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第六章  幸福の女神 (1)

第六章  幸福の女神


(1)


 三日間に及ぶ、息のつまる思いから、マリアベルはようやく解き放たれた。

 「ああー、もう!」

 縄を切られて馬車から出るや否や、彼女は伸びをし、大声でストレスを発散する。ずっと彼女の世話をしてきた日替わりの女傭兵は、すでに去ったようだ。

 傭兵に全てを任せきりでいた幼馴染は、三日目の夜更けにして突然馬車を止めたのだった。そして、中へ乗り込んできて、「悪いようにはしないから、まずは俺の話を聞けよ」と妙に真剣な瞳で訴えてきたのである。マリアベルがもう忘れてしまいかけていた、凛々しい表情と声であった。懐かしさに胸を打たれ、彼女はその訴えに応じようとしていた。まずは外へ出て、縛られ通しで強張った体をほぐしているところだ。

 テオは「話を聞け」と自ら頼んだにも関わらず、足元の土に松明を突き刺した後、気まずそうに押し黙っている。マリアベルは小さく嘆息し、深夜の静かな闇が降りる周囲を見回した。

 荒れた大地と、乾いた風。疑いようもなく、ここはノックロックだ。痩せた領内の土地でも、さらに痩せた東方。遺跡が点在する辺りと思われた。実際、馬車が停められているのは、とある小さな遺跡の入り口前である。平建てに造られたこの遺跡は、見た目の貧相さとは裏腹に、地下には巨大な迷宮が待ち受けている。領主の娘であるマリアベルは、もちろんそのことを承知していた。

 「さて、どういうつもりなの?」

 充分に待ったつもりだったので鋭く問うと、テオはわずかに視線をそらした。子供が悪戯を咎められたかのようなその表情は、彼が昔よく見せていたそのままである。

 マリアベルは、この男との記憶を掘り起こそうと試みた。彼が理知的に彼女へ接し、稀にもどかしそうに見つめてきた、あの頃。幼く拙い初恋。テオの周囲にはいつも女の取り巻きがいたものだが、マリアベルは良くも悪くも、彼にとって特別であったということは薄々感じていた。どこか深いところで、互いの心が不意に触れ合うような感覚。幾度となく感じたそれを、幼かった当時は戸惑って持て余すばかりであった。

 間違いなく、どこかで惹かれあっていたのだろう。彼女は幼馴染との絆やすれ違いを、そう振り返った。すると、フィン=ティレットとの再会で味わったような、甘く切ない哀愁が押し寄せてくるのだった。

 「おまえさ」

 テオは相変わらず、ふてくされたような表情のまま、ようやく口を開いた。

 「俺のこと、嫌ってると言うより、哀れんでるんだろ」

 どきりとして、マリアベルは返答に困ってしまう。

 否定することができない。テオを煙たがった怒りの根源は、彼に対する失望に他ならないということ。あなたは、そんなつまらない男になるはずじゃなかったのに。どこかで、そう思っていたのだ。

 マリアベルの胸の中で、一層、初恋の記憶が輝き始めた。なおも続くテオの言葉は、後悔と誠意に満ちており、彼女をうんざりさせてきた軽々しさは消え失せていた。

 「おまえに散々言われて、やっと分かったんだよ。俺は要らないものばかり集めてきた。金も女も、くだらない。俺が欲しかったのは、単純明快、ただの幸せだ」

 思わず、マリアベルは彼の名を呼んだ。鼓動が高鳴り、淡い気持ちで胸がいっぱいだった。

 ところが、

 「だから、これから、幸福の女神に会いに行く」

 「……はあ?」

 一気に冷めた。

 テオは彼女の反応を意に介さず、相変わらず真摯に述べた。

 「知ってるだろ? ノックロックの伝承だ。女神から、揺るぎない幸福をもらう。俺のこと、ちょっとは哀れに思ってるなら、遺跡の奥まで付き合ってくれよ。領主の娘のおまえは、ノックロックの家宝の番人だろ?」

 バカだわ、こいつ。

 マリアベルはこめかみに指を当て、つい今までの自分を悔いた。私こそバカな女。こんな男との思い出に価値を感じてしまっただなんて。価値のないものは、さっさと片付けるべきだ。ゴミはくずかごへ。基本中の基本だ。

