第六章 幸福の女神 (2)
(2)
マリアベルは、早くも後悔していた。
「ちょっと、どーすんのよっ!」
王都の生活で知らぬ間に淑やかになっていた口調も、すっかり少女の頃へ戻ってしまっている。
「どーするって言われても」
テオは落ち着いた風で辺りを見回しているが、特に打開策を持っているようでもない。マリアベルはなおも食ってかかろうとしたが、無駄を悟って彼に習った。
少し時間は遡る。
遺跡の内部を地下へ降りたりしながら、歩くこと半刻強。まず二人がたどり着いた先は、大きな吹き抜けの空間に造られた祭壇であった。サークル状に中型の石が積まれている。
その祭壇へ近付き、マリアベルは母から教えられた順序で家宝の小箱を解体し、然るべき窪みへはめ込んだ。すると、どういう仕掛けなのか、部屋の隅で床石の擦れる音がして、地下への通路が現れた。
二人は自然な流れで、その階段を下りた。大人二人が並んで歩くには少々狭く感じる幅の通路が、続いている。空気は淀んでいたが、もはや松明は必要なかった。両壁に取り付けられてある青白い灯りが、煌々としていたのだ。来客を待ち受けていたかのように、通路の先へ連鎖的に灯っていくその青白さは、マリアベルの見たことのない光であった。魔法の光というものだろうか。
手を伸ばせば届きそうなそれへ彼女が触れようとしたとき、テオがおもむろに言った。
「ここから先が本番なんだろうけど、何があるか分からないから、注意しろよ」
テオの言葉は的を得ていた。調査の手が入っているのは、当然ながら家宝を使用せずに出入りできる領域に限られる。ということは、
「ねえ、つまり、ここから先の地図とか、仕掛けのこととかは……」
「知るわけないだろ」
テオは驚いたように、少し目を大きくしてマリアベルを見た。
「そんなことも認識しないで、普通に階段下りてきたのかよ。おまえ、疲れてる?」
「……ええ、とっても。誰かさんが馬車で何日も連れまわしてくれたおかげでね」
憮然として噛み付くマリアベルに、テオは鷹揚な苦笑を見せた。
「怖いなら、上で待ってろよ。きっともう、家宝もノックロックの知識も必要ない」
マリアベルは考えた。
この神秘的な灯りを見てしまった今、代々家に伝わる幸福の女神の伝説が、絵空事でないのだろうという実感が沸いてくる。興味は尽きないし、今や彼女の思考の半分を占めている思惑が、より具体性を増した。しかし、幼い息子を思うと、危険に身を晒すのは避けたかった。彼女は母を失う悲しみを、痛いほどに知っているのだった。
と、マリアベルが自分で結論を出す前に、片方の選択肢が消えてしまった。降りてきた階段の上で、床石が擦れる音が響いたのだ。
「やばいんじゃないか?」
妙に落ち着き払っているテオとは対照的に、マリアベルは階段を駆け上がった。予想に違わず、帰路は閉ざされていた。
「ちょっと、どーすんのよっ!」
「どーするって言われても」
そうして、改めて周囲を油断なく見渡した二人であった。
「ねえ」
仕方なく通路の先へと歩み始めて数刻。マリアベルは、半歩前を行くテオに話しかけた。歩数でだいたいの距離を計りながら、複雑に枝分かれする迷宮の地図を頭へ描く作業にも、だいぶ慣れてきたためだった。
「あなた、剣を使えるの?」
「まあ、少しは」
テオは振り返らず、前方に常に注意を向けたままだ。
「そりゃ、ベノル=ライトと比べられたら形無しだけど」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
