第五章 守られなかった約束 (1)
第五章 守られなかった約束
(1)
夜というものは、どの日にも平等に訪れ、更けていく。
この日も夜は、スリノア王都を静かに、穏やかに覆っていった。しかし、王宮の一室、騎士団長の執務室は、決して静かでも穏やかでもない。
窓際の壁に寄りかかって立つスリノア王は、かれこれ一時間ほど、好奇とも言える光を湛え、部屋の主の様子を眺めていた。
英雄ベノル=ライトはひどく険しい顔つきで、デスクについたかと思えば頭を抱え、次には立ち上がって部屋を歩き回ったりしている。部下から報告が入るたびに、押さえ切れぬ苛立ちを露わにし、低い声で指示を出した。
騎士たちにとって、頂点に立つ団長の苛立つ声は、果てしなく恐怖であった。死を宣告されるのを待つ囚人のように、彼らは蒼白の顔を強張らせて指示を仰いでは、報告を繰り返していた。
「ベノル。気持ちは分かるが、少し落ち着け」
哀れな騎士たちを見かね、王はとうとう命じた。しかし、取り乱したベノルは受け入れない。戸口へ向けていた体ごと振り返り、大きく身振りを加えながら、十四も年下の青年へ一人の男の顔で訴えた。
「気持ちが分かる、ですと? 一体誰に、今の私の気持ちが分かるというのです!」
「……悪かった。分からん。説明しろ」
そう開き直られると、ベノルは言葉につまる。上げていた腕から力を抜き、眉を寄せて思案にふけった。
やがて、彼は小さく嘆息する。幾分冷えた声で、こう言った。
「私にとって、彼女を失うことは全てを失うことと等しいのです。どうして落ち着いてなどいられましょう」
「だったら、らしくもなくこんなところで往生せず、現場へ向かっておまえが救えばよかろう。ワオフへ忍んで行った時に比べれば、何も画策せずに済む分、容易いことではないか」
王のもっともな言葉に、ベノルはうなだれた。
「それは、彼女によって禁じられているのです」
「どういうことだ」
「私にも、よく分かりません。しかし、私は今、騎士団長として動かねばならないのです。一人の女性が誘拐された場合では、その地方の警備隊に任せるのが通常です。ああ、なんて忌々しい!」
「おまえは相変わらず、真面目が過ぎる」
王は肩をすくめ、その奇妙な縛りについて詳しく聞かせるよう命じた。英雄は引き続きらしくなく激情的に、王へ事の次第を語った。マリアベルが彼に望んだことと、交わした約束について。
全てを聞き終えると、青年は呆れたように、大仰に息をついた。まさか、自分がこの英雄に女心を諭してやる日が来ようとは。
「ベノル。冷静に聞け」
王は、この誘拐が、狂言、つまりマリアベル本人の企みである可能性を指摘した。
「おまえは試されているだけだ。彼女はおそらく無事であろう。とにかく耐えろ」
ベノルは黙した。きつく歯を食いしばるようなその表情は、彼が王の言葉を受け入れ難いのだということを如実に物語っていた。
王は、いつかのマリアベルの涙を思い返した。そうすると、意図的ではなくとも彼女を苦しめ続けたこの男を、今、彼女に代わってとことんまで追い詰め、後悔させてやりたい気持ちになるのだった。事をややこしくするな、という彼の再三のアドバイスに従わなかった友人を、この機会に責め立ててやろうといった一種の嗜虐性も、そこには含まれていた。
これらを実行するべく、最も効果的な言葉を探し、王はすぐにそれを見つけた。
「少し、安心した」
怪訝そうに彼を見たベノルへ、青年はやおら、こう告げた。
「おまえが本当に、彼女を愛しているのだと、ようやく確信を持てた」
それは絶大な効果を発揮したらしかった。ベノルはそのまま、痛々しく沈黙した。
「……私は」
とうに彼女を。そう続けようとして、ベノルは口をつぐんだ。
きっとマリアベルも、この青年と同じことを思うのだろう。初めて体を重ねたあの夜から、いいや、きっとそれよりも前から、とっくに愛していたというのに。
『取引』などと言い出したのは、自分だ。恋に落ちて燃え上がり、灰になることを恐れて作った、口実。聡い彼女が同じように、愛することを恐れるのは当然であった。当然とわかっていても、彼女を愛するようになった後では、その警戒が辛かった。それこそ、気が触れてしまわんばかりに。
