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第五章  守られなかった約束 (2)

(2)


 振り返ってみれば、彼女はいつだって強がりだった。

 賢い故の口達者が、それに輪をかけていたようにも思える。周囲が彼女の論理明快さや機知を賞賛すればするほど、彼女はより毅然と、気高く振舞うようになっていった。彼が、うっかり手出しをできぬほどに。

 頼られれば、任されれば、必要以上に頑張ってしまう。自分に厳しく、ほどよく手を抜くやり方を知らない。男に甘えるのも下手だ。男だけではない。全てに対して、甘えるのが壊滅的に下手だった。

 現実を冷静に見据える強さを持つようで、実はロマンチストだ。愛の詩や物語を、よく口にしていた。一時の儚さや、熱烈に貫かれる一途さが描かれたものを、好んでいた。その彼女の様子は、彼をひどく落胆させた。どちらも、彼には欠けているものだったから。

 強がって、甘えられなくて、自分を追い詰めて。そうして辛くなっても、誰かを素直に頼ることができず、文学という空想へ救いを求めたのだろう。毅然とした女領主を、途中で投げ出すわけにいかなかったのだ。どんなに辛くとも、自分に課したことだから。

 意地っ張りの、泣き虫。隠れて泣いていたことに、気づかれていないとでも思っていたのだろうか。彼女の涙の痕跡を目ざとく見つけてしまい、そのたびに、彼は苛立ったものだった。

 泣いてしまえばいいのに、人前で。

 そう思っていた。しかし、その苛立ちを今、彼はこう訂正する。

 泣いてくれればよかったんだ、俺の前で。

 いつだったか、彼も彼女も子供だった頃。彼の住む館で、何かのパーティーがひらかれたとき。集まった子供たちで外へ出て、かくれんぼをしたことがあった。彼は絶対に見つからないであろう隠れ場を知っていたが、そこは避けた。ほどよく探され、ほどよい時間で見つかるのがベストであると、彼は考えていた。そもそも単純でつまらない遊びなのだから、力む必要などない。場を白けさせず、楽しむふりで適当にやればいい。

 だが、彼女は違った。いつでも全力なのだ。気合を入れて隠れたらしく、見つかった他の子供たちが総出で探しても、行方が分からなかった。途中までは躍起になって盛り上がっていた子供たちも、日が暮れると段々白けてくる。それを察し、彼は自分のとっておきの隠れ場を暴露せねばならなくなった。みんな彼のあとをついて来て、彼女の名を呼んだ。

 彼女は姿を現したものの、憮然と押し黙っていた。

 飽きられないうちに見つけてやったのに、可愛くないやつ。彼は苛立ち、彼女に背を向けて、皆と同じく白けたふりをしたのだった。

 しかし、彼女が悪戯っぽく笑って場を取り成そうとしなかったのも、隠れ疲れた!などと最も言いそうな文句を言わなかったことも、今となっては理由がよく分かる。彼女の隠れ場は完璧すぎた。探しに来る者はおろか、近付く者さえいなかっただろう。日が暮れてきて、彼女は、きっと、怖かったのだ。でも、自分から出てくることも、できなかったのだ。

 思えば幼かった頃、そんな彼女と対等に渡り合って考えを読み合えた人間は、同年代の中では彼しかいなかった。彼はそれを何となく感じており、どこか嬉しく、誇らしく思っていたものだった。それなのに、意地っ張りの彼女についつい応戦してしまい、憎まれ口や素っ気無い態度を押した。わざわざプライドをへし曲げてまで跳ねっ返りを受け入れなくとも、彼の周りから女の華やかさが絶えることはなかったから。

 こんなこともあった。14のとき。用事があり、家族でノックロックへ赴いた。しかし、領主の館に彼女は不在であった。夕方に帰宅した彼女は、応接間の客一家へ笑顔で挨拶し、早々に自室へ引きこもろうとした。