マリアベルは嘆息した。フィンにしてもテオにしても、なぜこうまでベノルへ劣等感を持ち卑屈になるのか、彼女には理解できなかった。フィンは素晴らしい詩を詠う点では、誰にも劣らない。テオも、その気になれば優秀な男なのだ。今も、躊躇せずに歩んでいるのはいい加減な方向にではない。マリアベルの頭の中の地図によると、テオは着実に、遺跡の奥へと続く道を選択していた。
「あなた、14のときに、北西地区の剣闘士会で準優勝したじゃない? そのときの活躍を今もできるのか、ってことよ」
「へえ。覚えててくれたんだ、あんなの」
「あなたは何でもうまくこなせた分、努力しない性質だったでしょ。贅沢にかまけて、今はあんな素敵に立ち回れないんじゃないかって、心配なのよ。もうすぐ三十路なんだし。何か得体の知れない化け物が現れても、私、逃げることしかできないんだから」
テオは不意に立ち止まった。合わせて、マリアベルも足を止める。
「あのさ」
言ってから、テオはマリアベルへ向いて、複雑な顔を見せた。
「おまえ、人妻なんだから。あんまり俺を口説いて突付くなよ」
「はあ?! 誰があなたを口説いたのよ?」
「あーはいはい。自覚なしってことか。とりあえず、昔のことを言うのは、もう控えてくれよ。頑張ればおまえが手に入るかもしれないって、期待しちゃうだろ」
さらりと言われ、マリアベルはぽかんしてしまった。テオはまたいじけたように、微妙に視線をそらした。
「あーあ。何だよ、よりによって、ベノル=ライトって。あんなのに敵うわけないだろ。おまえも贅沢な女だよな、国の英雄の妻の座に収まっといて、幸せじゃないとか言って。だったらどんな男なら満足するのか言ってみろよ。白馬に乗った完璧王子様でも待ってるってのか? いや、それだってベノル=ライトがほぼ満たしてるだろ」
「……ねえ」
マリアベルは、眉をぎゅっと寄せて問うた。
「さっきから。あなた、まるで私に気があるみたいに聞こえるわよ」
「今はない」
テオは微妙に目をそらしたまま、言い切った。
「でも、昔はあった。……って、何言わすんだよ。こんなこと、わざわざ言わなくたって」
マリアベルが真っ赤になったのを見て、テオはいよいよ顔を背けた。
「だーかーら。そういう反応するなって。なんで今更そんな素直で可愛いんだよ」
「……なによ!」
羞恥に頬を染めたまま、マリアベルは甲高く言った。
「あなただって、今更じゃない。私、昔はあなたのこと良く思ってたのに。こんなふうになってから言うなんて、結局ただの意気地なしよ!」
悔恨は彼女の中で、怒りへと変化していった。
「そうよ、意気地なし! フィンだってそうだわ!」
「……フィンって誰だよ」
「ちゃんと言ってくれれば両思いで、素敵な時間を過ごせたかもしれないのに! もう叶わない安全圏に逃げ込んでからそんなふうに告白されたって、私にどうしろって言うのよ。ベノル様だって! 『取引』なんて言ってモノにしておいて、毎晩毎晩、愛を語るんじゃないわよ、意気地なし。みーんな、意気地なしよ! まともだったのはヒューイだけだわ!」
「ヒューイだって?!」
テオは驚愕に声を荒げた。ハイボン領の貴族の中でも悪名高い男の名が、このような形でマリアベルの口から出ようとは。
「おまえ、まさかあんな女ったらしにおちたのかよ。いつ、どこで?!」
「22のとき!」
絶句するテオへ、マリアベルはなおも吐き捨てる。
「関係ないでしょ? あんただって女ったらしのくせに! ヒューイはちゃんと言ってくれたもの、私のことを一晩でいいから愛したいって」
「……馬鹿っ!」
テオは怒鳴り、マリアベルの腕をつかんだ。
「おまえ、ほんとに、馬鹿じゃないのか? なんでそんなお高くとまってる風で、いいようにやられてるんだよ! 俺がどれだけ……」
