動きを止める様子のない巨人は、重い拳を彼目掛けて振り下ろした。ベノルは素早く身をかわし、そのままの流れで強引に巨人の裏へと回りこむ。一閃で胴を薙ぐと、再生する間を与えず強烈な蹴りで土の上半身を粉砕した。そこまで徹底的に破壊すると、土人形を形成していたひずみが霧散し、消えた。残りの下半身が崩れ、土砂と化す。

 「すげ……」

 呆然とつぶやいたテオと同じく、マリアベルは悪寒を覚えていた。

 彼女は騎士の稽古をつけるベノルの様子を、何度か見たことがあった。彼は盾を持ち、騎士の型に沿った剣技で、次々と騎士たちに膝をつかせ、不敵に笑んでいたものだった。一切の無駄をそぎ落とした英雄の剣技は美しく、優雅で、見る者の心を酔わせた。マリアベルも、素直に感嘆するのが常であった。

 しかし、今目の前で繰り広げられるこれは、なんなのだ。

 ベノルはまるで、解き放たれた獣のようだ。荒々しい剣閃と踏み込みは、凶暴かつ野蛮であった。動くものは全て区別なく、問答無用で斬り捨てられる。そんな狂気めいたものすら感じさせた。

 無慈悲な、捨て置くような剣戟。

 まるで、憎悪を叩きつけるような。

 「……!」

 突如悲鳴を上げそうになり、マリアベルは両手で強く、口元を抑えた。

 彼女は、思い至ったのだ。彼の戦う姿には、彼の全てが表れているのだということに。

 幸福で満たされた、万人が羨むような暮らしから、突然、這いつくばって泥水を啜るような過酷さへ身を投じなければならなかったライト家の嫡男。失ったものの重さに耐えるため、故郷の奪還に全てを賭してきた悲劇の青年は、その剣才と軍才で、どんな敵をもねじ伏せてきたのだろう。通常では為し得なかったはずの密かな復讐劇を、彼はその有能さでこなしてしまったのだ。彼の尊い幸福を奪った者たちをひたすらに憎んで、しかしそれを表には出さぬままに。目の前に立ちはだかる敵をその対象と定め、憎んで、憎んで、斬って、殺して。

 そうして復讐を遂げてもなお、彼は幸福を、取り戻せていない。

 故郷へ還っても、英雄と讃えられても、平和のまどろみの中にいても。彼は喪失を嘆き、全てを恨んで、絶望し続けている。決して、今もなお、彼は、幸福ではない。現在、そして未来に、彼の幸福は、存在しない。

 マリアベルは、悟ってしまった。

 彼を振り向かせ、真の幸福を与えることなど、きっと、誰にもできない。

 彼は頑なに、自ら望んで、過去に捕らわれているのだから。

 ……ああ、こんな気持ちなのね。

 それを知ったマリアベルは、意図せず微笑を浮かべた。頬を涙が流れた。

 絶対に手に入らないものに、恋をしてしまったとき。それは落ちたばかりだとしても、こう呼ぶしかない。

 『喪失』、と。

 

 マリー、と呼びかける声。

 我に返ると、テオが彼女の肩をつかみ、険しい顔つきで彼女を覗き込んでいた。

 マリアベルは、虚ろにそれを認識した。記号を口にするかのように、てお、とつぶやく。すると、彼は安堵の息をつき、彼女の肩をつかんだまま、がっくりとうなだれた。

 「おまえ……同じ気を失うなら、可愛く倒れたらどうなんだよ。泣いたまま突っ立って、無反応って。さすがに、心配した」

 つまり、立ったまま気を失っていたということらしい。霧が晴れていくように、マリアベルの意識は徐々にひらけていった。テオの肩の向こうでは、散乱する土砂の中で、ベノルが剣を鞘へ納めたところであった。

