第六章 幸福の女神 (3)
(3)
「ベノル=ライト……」
テオは引きつった笑みを浮かべ、脇へ佇むスリノアの英雄へ、目だけを向ける。
マリアベルは、あまりの失望に、頭をがんと殴られたような衝撃を覚えた。テオの手が触れてくれていなかったら、この場に伏してしまっていたかもしれない。
「英雄自らお出ましとは、驚いたぜ。どうやってここまで来たんだ?」
テオの茶化すような言葉に、闇の中で佇むベノルは応じない。
「聞こえなかったのか。妻から離れろ、と言ったのだ」
声音は凍てついているが、たぎるような怒りが噴出を堪えている。マリアベルの脳裏に、フィンと再会した夜のことが瞬時によぎった。ベノルが我を忘れたように憤り、信じられぬ行為に及ぼうとしたことを。
「テオ」
離れて。
そう言おうとして、続けられなかった。闇の中でもはっきりと分かった。テオは何か達観したかのように笑んで、マリアベルを真っ直ぐ見つめていたのだった。
「これが最後だ、テオ=ハイボン。私の妻から、離れろ」
切っ先がわずかに動く。マリアベルが息を呑んだとき、テオは冷ややかな一瞥とともに言い捨てた。
「嫌だ」
「やめて!」
マリアベルの制止の叫びが届いたのかどうか、定かではない。しかし、彼女の目の前で幼馴染の首が飛ぶことは避けられた。代わりに強烈な蹴りが腹へ見舞われ、テオは強制的にマリアベルから引き離された。数メートルも飛ばされた彼は、闇の中で苦しげに呻いた。
彼の名を呼んで駆け寄ろうとしたマリアベルは、大きな手に腕をつかまれ、止められた。スマートに剣を鞘に収めたベノルが、厳しい声で言った。
「マリアベル。この遺跡を出るぞ。全てはそれからだ」
有無を言わさぬ強大な力が、彼女の身を引く。
カッと頭に血が上った。それは恐怖を凌駕し、彼女にこう叫ばせた。
「離してっ!!」
悲鳴のような甲高さを受け、強引な手が緩む。マリアベルはその機を逃さず、激しく腕を振って彼の手を払った。彼女は夫をきっと睨みつけ、一言だけ、発した。
「どうして」
声は驚くほど上ずり、震えた。その先を、彼女は言わなかったのではなく、言えなかったのだった。山ほどある疑問のうち、どれを最初に投げかけるべきか、選ぶことができない。
ベノルは彼女の言葉を彼なりに解釈し、いつもの上品な発音でこう応えた。
「君の部屋から家宝が消えているのを見て、ここへ来た。この遺跡の内部構造や仕掛けは、書物に記されている範囲ではあるが、全て頭に入っている。私と共に戻れば、安全だ。とにかく、まずは外へ出るぞ。話はそれからでもできる」
凄まじい失望と怒りに、マリアベルは目眩すら覚えた。
この男は、一体、何を言っているのだろう。
見当違いも甚だしい上に、その言葉はどこまでも論理的で正しい。そのことこそが、マリアベルの怒りをなお煽ったのだった。
「貴方なんか」
怒りに高揚した彼女の碧眼が潤んだ。激情に支配された脳には、拙い言葉しか浮かばない。
「貴方なんか、大嫌い!」
ベノルは瞬時、傷ついたように双眸を歪めたものの、すぐに静かな声音で言った。
「わかった。後で聞く。とにかく、ここを出るぞ」
さしたる動揺を見せないベノルの様子に、今度はマリアベルが傷ついた顔になる。しかし、それも一瞬のことであった。彼女はまた怒りに目を吊り上げると、尖った動作で踵を返した。そして、うずくまったまま、声もなく事態を傍観しているテオの元へ、向かおうとした。
ベノルが彼女の名を咎めるように呼び、乱暴な手つきで再び腕をつかんだ。彼は妻の態度を、苛立った声で非難した。
「君は、私と契りを交わしたという自覚に欠けている。私に心を開かぬことには目をつぶるが、他の男へ心を委ねることは、裏切りだ」
その言葉と声を聞き、マリアベルはすっと熱が引くのを感じた。
怒りが収まったわけではない。むしろ、限界を超えたのだった。
彼を傷つけるための言葉を、彼女は知っていた。ナイフを隠し持つように、彼女はそれを、胸の中に準備した。