「いいようにやられてただけだとしても、意気地なしをただ待ってるよりはましだったのっ!!」
マリアベルは叫んだ後、ひどく後悔してうつむいた。
テオは彼女の細腕をつかんだまま、立ち尽くした。
気まずい沈黙。
「……なんでこんな話になったの?」
「……おまえが昔話なんかするからだろ」
場を取り成そうとするマリアベルに合わせ、テオはつかんだ腕を放そうとした。しかし、彼はいつかの失敗を思い返し、留まった。
ここで手を離せば、あのときと変わらない。
「なあ、マリー」
彼の真摯な声は、マリアベルを動揺させた。
「おまえ、さっき、ベノル=ライトのことも意気地なしって言ってたよな?」
マリアベルは、恐れるようにテオの瞳を見上げた。
そこへ宿る情熱に、身が震える。
「俺が、もし」
テオが一歩、彼女へ近付く。マリアベルは、彼へ堕ちるのを警戒し、一歩、下がる。
踏んだのは、マリアベルであった。
ひとつの床石が、がこん、と音を立て、やや沈む。
二人の間に生じていた危うい甘さは、その音で霧散した。不吉な予感を、彼らは言葉がなくとも共有でき、固まった。
数秒後。地鳴りのような音が響いてきた。
何かが、迫ってくる。この通路へ。
二人、同時であった。はじかれたように、遺跡の奥へと走り出す。
全力疾走。そうしてみると、足が軽やかに前へ出たことから、この通路が奥へ向かって非常に緩やかな傾斜になるよう造られているのがよく分かったのだった。球体がよく転がりそうだ。
「あの部屋!」
マリアベルはテオから少し遅れていたが、目ざとく通路の先にあるただひとつの扉を見つけ、叫んだ。テオはさらにぐんと走る速度を上げ、その扉へ取り付く。ノブを引くとあっさり開いた。マリアベルが駆け込んで来るのを待ち、反射的にテオは扉を素早く閉める。数瞬後、轟音とともに、扉の向こうの通路を何かが通り過ぎていった。
「……ぺしゃんこになるところだったわ!」
ゼイゼイと空気を貪りながら喚くマリアベル。床へへたり込む彼女のすぐ脇で、テオも上がった息を整えていた。
しかし、ふと、彼は不吉な予感に眉を寄せる。成り行きで駆け込んだ部屋は、妙に天井が低く、何もなくがらんとしているのだった。極めつけは、奥の一枚岩の石壁が、どこか浮いたように見えることと、「なぁに、これ」とマリアベルが気づいた足元の白い残骸。
「やばい気がする」
テオは言って、再びノブに手をかけた。どのみち、この部屋には他に出入り口らしきものはなく、ここからまた通路へ出るしかないのだ。しかし、先ほど難なく開いた扉が、今度はびくともしない。不吉な予感は確信へと変わりつつあった。
このときには、マリアベルもテオの危機感へ同調しており、彼の行動を理解していた。そして、低い姿勢ならではの視点で、扉の下の突起物を見つける。押すと何かが起こりそうだ。
「ねえ。これを押せば、開くんじゃないかしら」
言って、テオが何か応える前に勝手に押してしまう。
鈍い音が響き、部屋全体が暫時、小刻みに揺れた。
不気味な静寂の後、ずずず…と重い音を立て、奥の石壁がゆっくりと動き出す。彼らへ向かって。
「やっぱりか……」
「きゃあー! またぺしゃんこの危機じゃない!」
「悲鳴上げてる暇あるなら、なんか考えろよ。俺と心中したいのか?」
テオは多少焦りながらも、扉を何とかしようと周囲を調べていた。
「こういうのは侵入者を試してるだけなんだ。必ず逃げ道があるはずだ」
「逃げ道って……?!」
だって、この部屋には扉以外何もないじゃない。そう叫ぼうとして、マリアベルは気づいた。この足元の残骸は、考えたくもないが人間の骨なのだろう。すると、扉に固執した人間は悲惨な末路を遂げたということだ。