 「私、どのくらい……?」

 「さあな。俺が気づいたのは、1分くらい前か」

 テオは嘆息し、マリアベルの肩から手を離すと、道をあけるように彼女を奥へと促した。

 「ほら。英雄がきれいに片付けてくれたぜ。素直に礼くらい言いに行けよ」

 マリアベルも、それには同感であった。意識のない間の彼の戦いぶりは分からないが、その凄まじさは、土の残骸と彼の穴だらけの衣服から十二分にうかがい知れた。

 幸いにも大きな怪我はないようで、彼は早くも次の行動へと移っていた。散らばる土砂を冷静に見渡し、その中に、何かを探している様子である。

 テオから離れ、マリアベルは、スリノアの英雄へと近づく。いつも身なりをきちんと整え、スマートな振る舞いを見せてきた彼が、汗に乱れた髪、やつれた頬、無精髭、そして清潔ではない穴のあいた服で、息を乱している。その様子を見ただけで、胸が衝かれた。

 「ベノル様」

 まともに顔を見られないまま、小さく呼びかける。ベノルはそれでようやく、マリアベルが近付いてきていたことへ意識を向けたようだった。マリアベルが見ていないのを承知で、彼は静かに微笑してみせた。そして、彼女から数歩離れ、土砂の中に輝く何かを拾い上げた。

 「マリアベル。おそらく、これが鍵だ」

 ベノルはそれに付着していた土を袖で簡単に払い、優雅な運びで差し出した。マリアベルが受け取ったのは、壇の四隅に飾られたそれよりもだいぶ小さな、水晶の宝珠であった。

 「女神は、あの壇上に現れるのだろう。これを壇の中央に置くのかもしれないな。まずは、持って近付いてみるといい」

 「……ありがとうございます」

 マリアベルはうつむいて言ったきり、動けなかった。何か他に言うべきことがあるように思うのだが、浮かばない。もどかしい気持ちを持て余し、マリアベルはベノルの赤く爛れた左膝の傷を、痛切な面持ちで見つめた。

 彼女のその様子に、ベノルは声音をより柔らかくし、こう告げた。

 「私のことはいい。この程度で、君を幸福にできるというのなら」

 マリアベルは顔を跳ね上げる。今にも泣き出しそうに潤んだ碧眼が、強い想いを封じられたように切なく輝いた。

 そんな彼女へ、ベノルは悲しげに、弱々しく笑んでみせた。先ほどまでの怒りや強引さ、狂気めいた凶暴さは、見事なまでに一掃されている。

 彼はこのように、マリアベルの前で常に紳士的で、優雅で、妻を何よりも大切にする良き夫であろうとした。だが、本当の彼は少し違うということを、マリアベルは知っている。彼の本当の哀しみ、そして時に愚かしく燃える情熱を想うと、彼の冷静で完璧な振る舞いや態度は涙を呼び、彼女の悲壮な決心の後押しをするばかりであった。

 「さあ、怖がることはない。何があろうと、君を守ってみせる。行こう」

 颯爽と歩み始めるベノルの背を追うように、奥で青白い光に照らされ続けている壇の傍まで、マリアベルは移動した。

 幸福の女神が現れ、幸福を教え、与えてくれる。伝承が今から、現実のものとなるかもしれない。

 マリアベルは、壇の前でしばし躊躇した。これから行おうとする、恐ろしく、罪深い行為。それを思うと、背徳に足が縫われる。すると、控えるように立っていたベノルが、気遣いを見せた。彼はマリアベルの手にそっと触れ、彼女の手ごと、宝珠を包んだ。

 「私が代わろうか」

 マリアベルは、彼の瞳を見上げた。

 どこか危うくて、しかし、一方で強靭な意志の力を宿す、不思議な、引き込まれてしまいそうな、彼の瞳。夫婦となったあの夜から、すでに、この瞳に堕ちていた。それを認めてしまい、彼に全てを捧げてしまいたくなるのを恐れ、足掻いていただけだ。

 しかし今この瞬間、彼女は喪失という名の恋に、身を委ねてしまった。

 このひとを、幸せにしてあげたい。それが、私の、幸福。

 マリアベルは静かに頭を振ると、自ら、壇の中央へ、水晶を置いた。


 五つの水晶が、輝きを放つ。

 白い光が溢れ、それが作り出す陰影が、軽やかに宙へ浮かぶ可憐な少女の形を、彼らの目に見せた。はっきりしているのは輪郭のみであり、少女の細かな顔立ちや服装、表情などは、透明に輝くだけで、全く分からない。