「そういう貴方は、どうなのです?」
震えを抑えながら、夫を振り返る。冷笑を浮かべたつもりだったが、口元が引きつって歪んだだけだった。
「貴方こそ、私を愛してなど、いないくせに」
烈火の怒りに彩られていたベノルの表情が、その言葉で激変した。瞳に、恐れの色が広がる。
マリアベルはその様子に、愚かしくも満足を覚えた。ベノルが言い返すことのできぬであろう『正論』を選び抜き、なおも言い募る。
「貴方はワオフの女王を、今でも愛しているのでしょう。私は、その身代わり。恵まれぬ環境で育ち、自分の無力さを呪って生きる、可哀想な女。だから私を拾ったのでしょう。その証拠に、貴方は約束を守らなかった。私があんなに懇願したのに」
ベノルは何かを言いかけたが、いったん堪え、根気強くマリアベルを諭そうとした。
「それについても、後できちんと弁明する。まずはここを出よう」
「もし『嫌だ』と言ったら、私は英雄の妻失格ですの? 義務はきちんとこなしているつもりです。貴方の子を産み、育て、公務では周囲に恥じぬ言動を心がけております。これ以上、まだ何か私に望まれるのですか? 一体、私はいくつ仕事をこなせば良いのです!」
「冷静になってくれ、マリアベル。こんな場所で言い争って、何になるというのだ」
彼は全くもって正しかった。それがなぜ彼女の怒りを煽るのかを、理解せぬままに。
「とにかく、ここを出よう。君もそれが最も良い選択であると、わかっているはずだ」
うんざりだった。彼はいつも正しい。冷静で、知的で、完全だ。それを見せつけられると、まるでこう言われているようなのだ。彼はマリアベルを含め、誰も、必要としていない。
「……ベノル様。そんなに私を従わせたいならば」
マリアベルはついに、冷たく研ぎ澄ました言葉を、胸から取り出したのだった。
「こう言えば簡単ですわよ。
『取引を思い出せ。ノックロックがどうなってもいいのか』って!」
ベノルの身が、雷撃に打たれたように激しく慄き、硬直した。
緑の双眸は見開かれ、声にならない呻きのような吐息が、品のある口元からこぼれる。マリアベルの腕をつかんでいた手から、徐々に力が失われていった。
わずかな達成感と、深い悔恨。ひどく傷ついた彼の様子は、それらをマリアベルの胸へ落とした。全て吐き出すことで怒りから醒めた今、彼女は己の幼い言動を顧みて、愕然とした。なぜ、いつの間に、彼を傷つけることが目的になってしまったのだろう。そんなことは、望んでいなかったはずなのに。
長く張り詰めた沈黙の中で、彼女は放った言葉が二度と戻らない現実に、震えるばかりだった。
やがてベノルは、彼女の腕を完全に手離した。
うつむき、乾いた声で、彼はぽつりと言った。
「君の気持ちは、よく、わかった」
言わないで。
急速に血の気が引いていくのを感じながら、マリアベルは、彼の次の言葉を恐れた。
『取引』は白紙へ。君は自由だ。
そう言われてしまえば、全てが終わる。
もしそうなっても、ベノル=ライトがノックロックを見捨てることなどない。そんなことには、とうに気づいていた。彼が感情的に、善良な領地の民を虐げるような真似など、するはずがない。
にも関わらず、マリアベルが「英雄の妻」という任を投げ出せなかった理由は、単純明快であった。
彼女は彼に惹かれ、願ってしまったのだ。
過去へ向いたままの彼の心を、奪いたい、と。
ベノルが浅く、ゆったりと長く、息をついた。恐怖に震えていたマリアベルにとっては、ベノルが続きを言うまでが、ひどく長い沈黙に感じられた。
言わないで。お願い、言わないで。
はたして、ベノルが無表情の面を上げ、静かな声で口にしたのは、彼女の全く予期せぬ言葉であった。
「マリアベル。君は彼と、この遺跡の奥を目指していたようだな。幸福の女神に会い、彼を幸福にするため、協力しているということなのか」
「違う」
