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第四章  情熱の詩 (3)

(3)


 マリアベルが、ワオフの地で第二王子誕生を祝う式典があることを知ったのは、スリノア王と話をしてから半月後のことであった。

 その話題を、彼女はまず、夫へ直接ぶつけてみた。

 「貴方は、出席なさるの?」

 「いいや。大使については、今、調整中だよ」

 応接ソファに深く腰かけているベノルは、全く動じた様子もなく、いつものように微笑んで答えた。彼は小さな息子を膝に座らせ、飽きることなく愛でていた。

 「第一王子の時には、陛下と私が出席した。しかし今回は第二王子であるし、ワオフとスリノアの友好関係は揺るぎない。今回の大使の役割は、平たく言って、出席することのみだ。陛下は、ワオフに友好的な有力議員でも行かせてみようかと、お考えのようだったよ」

 マリアベルは、そうですの、と笑んだ。この日も、全ては無難であった。

 次の日、彼女はスリノア王へ直々に願い出た。スリノア大使として、ワオフへ行かせてほしい、と。

 王は、しばしマリアベルの瞳を覗き込んだ後、根負けしたように許可を出した。頼れと言ったわよね?と言わんばかりの彼女の押しに、王は苦笑すら浮かべていた。

 これら一連を知ったベノルは、その夜、さすがに驚いた様子で彼女に問うた。

 「なぜ、君が行く必要がある?」

 「ノックロックには、幸いというべきか、他民族との問題がありませんでしたわ。見識を広めるために、別の文化に触れておきたいのです」

 無難な答え。ベノルは腑に落ちない顔をしていたが、それ以上は問わなかった。彼らの無難な夜を守るためには、これ以上の問いかけはご法度であった。


 荒野を何日も馬車で抜けると、ようやくワオフの街と城が見える。

 湖が、ぽつりとひとつ。その東側の比較的肥沃な土地には、まるでこれが生命線であるとばかりに随所に工夫の凝らされた田畑が広がっている。そして反対側、西側の乾いた土の上に、ひしめくように作られた城下街。様々なものが不足する地の建造物は、最低限の機能性を重視し、無機質にならざるを得ない。無駄な装飾や色彩のほとんどない、さながら、砂で作られた都市のようであった。

 百数十年の昔にスリノア建国王に破れ、肥沃な土地を追われたワオフ族の受難は、どこかマリアベルの育った環境に近かった。非常に好戦的な雰囲気を除いては、街のにぎやかさ、住民の素朴さなども、ノックロックに似ている。

 「ようこそ、マリアベル様」

 城門で出迎えたのは、ワオフに駐在するスリノア騎士だ。珍しく、女性であった。

 「ベノル様の奥様がいらっしゃるなんて。歓迎いたしますわ」

 この赤毛の気さくな女騎士と、身の上話やスリノアの近況を話すうちに、式典の時刻がやってきた。案内され、会場に入ると、質素ながら来賓を満足させる食事の席が用意されていた。そうよ、このくらいがちょうどいいのよ、と、マリアベルは、より親近感をもった。汗水垂らして農業に従事する民のことを真に想うならば、余るほどの料理を出すべきではない。王都の人間は、そのあたりの意識が欠けている。ベノルや王も、国民を慈しんでいるには違いないが、彼らと国民の間には距離や隔たりが大きすぎ、マリアベルのような感覚を持ち合わせることは難しいようだった。

 彼女はワオフの女王に、一統治者としての興味も深く抱いた。それは彼女に、一時の勇気を与えた。会場へ入ってからしばらく、まだ見ることのできていなかった一番奥。一段高くなった王族の席へ、マリアベルはようやく、視線を遣った。

 褐色で小顔の美しい女王が、優美に微笑んで座していた。

 ああ、彼女なのね。マリアベルは、早くも後悔した。ベノルが大切に、護るように隣に座らせている女性。強靭な光を湛える黒曜石のような瞳と、果実のような赤い唇。なんと美しく、気高い女性なのだろう。マリアベルは、女王の外見にも気圧されたが、それ以上に、内面から沸き出づるような自立と尊厳へ魅了された。

 自分と彼女に、どうしてこうまで差があろうか。マリアベルは己へ失望を抱いた。しかし、その答えは簡単に出てしまった。彼女と自分では、おそらく、舐めてきた辛酸の数と質が違い過ぎるのだ。彼女が背負ってきたものは、ひとつの民族であり、国。規模が違いすぎる。