どこか、意表を突く場所。ついつい迫り来る奥の石壁へいく意識を、無理やりに別の方へ向ける。石畳の床。全ての石を調べる猶予はなさそうだ。他に、あまり見ない場所。部屋の隅や、天井。
「あーっ!」
マリアベルは叫んで、テオの腕の服を強く引いた。
「あれ、見て!」
部屋の隅の天井。手のひらほどの面積のわずかな突起を、彼女は指差した。そしてまた、テオの応えも聞かぬままにそこへ走り寄る。天井は低く、ごく平均的な女性の身長であるマリアベルでも、軽く跳躍するだけで届く程度だった。
「おい、待て……」
テオが言い終わらぬうちに、彼女は跳んで突起を押す。
「きゃああぁぁ!」
ごとん、という鈍い音と彼女の悲鳴は同時であった。テオから見れば、マリアベルの姿は一瞬で消えてしまった。
突起の真下の石畳が扉のように開き、着地の場を失った彼女は当然、床下のどこかへ落ちていったのだった。
落ちる……暗闇へ。
そう感じたのは、ほんの一瞬のことであった。
すぐに床へ到達し、マリアベルは尻で着地した。
「いったーい!」
じわりと広がる痛みに、座り込んだまま思わず声を上げる。そのすぐ脇へ、テオが軽やかに着地してきた。彼はマリアベルがどうなったかを覗き込んで素早く確かめた後、あいた穴の淵へ手をかけて一旦ぶら下がってから降りて来たのだった。
彼らがまたも成り行きでたどり着いた今度の部屋は、相当な広さであった。騎士の稽古場ほどはあろうかという空間。これまでと違い、灯りがない。天井はさほど高くなく、それが故にマリアベルは尻を強打したのみで無事であった。唯一の出入り口と見える、三十メートルほど離れた壁にある扉は、なぜか開け放たれており、そこから青白い光が一筋の線を描いていた。
頭上では鈍い音とともに、マリアベルが落ちてきた穴が岩壁で塞がれていく。やがて、ずん、という一際鈍い音で、石壁は活動を止めた。穴は下から見上げると、隙間なく埋まってしまっていた。あそこへいたらどうなっていたか。さすがに身震いがした。
「大丈夫かよ……ほんと、勝手なことばっかりしやがって」
暗闇の中、呆れた声で言いながらも、テオは膝をついてマリアベルを抱きかかえようとする。
マリアベルは、どきりとして身を固くした。肩に触れたテオの手が、それに気づいて微かに萎縮した。
そういえば、あんな話の途中だった。
二人はしばし、気まずく黙した。
「……とにかく、あんまり勝手に動かないでくれよ」
テオは落ち着いた声音で言い、手を下ろしたものの、行き場のないそれを切なそうに持て余した。マリアベルは彼の鷹揚さに、再びどきりとする。そういえば、先ほどからの危機にも、テオは常に冷静であった。叫んだり取り乱したりしていたのは、マリアベルの方だ。彼女は恥じらいながら、幼い頃に大人びた振る舞いをしていた彼のことを、はっきりと思い出した。
「テオ。あなた、頼りになるわね」
昔思っていたことを率直に口にすると、彼は微苦笑とも照れ笑いともつかない表情を浮かべた。
「やっと気づいたのかよ」
「……うん」
子どものように返事をしたマリアベルを見て、テオはふと真顔になった。その目は、暗闇の中でも分かるほどに熱を帯びている。彼はゆっくりと手を持ち上げ、耳元から彼女の豊かなブロンドへ指を通した。手のひらでそのまま、白い頬の後ろから耳を覆う。熱いその手が触れるマリアベルの頬も、火照っていた。
「マリー。おまえがそうやって素直になってくれると、俺は……」
彼の切ない声の合間に、微かな異音が交じるのをマリアベルは聞いた。
衣擦れと、鞘払いの金属音。
「そこまでだ、テオ=ハイボン。妻から離れてもらおう」
激しい怒りが渦巻く、低い声。闇の中で煌く切っ先が、硬直したテオの首を捉えていた。