答えたのは、腹を押さえながら立ち上がったテオであった。
「俺のことは、もう済んだ。マリー自身が、女神に会いたがってる」
「……そうか」
ベノルはマリアベルへ向けて、力なく微笑した。
「君は、今、幸福ではないのだな。幸福で満たされていれば、女神に会う必要など、ない」
その声に混じる、自嘲めいた色。
マリアベルはうつむいた。胸の中に、得体の知れない大きな塊を投げ込まれたかのようだった。重く、苦しい。ベノルは少しだけ思い違いをしているようだったが、それはこの際、瑣末なことであった。確かに今、マリアベルは、幸福で満たされてはいないのだから。
ベノルはやおら、「当然だ」、と小さくつぶやいた。マリアベルにはそれが、彼が全てを諦めた合図のように聞こえた。彼女は戦慄したが、なす術などなかった。ここで言うべき言葉も、行うべき動作も、彼女は一切を知らなかった。
「マリアベル。君さえ嫌でなければ、女神のところまで、私に先導させてほしい」
過ぎるほどに静かな口調で、ベノルはまたも、彼女が予期せぬ提案を投げかけた。
「この遺跡の仕掛けや構造は、全て頭に入れてきた。君は、彼と共に少し離れて、後をついてきてくれさえすればいい。どうだろう、そう悪い話ではないと思うが」
断る理由など、思いつかない。マリアベルは考えることを放棄し、うつむいたまま小さく頷いた。ベノルが静かに微笑んだ気配がして、再び胸が苦しくなった。
「さあ、こっちだ」
ベノルは灯りの漏れる扉へ向かい、颯爽と歩き出した。
どうしていいか分からず、マリアベルはテオをちらりと見やる。すると、テオは何か言いたげな、それでいてばつの悪そうな顔で肩をすくめ、ベノルへ続いた。
仕方なく、マリアベルはテオの半歩後ろをついていく。ベノルは青白い灯りが差す戸口でいったん立ち止まり、二人がある程度まで近付いてくるのを待っていた。そして、頃合を見計らって、通路を奥へと進み始めた。
一瞬だけ、はっきりと灯りに照らされた彼の顔を、マリアベルは見た。暗闇の中では分からなかったが、いつも精悍な彼の顔は、疲れにひどくやつれ、これまでの生活で一度も見たことのない無精髭が生えていた。
四方八方から突き出たり、降ってくる槍や刃。それを難なくかわし潜り抜け、解除のレバーを下げると、また颯爽と歩き出す。
かと思えば、唐突に飛んできた矢を剣で打ち落とし、何事もなかったかのように歩を進める。
「なんだ、ありゃ」
英雄の身のこなしと記憶力に脱帽し、テオは半分呆れたように言った。
「人間離れし過ぎだろ。本に載ってる昔の王様の武勇伝とか、あり得ない話ばっかりだけど、実は本当かもしれないって、あいつ見てたら思っちまうな。先導してもらってなかったら、俺達、三回くらい死んでるぜ」
「……うん」
うわの空のマリアベル。
「マリー。余計なお世話だって言うかもしれないけど」
テオは半歩前を歩きながら、ため息とともに言った。
「おまえら、単純なことをすごくややこしくしてるだけに見えるんだよな。『取引』って聞いて、俺も最初は不愉快だったけど、今はそんなもの関係なく、惹かれ合ってるんだろ? だったらそれでいいんじゃないのか?」
「……そうね。惹かれ合っているのなら、ね」
なおも心ここにあらずといったマリアベルの様子に、テオはことさら大きく息をついた。
「惹かれ合ってるに決まってる。おまえに惚れてなきゃ、目の下にあんな隈つくってまで来ないって。おまえだって、あんな駄々っ子みたいに感情むき出しにしてたくせに。さっき言ってたワオフの女王って、あいつの前妻のことだろ。妬いてるから、あんなこと言ったんじゃないのか?」
「違うの……」
マリアベルは、途方に暮れた。事態がもっと複雑で深刻であるということを、いくら語って聞かせても、きっとテオには分かってもらえないだろうと思った。
周囲から見れば、ベノルはマリアベルを深く愛しているように映るのだろう。ベノル本人でさえ、そう思い込んでいるかもしれない。