 式典はまもなく無礼講となり、立食へと移行した。

 テーブルのそばに立ち、飲み物を持て余しながら、マリアベルはぐずぐずした。時間が限られていると頭では分かっていても、卑屈な意地と恐れが、足に絡み付いて離れない。私は何をしにこんなところへ来たの、と彼女は今更、途方に暮れた。ここへ至るまでにあれほど時間があったというのに、何も考えがまとまらぬままだった。見てしまった女王のあまりの気高さと美しさが、追い討ちをかけていた。

 突然、テーブルの下から、彼女のロングドレスの裾へ何かがぶつかってきた。

 「あら」

 マリアベルが迷わずしゃがんで覗き込むと、垂れるテーブルクロスの更に下から、褐色の幼児が大きな黒い瞳で見上げていた。

 「捕まえて!」

 鋭い女の声。マリアベルは反射的に手を伸ばし、その幼子の腕をつかんだ。状況を察して幼児が暴れ始めた時、二人の男女が駆けつけてきた。

 マリアベルは息を呑んだ。男女は、ワオフの女王と、その夫であった。

 「ありがとう、スリノア大使。礼を言います」

 夫は暴れる幼児の首根っこをつかんで受け取ると、まるで小動物のようにぶら下げた。やんちゃの過ぎる長男に手を焼いている様子が、周囲の笑いを誘うほどにその動作に表れていた。ベノルが子を愛でるのとはまるで正反対の粗暴な手つきに、マリアベルは目を丸くした。しかし、そこには確かな親子の情が通っている。

 ワオフの戦士であったと推測される、引き締まった体で褐色肌のこの男は、初め、研ぎ澄まされた抜き身の刃のような印象をマリアベルに与えた。が、彼が女王へ目を遣ったとたんに、その危険な香りは不思議なほど、なりを潜めた。まるで、両刃の剣が、収まるべき鞘へ戻されたかのようだった。

 「ゆっくり、話すといい。その代わり、終わったらすぐに俺のところへ戻ってこいよ」

 「まだそんなことを言って!」

 女王は明るく笑いながら夫の背を叩き、マリアベルへ向き直った。

 「マリアベル=ライト殿。わざわざ貴女がいらしたということは、私に用があるのでしょう。何か飲み物を持って、そこのテラスへ出ませんこと?」

 マリアベルは、心の準備ができぬまま、ワオフの女王と二人きりになってしまった。

 「彼は、元気?」

 夜風を受けながら、女王は花のような笑顔で問うた。彼女の突然の親しげな口調も相まって、マリアベルは返答に窮し、持て余しているワインを飲んだだけだった。

 「貴女が何を想って、ここへ出席したのかは分からないけれど」

 女王は優美に、余裕のある微笑を見せた。

 「私は今、とても幸せなの。彼にも幸せになってほしいと、心から願います」

 「……彼をそう想うのなら、なぜ離婚を?」

 責めるような口調になってしまった。それを聞き、女王はマリアベルが何も知らないということに気づいたようだった。余裕であった表情が、たちまち崩れる。

 「彼は、貴女に何も話していないの?」

 たまらなく情けなく、マリアベルは思わず涙を浮かべた。そんな彼女へ、女王は「彼はきっと貴女を気遣っているのよ」と言い、静かに、ベノル=ライトとの思い出を語った。

 「スリノアは、ワオフにとって長年の敵だった。でもあの頃、私を含め、愚かでない多くの戦士たちはもう悟っていたの。ワオフの独立は滅亡し、宿敵の傘下へ入らざるを得ないのだと。ワオフの繁栄はスリノアの内乱に始まり、カリスマ的な英雄の帰還により幕を閉じた」

 ワオフは武を尊ぶ民族であった。しかし、彼女の父である先王は戦を嫌い、文政を敷いて成功させた。スリノアも同じ方法で繁栄していた。その時点で、彼女はどこかで諦めていたのだという。古いやり方や時代に固執しても、仕方がない。

 「どのようにその結末を迎え、死に花を咲かせるか。親しい者たちと、そればかり考えて話していたわ。そして五年前、勝ち目のない戦に破れ、私は捕虜としてスリノアへ行った」

 スリノアの英雄は、地下牢で突然、彼女へ求婚したのだという。

 「私は彼を、激しく憎んだわ。死ぬはずだった私を生かし、その上、仇と結婚だなんて」

 翳った漆黒の瞳をマリアベルへ向け、女王は静かに続けた。

 「でも、憎んだのはそのことがあったからではなくて。どうにもならない運命や、自分の無力さに対して、私は常に怒りと憎しみを抱いていたの。彼の優しさに甘えて、ただそれをぶつけていただけ。今思えば、結婚生活の後半、私は彼に惹かれていたわ。女中のアニタに、焼きもちをやいていたんだもの」