 彼は特別、彼女へ用はなかった。しかし、彼女の後を追い、部屋へ入る寸前の彼女の腕を捕まえた。彼女は驚いた顔で、彼を見上げた。ほのかに、目が赤らんでいた。

 彼女は笑いかけてきた。その取り繕うような笑顔は彼を苛立たせ、とっさに彼は、彼女の腕から手を離した。自分からつかんだくせに、まるで、突き放すように。

 彼女との記憶を辿れば、そこには必ずと言っていいほど、正体不明の苛立ちがついてまわっている。それは今や、『後悔』と形を変えて、限りなく薄い水色一色のベールを思い出に被せている。ベールを通して見る記憶の数々は、どこか色を失っていて、味気ない。

 かくれんぼで見つけてやった時も、腕をつかんで引き止めた時も。彼女は彼の前で泣き出すことはなかった。泣いてくれれば、弱さを見せてくれれば、話は早かったのに、と思う。彼をちやほやした女たちに比べて、なんて甘えるのが下手くそだったのだろう。姿を見かけるたびに、気になっていた。また隠れてどこかで泣いてるのかよ、と。一度でいいから素直に甘えてくれよ、そうしてくれたらその後はずっと、どんな女より大事にしてやれそうなのに。

 しかし、いつしかその想いは薄れてしまった。多くのことをそつなくこなし、うまく苦労を避けてきた彼は、気づくと、彼女の面倒臭さを受け入れて包んでやりたいという男気から遠ざかっていた。

 何か決定的な分岐点があっただろうかと探してみても、見当たらない。ひとつの言葉、ひとつの動作といった、取るに足らないはずの小さな小さなものが積み重なっただけだ。果たして、幼い頃に通じ合っていた二人のうち、彼は覇気のないつまらない男へ留まり、彼女は彼の手の届かない高みへ昇っていった。穢れを許さぬ、女神のような美しさで。

 どーせ俺は、おまえには合わない男だよ。自分への失望が、彼女に対する苛立ちを強めた。その頃にはもう苛立ちの正体にもなんとなく気づいていたが、あんな強情な可愛くない女に気を遣っているだなんて、誰にも悟られたくなかった。それに、とにかくまず、面倒臭かった。彼女を手に入れたいと思うには思うのだが、それを実現するためのプロセスを考えると、すっかり萎えてしまうのだった。すでに深くでき上がってしまった溝を懸命に埋めて、都合よく抱ける女たちを片付けて、悔しくもプライドを捨てて彼女へ膝を折り、羞恥を堪えて今更、愛を語るだなんて。それもきっと、一度や二度ではなく、繰り返すことになるのだ。彼女が振り向いてくれるまで。そんな気概も情熱も、生ぬるい日常の中では起こりえなかった。

 17のとき、彼女が王都の学校へ行ってしまうと聞き、彼は馬を走らせて彼女へ会いに行った。が、希望に輝く彼女の顔は、彼をひどく落胆させた。俺と離れるっていうのに、そんなふうに笑うなよ。そう言えたら、何か変わったのだろうか。いいや、あの時でもすでに手遅れだっただろう。結局、憎まれ口を交わしただけで帰ってきてしまった。

 その後すぐに、彼は有力商家の娘と結婚した。彼をちやほやした女の一人で、美貌も胸も付加価値も、全てまさっていた。誰と比べて? もちろん……

 「馬鹿マリー」

 テオは、ぼやくように独りごちた。

 彼は今、箱馬車を操る御者に扮して、手綱を握っている。旅は二日目、もう日が暮れてきた。馬車は街道沿いにハイボン領を越え、すでにノックロックの領内へ入っていた。

 「馬鹿マリー」

 再度つぶやくと、聞こえたはずもないのだが、彼の背もたれがダン、と中からの衝撃を伝えた。

 面倒のないよう、両腕は後部座席に縛り付けたはずだ。ということは、足を振り上げて蹴ったということらしい。わざわざこちら側を蹴らずとも、箱の底を靴裏で叩けば事足りるというのに。まったく、慎ましさの欠片もない。テオは嘆息して、馬車を停めた。ほんとに、なんでこんな女……。