しかし、実はそうではないのだ。それが悲しくも的を得ていることは、ワオフの女王の言葉が立証している。
『彼は私に、失った故郷を見ていたようなの』
戻ることの叶わぬ過去を想い、嘆くこと。その絶望から目をそらすには、それに近い激情に身を任せ、これこそが己の求めるものなのだと自身に思い込ませることが、一番楽だ。それが彼にとっては、恋に落ちること、だったのだろう。ただそれだけだ。彼の本当の情は、彼女には向いていない。ワオフの女王にさえも、厳密に言えば、向いていなかったのだろう。なぜなら、彼が求めているものは、ひとつだけなのだから。彼はおそらく死ぬまでそうして、得られるはずのないそれを求め続け、自分自身を騙しながら生きていくのだ。
そんな彼に、真の幸福を与えられないだろうか。
過去に囚われ続ける彼の心を、こちらへ奪えないだろうか。
マリアベルは、自分にその力があると、信じたかった。
ベノルがライト家当主の部屋へ移り、決して還らぬ父を待つのをやめたこと。「ベノルはよく笑うようになった」という、スリノア王の言葉。時折見せる情熱的な眼差しや、小さな息子を慈しむ手つき。
彼は少しずつ、過去ではなく現在を生きることに、意味を見出してくれているのではないだろうか。そうした希望を持つと同時に、彼女は願ってやまない。それを助けることができている存在が、自分であってほしい、と。彼と現在を、そしてこれからを生きていくのは、他の誰でもない、マリアベルなのだから。
「素直になれって」
マリアベルの心中を察することなどできるはずもなく、テオは呆れ果てた口調で言った。
「間にいる俺が、馬鹿みたいだろ」
でも、どうしたらいいか、わからないの。言葉にできぬそれを胸の内で叫び、マリアベルは泣きたくなってしまう。たとえベノルに「愛してほしい」と素直に打ち明けたところで、事態が好転するとは思えなかった。彼はきっと優しく笑んで、「すでに愛している」と言うだろう。一方、「過去ではなく、私を見てほしい」と訴えても、彼は困惑するだけだろう。わかっている。彼は無意識なのだ。しかし、あまりにもどかしくて歯がゆくて、マリアベルはそれを受け止め切れぬのだった。
そうしているうちに、前方を歩くベノルが、今度は軽やかに跳躍した。通路の中央部の床石が抜け、約二メートル四方の穴が口をあけている。すでに作動し、誰かが犠牲になったであろうその落とし穴を、彼は飛び越えたのであった。彼が行くその先は突き当たりになっており、黒塗りの扉が不吉に沈黙していた。その前で、ベノルは振り返り、二人を待った。
テオはマリアベルを制して、先に穴の脇をの床石を歩いた。そして、無事に渡った先から手をとって、マリアベルをエスコートした。
テオの様子を値踏みするように見ていたベノルは、二人が傍まで来ると、すらりと剣を抜き払った。思わず身を固くしたテオであったが、切っ先の向いたところは、彼の腰に下げられた長剣であった。
「少しは心得があるのだろう。危機の際には命を懸けて彼女を守り抜くと、誓えるか?」
魔力を持つかのように爛々と輝く、緑の双眸。
テオは瞬時怯んだが、すぐに負けじと睨み返した。
「そんな覚悟もなく、連れて来るわけないだろ」
ベノルはかすかに唇の端を上げた。そして、彼らの前に立ちはだかる、黒塗りの不吉な扉へと向き、こう言った。
「この扉の先については、どの書物にも書かれていなかった。だが、構造を踏まえれば、ここが遺跡の最も奥であることは間違いない。おそらく、最大の試練が待ち受けているだろう。手に負えぬようならば、まずは身の安全を考え、逃げることだ。いいな?」
貴方は、どうするつもりなの。マリアベルは息苦しさの下から問いかけようとした。
しかし、彼女の返事を聞くつもりなど初めからなかったかのように、ベノルは抜き身の剣を手にしたまま扉を押し、躊躇なく足を踏み入れていったのだった。