 それでも、彼女は強靭な意志でもって憎悪を貫き、復讐を遂げた。

 「互いに絶望だけ胸に別れた。他に何も残らなかったわ。そもそも、彼が私に求めていたものは、私には到底叶えてあげられないものだったのよ」

 マリアベルは、急く気持ちを抑えられずに問うた。

 「それは、なんですの?」

 「故郷よ」

 女王は、悲しげに微笑んだ。

 「なぜかは未だに分からないけれど、彼は私に、失った故郷を見ていたようなの。私が彼を憎しみの対象としたのと、似ているのかもしれないわ」

 女王は、マリアベルの胸に突き刺さる言葉を口にした。彼は、ひとつのものを熱烈に想う人よね。乱暴に言うなら、愛に狂う男。

 「彼の心の底には、いつも、内乱以前のスリノアが横たわっているの。過去には戻れないし、時は流れるのだから、全く同じものが手に入るはずがないのに、彼はそれを求め続けていた」

 「なぜ、そんな……」

 言いながら、マリアベルの脳裏をよぎったのは、長い間そのままに残されていた、ベノルの父の部屋の様子であった。あの部屋の様子は、彼女から一切の言葉を奪った。それは、その空間に、狂気とも言えそうなほどの寂寥が漂っていたせいだった。ベノルはまるで、父がいつまでもそこへ帰らぬのを不思議に思い、なぜだ、と問い続けているかのようであった。死人は決して、蘇らないというのに。

 「貴女は、真の『喪失』を知っているかしら?」

 女王の問いに、マリアベルの背筋が凍った。その言葉と女王の深い声は、真に迫る何かを持っている。マリアベルが気圧されて黙すと、女王は更に言い募った。

 「完全に、なくしてしまったこと。自分の持てる力を全て尽くして、戦って、戦って、運命に逆らい続けて、それでも失ってしまったこと。あるかしら?」

 「……ありません」

 マリアベルは、やっと答えた。

 「そうなりかけた時に、ベノル様が救ってくださったので」

 女王はそれを聞き、含み笑いをした。

 「変わらないわね、そういうヒロイズム。彼は誰かを救うことでしか、満たされないのかもしれないわ。私も結局、彼に救われたの。離縁して一年も経ってから、ね」

 ベノル=ライトが流れの傭兵に扮し、海賊討伐の任に影武者を立ててまでワオフへ彼女を救いに来たことを、女王は明るくはしゃぐように語った。その話と女王の笑顔は、マリアベルを深い奈落の底へと沈めた。卑屈な言葉が、口を突いて出た。

 「そうまでして、彼は貴女を救いたかったのですね」

 「それを言うなら、貴女もそうでしょう。貴女だって、彼に救われた」

 マリアベルの胸に、女王の言葉がすっと落ちた。

 夜風が、彼女らの頬を撫でる。

 スリノア王都で吹く柔らかなそれと異なる、乾いた粗暴な風。

 恵まれぬ痩せたノックロックの地に吹く風に、よく似ている。それは彼女の胸へ、ひとつの想いを抱かせたのだった。


 マリアベルは、ワオフより帰宅してからしばらく、ベノルの様子をうかがった。

 彼は優しく笑んで、彼女を迎えた。そして、疲れただろう、と労った。

 「ジェラールは女中に預けてあり、もう眠ったよ。君の好きな白ワインを、冷やしておいた。一杯だけ、飲まないか」

 やはり、無難な流れ。マリアベルはしかし、苛立ちを覚えることはなかった。彼に合わせて会話し、杯を交わした。

 向かい合わせではなく90度に、テーブルの角を挟んでマリアベルに臨むのも。ワインを注ぐ優雅な振る舞いも。全て、いつも通り。ベノルは涼しげな緑の双眸を彼女へ向け、ハンサムに笑み、知的な言葉を彼女へ与える。全ては、この生糸のような幸福を、守るため。