王の思惑通りに、彼は己の振る舞いを深く悔いた。結局、同じことの繰り返しだ。姑息な縁結びの果て。また、悲劇に終わってしまうのだろうか。そうなったら。
……なにが、「スリノアの英雄」だ。
胸中で毒づいた時、新たな情報をもった騎士が扉を叩き、入室して次第を告げた。
マリアベルが連れ去られた先は、王都から見て北西方面。ハイボン領やその先のノックロック領へ至る街道沿いで、彼女を目撃した者がいるということ。犯人として疑わしい、共にいた男は、テオ=ハイボンという名の男であろうということ。
「テオ=ハイボンだと!」
ベノルの落雷のような怒声を浴び、若い騎士は、恐怖に体中を引きつらせて戸口へと後退した。戦場でよく響くベノルの声は、騎士たちの士気を極限まで高め、鼓舞するものであったが、それは今、憤怒に支配され、手当たり次第に小さな部屋で撒き散らされているのだった。滑稽なほどに。
この若い騎士は、詰め所で相当に揉めた後、じゃんけんか何かで負けたのかもしれぬな、と王は心底哀れんだ。こんなときに限って、ベノルと旧知の騎士が誰一人王都におらぬというのは、なんと皮肉なことであろうか。
「あの男、これほど月日が経っても彼女へ未練を持ち続けていたとは。あの時、逃がさずに殴り殺してしまえば良かったのか!」
「ベノル……」
王はなだめようとしたが、青筋を立てて怒鳴るベノルの様子を見、妙に可笑しくなってしまった。彼はこの誘拐が狂言であると信じて疑わないが故に、気楽に傍観できるのだった。笑っているのを英雄に悟られぬよう、こらえて肩を震わす。その間も、ベノルは貴公子に似合わぬ雑言を吐き続け、戸口でうろたえる部下に命じた。
「ハイボンとノックロックの警備隊に伝えろ。こんな時に役に立たぬような警備隊ならば、全員首をはねてやると!」
新米騎士は震える腕を上げて敬礼し、逃げるように部屋を飛び出していった。
「ベノル、もう決定的だ」
王はこの事態を仕切り直すべく、ニヤリとしてみせた。
「彼女は旧知の男と図り、誘拐を装って実家へ帰っただけであろう。おまえが約束を遂げるかどうか、しばらく様子を見たいだけだ。何とも可愛げのある、粋な策略ではないか」
言い終えた王は、しかし、これまでと激変したベノルの様子に気づき、不吉な予感を覚えた。ベノルは突如、冷静な佇まいで宙を睨んでいたのだ。
「……ノックロック方面」
英雄はつぶやいた。とたん、何かに行き当たったかのように息を呑んだ。彼は膝を折ることもせず、王へとまくし立てた。
「陛下、しばらく休暇をいただくことをお許しください」
そのまま、彼は素早い動作で壁にかけてあった上着をとり、羽織った。
王は突然の成り行きに慌て、寄りかかっていた壁から身を離した。
「ベノル、待て」
その声が聞こえておらぬかのように、ベノルは手早く荷をまとめた。机と本棚から数冊の本を抜き取り束ね、戸口へと向かう。
王は、愚かな行為に及ぼうとしているとしか思えぬ友人を、飛び切りの王者の声で留めさせようとした。
「ベノル=ライト。私はまだ休暇の許可を出してはおらぬぞ!」
その迫力は、さしもの英雄の足を止めさせることに成功した。しかしながら、ベノルは苛立ちを隠すことなく尖った動作で王を振り返り、暗い声で訴えたのだった。
「陛下。これは狂言などではありません。私は彼女を救いに行かねば。どうか許可を」
王は、貫禄をもって撥ねつけた。
「許されたいのであれば、私を納得させてみろ。成功する率は、限りなく低いと思え」
互いに一歩も譲ろうとせぬ、スリノア王とスリノアの英雄。
二人が対峙する空間は、他の生き物がいたならば息をするのも憚られるほどに、緊迫した。
英雄はその人生で初めて、王を恨むように、強く睨めつけた。今の彼にとって、目の前の青年は、激しい衝動を阻むただの障害物でしかなかった。
恐るべき強烈な意思の力を無遠慮にぶつけてくる、緑の双眸。王は戦慄するのを悟られぬよう奥歯を噛んで堪え、この英雄と彼の妻のために毅然と黙し続けた。ここで簡単に折れてしまうことこそ、友人に対する裏切りであると、彼は考えた。友人を名乗るためには、真の友情を貫かねばならない。たとえ、憎まれようとも。
永遠とも思われる緊迫した時間は、実のところ、ほんの数十秒であった。