 彼は右手を真横へ伸ばし、上下に振った。それは、馬車の後ろを単馬でついて来させている女傭兵への合図だった。女傭兵は馬から下りて、馬車の扉を開ける。用を足すために外へ連れ出したり、水分や食事を与えたり、縛めをほどいたりきつくしたり。そういった諸々の雑用というか世話をさせるため、彼は日替わりで女傭兵を雇っていた。男には彼女を触らせたくなかったし、三日間同じ傭兵がつくと、賢い彼女は何か手を使って味方に引き入れる危険があった。そうでなくとも、彼女は街道沿いの宿場前で馬車の速度が落ちた瞬間、腕を縛られたまま外へ飛び出して地面に転がったりと、すでに様々な抵抗を試みていた。紳士的に扱いたくとも、彼女の果敢さが拘束を強めざるを得なくなっている。いや、そもそも強引にさらってきた時点で、紳士的だなんて言葉、矛盾しすぎているのだが。

 今回の訴えは、水を飲ませろということらしかった。女傭兵は、御者台のところへやってきて、テオの隣に置かれている荷の中から水筒を持って行った。水を飲むには、口へ噛ませた布を外さねばならない。

 テオは自分の前に続く荒れた街道を、自身の膝に頬杖をついて眺めた。ハイボン領の途中から、この街道は急に整備不良が目立つようになる。そういえば今日も天気に恵まれ、夕焼けが綺麗だ。明日もこうならいい。

 そんなふうに、意識を無理やり、どうでもよい方へ持っていく。なぜなら。

 「テオ! こんなことして…!」

 やはり彼女の声が響いてきた。しかし傭兵に口を塞がれたのか、すぐにやんだ。女傭兵が扉を閉めたのを確認して、彼は再び馬車を走らせる。ダンダン、と二度、箱が中から蹴られた。怒りを抑え切れないらしい。

 こんな女の、どこがいいんだ。彼は分かってはいても、彼自身に問いたくて仕方がない。それともう一人。突然現れて彼女を永遠に彼から引き離した、ベノル=ライトへ向けても。


 テオは次男に生まれたため、領地を背負う必要がない。身軽でいい、と考えていたが、それはいつしか虚しさに変わった。

 例えば、どんなに富を集め、贅沢に暮らそうとも、胸にはいつも空洞があり、埋まらなかった。周囲の賞賛の言葉には、なんの重みも感じられなかった。

 例えば、妻がどんなに従順で可愛らしくとも、彼女との会話は、すぐに癒しはおろか、手ごたえすらも感じられなくなった。その妻を差し置いて、誰もが羨望する美女を好きなように抱いても、得られるのは刹那の満足と、その後の強い自己嫌悪だけ。美女になんの価値も見ていないかのように振舞ってみて、己の自尊心を高めようとも、何も変わらなかった。何もかもが、虚しかった。

 羨ましいだろう? 俺はこんなに金持ちで贅沢できて、女にも不自由しないんだぜ。

 彼がそう言ってわざわざ確かめずとも、周りが彼にこう言った。あなたは人生の成功者だ。おまえは女に困らなくていいな。どうしてそんなにうまくやれるの。人生を代わってくれよ。

 しかし、その曲がった矜持をどんなに見せつけつけようとも、幼馴染の彼女だけは、テオの望む反応を微塵も寄こさなかった。白けた顔で、「よかったわね」と言うだけだ。全く興味を見せてくれない彼女の態度は、何よりも彼を傷つけ、苛立たせた。だからと言って、彼女がしおらしく「貴方と結婚すればよかったわ」などと言ったものなら、彼は死にたくなるくらいに幻滅したのだろうけれど。

 日に日に己を蝕んでいく虚しさから目をそらすためには、彼女との時間が必要だった。たとえそれがどんなに苦痛で惨めで、辛い時間でも。自分が今や彼女にすっかり嫌われ、疎まれているのは分かりきっていた。それでも、厚顔無恥を装って、関係が切れないように図り続けた。

 なぜなら、彼女はテオの知らない何かを確実に知り、容易く手に入れているようだったからだ。彼もその何かを知りたかったし、欲しかった。それを知ることで、この耐え難い虚しさを一掃できるのではないか。そんな予感がしていた。いつしか、彼は彼女に希望を見い出すようになっていた。

 そしてある日、彼はついに、その希望の名を知ることになる。

 「テオ。あなたは何でも好きなようにできて、本当に幸せな人ね。羨ましいわ」

 吐き捨てられた、彼女の嫌味。

 何も言い返せなかった。特別なことのない、ただの会話の一部だった。なのに、何も、言葉が出なかった。

 俺は、幸せなんかじゃない!