 「ねぇ、テオ。正直、幻滅だわ」

 苛立ちを端的な言葉で表現してやると、テオは自嘲めいた微苦笑を浮かべた。

 「へぇ。幻滅ってことは、まだ減るもんが残ってたんだな。なんていうか、まあ、嬉しいよ」

 「……妙に素直じゃない。気持ち悪いわ」

 動揺を悟られまいと、マリアベルは辛辣に畳み掛ける。

 「なんで幻滅されたか、あなた、分かってる?」

 「俺の勝手な都合で、誘拐なんてことしたからだろ。違うのか?」

 「違います!」

 ぴしゃりと言い、マリアベルは彼の困惑した目を真っ直ぐに射抜いた。

 「自分が幸せじゃないって気づいたなら、どうして本当に欲しいものに目を向けないのよ。『揺るぎない幸福を女神からもらう』? バカよ。ほんと、バカ!」

 テオは彼女の語気の荒さに、すっかりたじろいだ。

 「なんだよ……そこまで言うことないだろ」

 いじけたように言ってから、彼はマリアベルの怒りを煽っただけだということに気づいたらしい。気まずそうに、小さなため息をついた。

 「そんなに俺は、間違ってるのか。本当に幸福が欲しいから、自分で言うのもなんだけど、珍しくいろいろ努力してみたっていうのに。少しくらい、認めてくれよ」

 「何よ、それ。私に認められるために頑張ったとでも言いたいわけ?」

 冷めた目で早口に言い返すと、テオは激昂するではなく、目を瞠った。そして次には、悔しそうに口元を結んだ。意外な反応にマリアベルが言葉を失っていると、テオはしばし後、諦めたように息をついて、力の抜けた声を出した。

 「そうかもしれない」

 もはや動揺を隠し切れなかった。マリアベルはやや眉を寄せて、言った。

 「やめてよ。一体、どうしたのよ。ちゃんと言い返してくれないと、調子が狂っちゃうでしょう。らしくないわよ」

 「なあ、マリー。さっき言ったこと、俺にもわかるように教えてくれよ」

 テオはいよいよ、すがりつく勢いで彼女へ迫った。

 「俺はそんなに間違ってるのか? もう、自分でも分からないんだ。俺が本当に欲しいものって何なんだ? 幸福を得るために努力するのは、そんなにおまえに軽蔑されることなのか?」

 「ちょっと……。本気で言ってるの?」

 マリアベルは呆れてしまった。

 「馬鹿馬鹿しいけど、そんなに言うなら全部噛み砕いて教えてあげるわよ。まずね、『揺るぎない幸せ』なんて、あるわけないでしょう。辛いこともあるから、幸せがあるの。ずっと幸せだったら、それはもう幸せだって感じなくなっちゃうでしょう。わかる? それからね、幸福になるために努力しようって思い立ったまではいいとして、なんでそこで他力本願に『女神』とやらに頼るわけ? あなたが幸せになれない原因は、あなた自身にあるんだから、自分が変わらないと駄目に決まってるじゃない。……あなたが本当に欲しいのは、人生の夢とか目標とか、そういうものなんじゃないの? せっかくの才能を持て余して、生かせなくて、つまらないんでしょう?」

 一気にまくしたてながら、彼女は言葉の後半で、己を振り返らずにはいられなかった。

 偉そうに言ってるけれど、正直私も、似たようなものよね……と自嘲したくなる。幸せになれない原因は、自分にあるのだ。まさに、己の言葉通りではないか。

 彼女はここにきて、馬車の中で考えないよう努めてきたことへと、意識を向けた。ベノルに願った、あの約束のこと。

 お願いだから、救いに来たりしないで。そうすれば、また一歩、踏み出せるかもしれない。でも、もし約束を守ってくれなかったら……。

 気づくと、テオとの間には長い沈黙が降りていた。

 「マリー」

 静かに呼ばれた名に反応し、マリアベルは目の前に立つ幼馴染へ、再び意識を戻す。

 テオは、苦笑していた。

 決して、卑屈にではない。不敵な力強さや、浮き立つような興奮さえ感じられる、晴れやかな苦笑であった。

 「今からくさいこと言うけど、許せよ」

 これ以上、動揺させないでもらいたいのが本音であったが、気障な台詞を素直に吐くテオというのにも興味が沸き、マリアベルはしぶしぶの体で先を促した。

 「なぁに?」

 「おまえこそが、俺の幸福の女神だったんだな」

 顔が火照るのを止められなかった。足元のわずかな灯りだけでも、ばれてしまったのだろう。テオは面白がるように、目を細めた。そこには慈しむような色が濃く、マリアベルはさらに動揺して憎まれ口を叩いた。

 「直接的すぎて興ざめだわ。もっと語彙力を増やしたらどう?」

 ははは、とテオは楽しそうに笑い、吹っ切れたように告げた。

 「かなわねぇな、おまえには。でも、もうちょっとだけ我慢して聞いてくれよ。伝承によると、ここの遺跡に現れる幸福の女神は、望む者に幸福を教えて、与えてくれるんだ。でも、おまえは今まさに、俺にそれをやってくれちまったわけだよ。……俺、今はけっこう、幸せな気分だ。おまえのおかげだよ、マリー」

 「それは、どういたしまして!」

 ぶっきらぼうに言い捨て、そっぽを向く。憎まれ口ばかりだった幼馴染に急に殊勝になられて、どう対応したものか、さっぱり分からないままだった。

 テオは苦笑した後、「それでさ」と真摯な落ち着いた声で続けた。

 「俺はもういいとして、おまえのこと、心配なんだけど。マリー、おまえは今、幸せか?」

 テオのその言葉と声は、マリアベルの胸を一挙にさらった。

 思わず強張らせた顔を真正面から向けてしまい、彼女は後悔した。答えてしまったも同然であった。きっともう、言葉で取り繕うことはできない。そう思うと、諦めとともに涙がこみ上げそうになる。しかし、彼女は目をそらせぬままに、必死に堪えた。それはもはや習慣のような、ただの意地であった。

