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第四章  情熱の詩 (2)−1

(2)ー1


 思い返すたび、マリアベルの胸を締め付ける出来事がある。


 スリノア王と話をする、半年ばかり前のことである。東のとある領主の館へ、ライト夫妻が招待された。領主の次男の婚礼と披露宴、そして夜には立食の社交パーティーがひらかれるとのことであった。

 ベノル=ライトは、この領主と旧知の仲であった。内乱以前に、彼の父ライナスと友人として固い絆で結ばれていた領主。そんな彼を、ベノルは奪還軍を率いて国境を越えた後、迷わず真っ先に頼ったのである。この地方で採れる良質な鉄は、多くの優れた武具を産んでいた。奪還軍はその援助を受けたが故に、その後の戦を有利に進められたのである。

 武器の輩出に豊かさを約束されたこの地の婚礼は、豪華絢爛を極めた。前日の夕方に館へ入ったばかりのマリアベルは、退屈する間もなく、ベノルと共に午前の婚礼と午後の披露宴に出席。知り合いもあまりおらず、慣れない贅沢に疲れ切った彼女は、夜のパーティーまでの空いた時間に、館の静かな庭を散策した。しばらく一人でいたい、と思った。

 噴水はもちろんのこと、この庭は水辺を意識して造られており、池や水の流れが多く見られた。当然、植えられている花も、水辺や湿地を好むものが多い。王都付近は湖が多く、こうした花を至る所で見られるものだが、この東の地は、比較的乾いた固い土壌が広がっているため、どちらかと言えば力強い樹木が目を引く。領主は王都を恋しく思い、巨額の富を費やして、この水辺の庭を作らせたとのことであった。マリアベルにとって、決して愉快なものではなかったが、不審に思われずに一人の時間を過ごすには、こうして庭を散策するのが一番なのであった。

 マリアベルはふと、白と紫の見事なグラデーションの前で、足を止めた。

 鏡面のような美しい池の周りに、群生する花であった。水の中からたくましく上がる茎や葉の、生き生きとした緑。絹のハンカチーフでこしらえたような、ふわりと広がる花びら。

 杜若(かきつばた)という花だと、マリアベルは知っていた。花言葉は……。浮かない顔で、それを眺める。

 「『幸福は必ずやってくる』」

 胸の内を当てられたような静かな声は、遠くの背後からであった。水のせせらぎしかないこの庭で、それはしっかりとマリアベルの耳に届いた。

 ベノルの声ではない。どきりとして振り返ると、細い水の流れを挟んだ向こうに、どこか浮世離れした華奢な男が立っていた。ゆったりとしたローブを着込んだ、明るい茶髪の彼は、マリアベルに懐かしい微笑を見せていた。

 「フィン!」

 マリアベルの顔が、周囲の花より色づき、輝いた。

 フィン=ティレットというこの男は、彼女が18歳からの二年間、王都で学生生活を送った際に仲の良かった、同学年の学生であった。文学を好んだ彼女の良き話し相手であり、理解者であり、一時は淡い気持ちを抱いた相手でもある。

 「驚いたわ! こんなところで再会できるなんて」

 小川を飛び越え、駆け寄ってきたマリアベルを、フィンは物静かな微笑で包むように迎える。全く変わらぬその表情に、涙さえこみ上げた。マリアベルにとって、王都での生活は青春そのものであったのだ。当時はクーデター政権の圧政下であったが、学校だけは独立めいた気運に満ちており、特権的に自由を得ていた。

 「君が来ているのは、知っていたんだけれど」

 フィンは男にしては高い、透き通った声音をしている。話し方や物腰の柔らかさは、謎めいていて儚い。その彼の胸に、可憐な薄紫の花が連なる小さな枝が差されていることに、マリアベルは気づいていた。が、それよりも互いの近況を語り、空白を埋めることに夢中になった。

 「僕は婚礼や披露宴には出られない身分だし、多忙なライト夫人に、なかなか声をかける隙を見つけられなくてね」

 「誰かに言伝を頼めば良かったのよ。そうしたら、ゆっくり話ができたかもしれないのに。私、これからパーティーだし、明日の朝には慌しく王都へ出発しなければならないの!」