 大丈夫。マリアベルは自分でも驚くほどに、落ち着いていた。そして、この無難な夜を破滅的にぶち壊すべく、にっこり笑って切り出した。

 「ところで、ベノル様。私がワオフの地で何を見て、どのようなことをしてきのか、なぜお尋ねになりませんの?」

 ベノルはいつものように、曖昧に微笑んだ。

 「では、尋ねようか。ワオフの地は、どうだった?」

 マリアベルは、大げさにため息をついて見せた。ベノルが、困ったように肩をすくめる。

 「どうしたんだ。君らしくない」

 「あなた。私は真剣なのよ」

 笑顔なしにぴしゃりと言うと、緑の双眸が恐れの色を伴って堅く張りつめた。そこへひびを入れるための一撃を、彼女は毅然と告げた。

 「貴方がワオフの話題を避ける態度こそが、私を傷つけているのだということに、いい加減、気づいてくださらない?」

 ベノルは息を呑んだ。

 「マリアベル」

 名を呼んだ彼の瞳は丸裸で、そこには、いつか見た激情が燃えていた。

 しかし、マリアベルはつれなく目をそらし、ワインをあおる。見て確かめずとも、彼が大きく失望したのが感じられた。彼女は勝ち誇るように、唇にだけ、微笑を刻んだ。そして、白い指先でゆったりと、ワイングラスをテーブルへ置いた。

 「ベノル様」

 彼女は挑むように力強く呼んでから、再度、緑の双眸を覗き込んだ。

 「私の願いは、ただひとつです。それを叶えると、約束していただけます?」

 ベノルはやや居住まいを正し、真摯に彼女を見つめた。

 「ああ、もちろんだ」

 情熱を自ら封じ、揺れる緑の瞳。それを真っ直ぐに見据え、マリアベルは告げた。

 「貴方はこの先、何があろうとも、仕事を投げ出さないでください。スリノア騎士団長として、常に職務にお勤めください」

 ベノルは、今度は困惑して双眸を歪めた。彼はマリアベルに弄ばれるがままに、甘く激しい動揺を繰り返していた。

 「どういう意味だ?」

 「分からなくても、いいのです」

 これまでとは打って変わって、マリアベルは、細く弱い声で懇願した。

 「それだけが、今の私のたったひとつの望みなのです……たとえ何があっても役職を全うすると、約束して。お願いです。そうでなければ私、二度と貴方に笑ってあげられないかもしれません」

 濡れたように輝く、マリアベルの碧眼。

 ベノルはそれに、容易く堕ちてしまいそうになった。しかし、彼女へ真摯に向き合いたいとの想いが、わずかな冷静さをもたらした。彼は厳しい表情でマリアベルを見つめ返したが、やがて、重く苦い息とともに答えを吐き出した。

 「君やジェラールの身に何か起きてしまったときには、おそらく、できない」

 マリアベルは、つと立ち上がった。

 足早に、夫婦の寝室ではなく自室へ向かう彼女を、ベノルは青ざめて追う。

 「待ってくれ、マリアベル!」

 彼は堅い表情の妻の前へ素早く回り込み、降参だとばかりに両手を上げた。

 「わかった。約束する。君の笑顔を失うなど、耐えられない。何があろうとも、私はスリノア騎士団長として行動し、職務を全うする。誓うよ。だから」

 腕を下ろしたベノルは、触れるもの全てを溶かさんばかりの熱い眼差しでマリアベルを捉えた。そして、意を決するかのように告白した。

 「今夜、どうか、そばにいてくれないか」

 彼が何を確かめようとしているのか、マリアベルは理解した。だからこそ、彼女は冷酷にそれを裏切った。彼女はいつもそうしてきたのと寸分違わぬ素振りで、彼から、目を、そらした。

 ベノルが深く、深く失望した。それは、大波が打ち寄せるがごとく彼女の全身に伝わってきた。絶望に限りなく近いその気配を存分に受け止めてから、マリアベルは再度、彼を裏切った。彼の広い胸へと、自ら飛び込んだのだ。

 「貴方の腕の中で、眠りたい……」

 小さな、しかし艶のある彼女の声に、ベノルの身が震えた。

 彼はその夜、これまでにないほど、長く激しく、彼女を愛した。

 その最中、彼はマリアベルと見つめ合うことを何度も望んだ。が、彼女は頑としてそこへ一線を引いた。彼はその度に傷ついたように嘆息しつつも、彼女の耳へ切にこうささやいた。多くを望まないから、ずっとそばに居てほしい。ずっと。

 もちろんです、と、マリアベルは目を閉じたまま応えた。


 マリアベル=ライトが何者かに誘拐されたのは、それから約一ヶ月後のことである。

 その報せを聞いた時、英雄は、これまでのどんな危機的状況下よりも蒼白になったという。


第五章へ続く


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