 テオはしばらく、そんな彼女の様子を静かに見つめていた。が、時の経過とともにやがてその瞳に浮かんだのは、失望の色であった。茶化すように、彼は苦笑し、肩をすくめた。

 「やっぱり、俺の前じゃ泣けないか。でも、おまえが隠れて泣いてるのは、よく知ってるつもりなんだぜ。あの日も、おまえ、泣いてただろ。ベノル=ライトが来て、俺が見事に赤っ恥かいた日」

 気づいていたの。

 マリアベルは、愕然とした。同時に、目の前の幼馴染へすがりついて泣き喚きたいという、強い誘惑に駆られた。テオがここでもし、彼女を強引にでも抱き寄せたならば。または、黙って微笑み、両腕を広げただけでも、彼女は誘惑に負けてしまっただろう。しかし、そうはならなかった。

 「なんで泣いてたんだよ、なんて、野暮なこと聞くようだけどさ」

 テオは達観したように、落ち着いた声で続けた。

 「イライザから、おまえとベノル=ライトの結婚が『取引』だって聞いて。俺があんなことしたのが、悪かったんだよな。信じてもらえなくていいけど、ノックロックをおまえから奪う気なんてなかったんだ。ハイボンに組み込まれても、実質はおまえやジュードが管理して、何も変わらないようにしていくって、父上とも話をつけてあった」

 でも、そんなのをおまえは知る由もなかったわけで、とテオは沈痛な面持ちになった。

 「最初は、まぁ良かったのかなって思った。誰もが羨む英雄にもらわれて、王都で幸せに暮らすんだろうって疑いもしなかったからな。でも、『取引』だなんて。まるで身売りするみたいなもらわれ方、俺がさせたんだって思うと、おまえが泣いてたことが、頭から離れなくなったんだ。もしおまえが今、幸せじゃないんなら」

 テオはしばしの間の後、意を決したように、荒れた大地へ片膝を折った。

 「償わせてくれよ。俺にはおまえみたいに、幸福のあれこれをおまえに教えてやることはできない。けど、幸福の女神に聞いてきてやることならできそうだし、うまくいけばおまえに幸福をって願えるかもしれない。おまえは馬車の中で、じっとしてればいいんだ。警備隊も馬鹿じゃない、そんなに待つことなく、ここに来て保護してくれるだろ。英雄ベノル=ライトが、直々に現れたりするかもな。とにかく、心配いらない」

 すっかり毒気を抜かれてしまい、立ち尽くすだけのマリアベル。その様子を笑いながら、テオは立ち上がり、馬車の鍵を差し出した。

 「家宝は持って行くけど、いいだろ? ノックロックの領主の娘の幸福のためなんだ、ばちは当たらないさ」

 マリアベルの胸に、つい数分前まで想像もしなかった様々な想いが生まれていた。馬車の鍵を、受け取ろうとは思わなかった。

 「……ねえ」

 マリアベルが畳み掛ける問いの全てに、テオは動じることなく、淡々と言葉を返していく。

 「あなた、遺跡に入るにしても入らないにしても、この先、どうするつもりで誘拐なんかしたの?」

 「先のことなんか、何も考えてなかったよ。この遺跡で女神に会いさえすれば、俺は幸福になって全部解決できるって、馬鹿みたいに信じてたからな」

 「それで、話が変わった今、どうするつもりなの? 遺跡から出てきた瞬間に、警備隊に捕まるわよ」

 「そうだな。まぁ、元々他にやりたいことなんてなかったし。こうやっておまえと話して、わだかまりがなくなっただけで、誘拐して正解だったよ。変な話だけどな」

 「遺跡の中は、いろいろ危険だって言うじゃない。平気なの?」

 「一応、三年かけて調査は済んでる。伝承が書いてあった本に、遺跡の簡単な地図と解説も載ってるし、大丈夫だろ。ほら、受け取れよ、鍵」

 「ねえ、テオ。このまま北へ逃げるのが、あなたにとって一番だと思うわ」

 マリアベルは、なおも鍵の受け取りを拒否した。

 「私、ちょっと心当たりがあって。この誘拐は私が仕組んだことだって、ベノル様や陛下を説得できるかもしれないの。そうしてうまくいけば、戻ってきてまたスリノアで暮らして、夢や目標を探せばいいのよ。うまくいかなければ、新天地で自由に冒険すればいい。ああ、それって何だかとても楽しそうじゃない。羨ましくなってきちゃったわ」

 無理に明るく振舞っても、無駄なようだった。テオはもう、決めてしまっている。「あとどれくらい説得しようとしたら諦めてくれるんだ?」と言いたげに、楽しそうに笑んでいる。

 彼への情と、先ほど浮かんだ罪深い思惑。

 マリアベルはついに、最後までとっておいた言葉を、テオへ差し出したのだった。

 「いいわ、テオ。家宝を持って遺跡へ入ること、私が許可します。その代わり、私も連れて行って」

 眉を寄せる彼へ、マリアベルは儚げに微笑んで見せたのだった。

 「思いついたことがあるの……実行するかどうかは別として、ね」

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