 これが、伝承に名高い『幸福の女神』。まばゆいばかりの輝きと、放たれる貫禄や気高さに、マリアベルは瞬時、圧倒された。

 『幸福を求めるのは、あなた?』

 直接脳に響くかのようなその声は、物静かで、柔らかな女性のものだ。輪郭は少女であるが、その声と物言いは老女のごとく、深い。顔はどうやら、マリアベルへと向けられているようだった。

 『まずは聞きます。あなたの幸福とは、何ですか?』

 「私の幸福は」

 もはや、ためらいはなかった。決まっていた答えを、マリアベルは淀みなく、毅然と答える。

 「私の夫が、救われることです」

 後方に控えるように立つベノルが、息を乱した。その動揺は露骨なまでに伝わってきたが、マリアベルは構わず続ける。

 「彼の幸福が叶わぬ限り、私の幸福も叶わぬのです」

 「マリアベル?」

 ベノルのよく通る声が、極度の戸惑いを響かせた。初めて聞く声であった。彼女は振り返りたい衝動に駆られたが、ぐっと耐えた。ここでそうしてしまえば、決心が揺らいでしまう。

 女神はしばしの謎めいた沈黙の後、ゆったりとこう言った。

 『あなたは正しい。正しく幸福を理解する者には、幸福を与えます』

 マリアベルは、大きな安堵と激しい失望を、ごちゃまぜにして吐息にした。彼を幸福にできる唯一の手段をもつ己を誇らしく感じ、同時に、その役目を負うことになった運命を恨み、呪わずにいられない。

 女神は美しい声で、言い募った。

 『あなたの夫の幸福とは、何ですか。それを、彼に与えましょう。それが、あなた自身の幸福であるならば』

 マリアベルは呼吸を整え、凛と、女神に告げた。

 「彼の幸福は、過去へ還ることです。内乱以前の、十年前の祖国へ、戻ることです」

 ベノルの更なる戸惑いが、背後から伝わる。しかしマリアベルは、気丈に続けた。

 「彼は、失ったもののあまりの大きさに、耐えられないのです。代わりの幸福を見つけられず、苦しんでいるのです。ですから、彼を幸福であった頃へ還してあげてください」

 『あなたの幸福は、つまりこういうことですか』

 女神はマリアベルの願いを、覚悟を問う表現へ置き換えた。

 『あなたの力では、夫にこの先、幸福を与えることはできない。だから、夫が求めるものをここで願い、与えてあげること、それが、あなたの幸福であるというのですね。彼の幸福とは、すなわち、過去の一時。それを与えるためならば、自分が生きた十年と、今この現在をも、手離してしまって構わない、ということですね?』

 「おっしゃる通りです」

 『では、彼に幸福を与えましょう。それが幸福へ繋がる限り、私は万能です。幸福の女神の名の下に、力を行使します。さあ、彼の幸福を、彼自身が願いなさい』

 マリアベルが振り返るより早く、ベノルは数歩前へ出て、彼女と向き合った。やや苛立ちの交じった強い口調で、彼は訴えた。

 「マリアベル、一体何を言っているのだ。私はそのようなことを望んではいない。撤回してくれ」

 「いいえ」

 マリアベルは、己が堕ちたその場所を確認するかのように、緑の双眸を見据えた。全てを悟って決意した彼女の、静かな強さ。それは、ベノルの胸をざわめかせた。強い意志で堅められていた彼の瞳が、あっけなく不安と怖れに揺れる。

 「ベノル様、よく聞いてください」

 まるで、業火を背にして剣を向けられても微笑する、戦乙女のような。マリアベルの儚く美しい面を目前にし、ベノルの肌が粟立った。対し、マリアベルは、彼が何かを言う前に毅然と制した。

 「幸福な過去へ、還れるのです。貴方が焦がれてやまず、それでも諦めるしかなかった願いが、今ここで、叶うのです」

 ベノルが浮かべた表情は、奈落へ突き落とされた瞬間の者が見せるそれであった。無意識であれ、彼が目を背け続けてきた本心を、他ならぬマリアベルが突きつけたのだ。

 「十年前の幸福へ、お還りください。そして内乱をくい止め、貴方の幸福をお守りください。失った全てを、取り戻すのです。本来ならば不可能であるはずのそれが、今、叶うのです。何を偽り、躊躇うことがあるのですか」