やがて、緑の瞳がふと弛緩し、魔力のような恐ろしさが雲隠れした。次には、不気味なほどに静かな声音が、王を説得しにかかった。
「これまでの報告によると」
王はベノルのこの声に覚えがあった。英雄が奪還軍を率いて、一途に、全てを懸けて故郷を取り戻さんとしていた頃に、よく聞かれた声であった。当時幼子であった彼が気づけたはずもなかったが、今、その声は青年へと成長した王へ、はっきりと知らしめた。ベノルはあの頃にもこうして、冷静を装った声の底に、強い苛立ちや焦燥などの激情を渦巻かせていたのだ。
そして、それが今も聞かれたということは。
まさか。王は愕然とした。
ベノル=ライトが、救国の英雄である彼が、マリアベルという女性にこれまで、一体何を重ねてきたのか。なぜ彼が、再び恋に落ちることを、あんなにも恐れたのか。
その答えは、王の身に新たな戦慄を呼んだ。どんなに身を挺し、心を砕いたところで、過去そのままの故郷を、取り戻せるはずがなかろうに。未だにこの男は、それを受け入れられないというのか。王都を奪還してから、もう六年もの月日が流れている。それなのに、英雄は未だに、ここへ還らぬまま、喪失を埋めようともがいているというのか。
「マリアベルが男に刃物を当てられ、部屋から連れ出されるのを、目撃した者がおります。日が暮れてから、物置で縛られているのを発見されたとのことですが」
ベノルの不気味なほど静かな声は、王の驚愕をよそに、淡々と告げていく。
「その者の証言では、マリアベルは手に、何か小さなものを持たされていたそうです。それがノックロックの家宝だとしたら、全てに説明がつきます。テオ=ハイボンはあの謀略の最中、マリアベルに求婚していたそうですが、彼女に言わせると、彼の目的はノックロックの地であったそうです」
信じ難いベノルの言葉に、王は思わず顔を歪めた。
「おまえは、彼が幸福の女神の伝承を信じ、家宝を奪うついでにマリアベルを巻き込んだと言いたいのか。そして、伝承にある遺跡へ向かっていると」
「家宝を代々譲られてきたノックロックの女性が、何かの鍵になるかもしれぬと考え、彼は彼女を遺跡に連れ込むでしょう。古代の遺跡は危険に満ちています。伝承に載るような大きなものであれば、なおさらです」
ベノルはそこまで言い終えると、戸口から離れて王のそばへ歩み寄り、膝を折った。
「陛下。私は一度邸宅へ戻り、彼女の家宝が奪われておらぬかを確かめます。そして、もし家宝が見当たらなければ、ノックロックへ馬を飛ばし、彼女を保護せねばなりません。そのための休暇を、いただきたいのです。どうか、許可を」
英雄の声と様子は、王を揺さぶり、苦悩させた。誘拐が狂言ではないかという疑念を捨てきれぬと同時に、ベノルの読みが正しければ由々しき事態であるということも、彼は充分に理解できていた。
しばしの葛藤の後、王は問うた。
「ベノル。私がなぜ許可を出すことを渋るか、その理由が分かるか」
英雄の決意は揺るがないようだった。それでも、王は確認の作業をやめられなかった。
「おまえが休暇をとって彼女のもとへ参じるということは、彼女の願いを裏切るということだからだ。それは、取り返しのつかぬ結果を招くかも知れぬのだぞ。もしも試されているだけであったとしたら、それこそ、永遠に彼女を失うことになりかねない」
それは再びおまえを絶望へと追いやるのだろう。故郷を取り戻せなかったのと同じ喪失を、三度味わうことになるのだから。
王の不安をよそに、ベノルは黙したまま、ただ王の次の言葉を待つのみであった。岩というよりは山のごとく、それは動かすことの叶わぬ揺るぎなさで、王に許可を迫った。
「……好きにするがよい」
諦めの果ての声を受け、ベノルは短く感謝の意を述べると、大股に歩んで戸口へ向かった。
王はその背へ、鋭く釘を刺す。
「何にせよ、おまえの態度が彼女へ不信を植え付けていることは確かであろう。これに懲りたなら、彼女へ率直に気持ちを吐露することだ。よいな」
いったん歩みを止めてその言葉を聞いたベノルであったが、そのまま振り返ることなく部屋を出て行った。
騎士団長の執務室に、不穏な静けさが降りる。
……いい加減、スリノアへ還って来い、ベノル。
王にできることは、祈るように目を閉じることだけであった。