 湧き上がった強い感情は、要するにそういう叫びだった。

 彼は自分に足りないものを知った。金も女も、イコール幸福ではなかったのだ。集めても集めても、むしろ虚しくなるわけだった。こんな単純なことに、なぜ25年間も気づかなかったのだろう。彼は自嘲した。四半世紀だぞ、おい。

 それからは、幸福を確実に手に入れようと、あれこれ行動してみた。金にものを言わせ、幸福をキーワードにするものを買い漁った。学者や情報屋から、知識を買った。その中で、彼を一番魅了したのが、ノックロックの幸福の女神の話であったのだ。

 幸福の女神が現れ、望む者に幸福を教え、与えてくれる。その伝承を知ったとき、彼は身を焼くように突き上げる衝動を覚えた。

 幸福を手に入れる。そのためには、まず女神の遺跡を誰にも渡してはならない。調査チームを雇って、時間をかけて探らせねば。それには、ノックロックごと手に入れるのが一番だ。ノックロックを手に入れるということは。

 彼は悪寒を感じるほどに歓喜した。予感は当たっていた。彼女こそ、幸福への入り口。彼の虚しさを一掃してくれる希望。今度こそ彼女を手に入れよう、どんな手を使ってでも。

 こうまで情熱をもって何かに邁進したことが、彼にはなかった。とても楽しかった。策は全て成り、あとは哀しみと怒りに暮れる彼女へ、素直に気持ちを打ち明けるのみだった。

 そこへ突如割り込んできたのが、完全無欠のあの英雄だ。

 ベノル=ライトが見せた凄みは、言葉にできぬほどの迫力と恐怖を彼に与えた。とっさに背を向け、情けなくも逃げ帰ってきたが、我に返ったあとに残ったのは、羨望、の一言に尽きた。みなぎる自信と、深み。それは、ベノル=ライトが背負ってきたもの、これからも背負っていくものの重さから出ずるものに、違いなかった。自分と結婚する女は、絶対に幸福である。そう言わんばかりの不敵な微笑には、懐の深さと力強さが共存していた。

 大きな責務と、それに向かう不屈の精神。投げ出さず、全てを受け入れる包容力。

 勝てるわけないし。

 テオはしばらく、腐った生活を送ったものだった。長男に生まれていれば、俺だって背負うものがあって、少しはましだったはずだ。そんなふうに女々しく出自を恨んだところで、何も変わらなかった。悪いのは、努力や責任といったものを面倒臭がり、遠ざけてきた自分だ。誰に言われずとも、いい加減、分かっていた。

 数ヶ月も経つと、彼は残された幸福への道を模索し出した。彼女は永遠に失ったが、遺跡はノックロックの地にある。幸福の女神は、まだ彼に微笑むかもしれない。せめて、それだけは諦めたくない、と思った。

 目立たぬように、三年かけて、ようやく遺跡の内部を調査し終えた。あと要るのは、ノックロックの家宝。そして、保険として、ノックロックの女……英雄の妻となり、更に美しく垢抜けた、跳ねっ返りの幼馴染。

 彼女がもし、付け入る隙のないほどに幸福に包まれていたならば、奪うのは家宝だけにしようと、決めていたのに。

 「馬鹿マリー」

 もう何度目になるか分からぬつぶやきを、テオはため息のように吐き出す。馬車はもうすぐ最後の宿場へ行き着き、短い仮眠と傭兵の交代を済ませば、あとは遺跡での冒険が待つのみだった。

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