 マリアベルから彼に言うべきことは、もう、なかった。

 どうか、お幸せに。

 それだけを思い、あとは悲しみを堪え、微笑してみせるだけだ。

 ベノルは、茫然自失の体で、マリアベルを見ている。しかし、彼の瞳に映っているものは、彼女ではない。マリアベルには、手に取るように、彼の脳裏を巡るものが知れた。

 壮絶に果てたとの話のみで、遺体に見えることのできなかった父。同じように果てたとされる、唯一無二であった親友。足枷になることを恐れ、囚われの身になる前に自害したという、当時の美しい婚約者。剣や知を高めあった多くの仲間達。取り巻いていた笑顔。湖の輝き、深緑の煌き。未来へと吹く、爽やかな希望の風。華やかに色づいていた、彼の尊い故郷。

 青年ベノル=ライトが一夜にして失った、全てが。二度と戻らぬことを諦め切れず、絶望し続けてきた彼の想う、その全てが。一言、今ここで願いさえすれば、全てが、彼の手に戻るのだ。もう、喪失を埋めるための辛く苦しい旅路は終わる。復讐も憎悪も悲哀も絶望も、無縁となる。

 スリノアの英雄が全てを理解するために、多くの時間を要することはなかった。

 彼が取り戻した表情は、激しい葛藤の色であった。緑の瞳の中で揺れる光が、マリアベルへと向けられる。

 彼女は彼の不安を拭うべく、微笑を絶やさない。

 これでいいのです。この十年は、貴方が幸福を取り戻すまでの長い悪夢。虚構の世界だったのです。本当に歩むべき人生へと、お戻りなさって。

 こみ上げる涙をどうにか押さえ込み、彼女は瞳で、そう語りかける。

 彼女の意思を察したらしきベノルは、しかし、なおも激しい葛藤に双眸を歪めていた。迷い子のもつ不安定な気色が、彼全体を覆っている。救いを乞うかのように、彼はじっと、長い間、マリアベルの碧眼を覗き込んだ。

 マリアベルは、聖母の微笑で、見つめ返す。そして、決断が下されるのを、ひたすら待った。

 やがてベノルは、搾り出すように問いかけた。

 「本当に、これが、私の……君の、幸福なのか?」

 マリアベルは、ゆっくりと、微笑みのままに、肯いてみせる。

 ベノルは失望したようだった。日々の中で、マリアベルが目をそらしたときの表情に、よく似ていた。彼はそのまま、悲しい光を湛える緑の双眸を、閉じた。そして、ひどく長い間、黙した。

 彼は、長年の絶望からの救いが突然訪れたことへ、ひどく戸惑っている。だが、ひとたび冷静になれば、すぐに思い至るだろう。十年前がどんなに幸福であったか。そして、己がどれほど熱烈に、その過去へ恋焦がれていたか。

 マリアベルは苦しいこの時間を持て余し、遠くで見守ってくれている幼馴染を、顔だけで静かに振り返ってみた。テオは心配そうに細めていた目を、驚きに見開いた。そして慌てて、咎めるように眉を寄せてみせた。馬鹿マリー。そう言いたげであった。マリアベルは、微苦笑を浮かべた。恋に落ちたら、誰だってこんなものでしょう。瞳でそう訴えかけると、テオはますます眉を寄せたのだった。

 長いの間、何かに耐えるようにきつく結ばれていたベノルの口元であったが、やがてふと弛緩した。その後すぐに、今度は凛々しく引き締まる。

 「分かった」

 永遠とも感じられた静寂の後、双眸が閉じられたまま発せられたそれは、力強い覚悟の声であった。

 「マリアベル、すまない」

 絶望を抉るその言葉さえも、愛しい、と感じる。マリアベルの身に、深い愛と哀しみが突き上げてきた。愛ゆえに真の哀しみがあり、哀しみこそが愛をより彩るのだと、そんな言葉を遺した詩人がいたように思った。何もかもが消えてしまう寸前に、愛の真理を体感するだなんて。

 マリアベルの頬を、堪えきれぬ涙が伝った。

 しかし、ベノルはそれに気づかなかった。彼はマリアベルへ、目を向けなかったのだ。

 光り輝く幸福の女神へと向き直ってから、スリノアの英雄は緑の双眸を開く。そして、よく響く澄んだ声で、己の意思を高らかに告げたのだった。


終章へ続く


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