 「パーティーにも出るんだ。大忙しだね」

 フィンは掴み所なく微笑する。どこか憂いを含んだそれに、十代のマリアベルは魅せられたものだった。

 「僕も、パーティーは出席するよ。初夜を迎える前の新郎新婦の様子を、詩で美しく詠い上げるためにね」

 「フィン。あなたってば、夢を叶えたのね!」

 領主お抱えの詩人など、そうありつける職ではない。マリアベルは男の痩せた華奢な手をとり、跳んで喜んだ。彼女の豊かなブロンドが、合わせて揺れた。

 「やっぱり、あなた才能あったもの!」

 「ありがとう。君も、ただでは終わらない女性だとは思っていたけれど。まさかライト夫人として再会するだなんて、さすがに僕でも思い描けなかったよ」

 「ねぇ、時間の許す限りあなたと話していたいわ。住まいはどこなの?」

 今宵のパーティーのため、詩人には館に部屋が用意されたとのことであった。そこは偶然にも、マリアベルが泊まる部屋の隣であることが分かった。

 「良かった! すぐに着替えてあなたの部屋に行くわ。そうすれば、パーティーの時間ぎりぎりまで一緒に過ごせるでしょう」

 フィンは静かに、いとおしむように、微苦笑した。

 「マリー。君はあの頃のままだね。苦しくなるくらいだ」

 「何言ってるのよ。あなただって昔のままだわ。さぁ、ぐずぐずしていると時間がもったいないわ、行きましょう」

 「ライト夫人」

 なおも浮かぶ微苦笑は、諭すように柔らかい。

 「卑しい身分の男の部屋へ、みだりに出入りするものではございません」

 マリアベルは、衝撃に打たれた。旧友の言葉は、過ぎた恭しさで、二人の間の隔たりをあからさまに表現してみせていた。

 何か言おうと、言わねばならないと思うのだが、全く言葉が浮かばない。尊い思い出を引き裂かれてしまった哀しみだけが、彼女へ重くのしかかった。

 そのとき、ちょうど庭の出入り口方面から、足音が聞こえてきた。二人の話し声を辿るようにして来たのだろう。彼女の夫ベノル=ライトが、バラの垣根の先から姿を現した。

 「マリアベル、こんなところにいたのか」

 ベノルの登場で、マリアベルはなおさら、夢から醒めてしまったような白けた気持ちになった。美しく整備され抜かれたこの庭園に、貴公子ベノルの姿はあまりに似つかわしくて、それはマリアベルにいらぬ反感を抱かせた。

 たちまち表情を曇らせたマリアベルを案ずるように、フィンは前へ出て、国の英雄に恭しく礼をした。名乗って自身を説明する旧友の言葉はどこか卑屈で、それはマリアベルをより不愉快にした。また、二人の男を同じ視界に映すことは、彼女の胸へ小さな不安を抱かせた。長身で肩幅が広く、鍛えられた体のベノルのそばにあると、詩人の今にも儚く消えてしまいそうな印象が際立つのだった。

 ベノルは短く名乗り返すと、すぐに妻を見やった。彼はマリアベルへ向かうときはいつも、気遣うように、微笑んでみせる。

 「パーティーの準備がまだだろう。女中が心配し、待ちわびているよ」

 マリアベルは旧友へ視線を送ったが、諭すように静かに微苦笑されただけであった。

 妻が押し黙るのを見て、ベノルは「さぁ」と彼女の腕をとった。その動きはあくまで紳士的だったにも関わらず、マリアベルは自分が強引にさらわれて行くように感じた。

 「また、パーティーでね」

 マリアベルは、すがるように、旧友へそう言い残した。

 庭の出入り口には、乾いた土壌に多くの樹木が植えられている。そこまで無言で歩いていたベノルが、ふと、薄紫の可憐な花を咲かせる木の前で立ち止まった。甘い香りが漂っている。

 「ライラックの花言葉は、何だったかな」

 目の高さのそれを指で愛でながら、彼は独り言のように問うた。

 マリアベルは、フィンの胸にそれが差されていたことを、ぼんやりと思い返した。

 「……『若き日の思い出』」

 花に目を向けたままつぶやくように応えた彼女を、ベノルはしばし見つめた。しかし、何も言わずにまた歩み始める。

 ライラックのもうひとつの花言葉を、ベノルは知っているようだった。それを察したからこそ、マリアベルは頑なに黙したのだった。





今回、初めてひとつのエピソードをふたつに分けてみました。

次に続きます。

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