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第四章  情熱の詩 (1)

第四章 情熱のうた


(1)


 やがてマリアベルは、彼女の望み通り男の子を授かり、無事に出産。ライト家の跡取りは、ジェラールと名づけられた。

 ベノルは歓喜し、息子を溺愛した。現スリノア王の父親代わりを自称し、子供にはほどよい距離をもって接するのがよいのだと涼しく語っていた彼であったが、自身の赤子には時間の許す限り張り付いて離れようとしなかった。来客は皆、英雄もまた人の子であるのだな、と笑った。ライト家の使用人たちは、そんな主を微笑ましく見守り、同時に、大切な跡取りである赤子を例外なく愛した。ライト邸は、温かな幸福に包まれていた。

 マリアベルも、息子を愛しく思うには違いなかった。しかし、その世話と並行しながら、彼女は仕事にも手を抜かなかった。女中に赤子を預けて朝早くに出立し、ベノルより遅く帰ることもあった。彼女のあまりの多忙さを、ベノルも使用人たちも咎めるほどだった。

 それでも、マリアベルは、あえて身を忙しくした。

 この頃には、彼女は気づいてしまっていたのである。

 ベノルの中に確固たる地位を占める、特別な女の存在に。


 スリノア王がライト邸へ来るというので、その夜はジェラールを女中に預け、ライト夫妻は時間を空けていた。息子は一歳半まで成長し、すくすくと育っていた。

 「思えば、君とゆっくり話すことさえ、久しぶりだな」

 ベノルは、相変わらずハンサムに、優しく笑う。避けられているとわかっているくせに、とマリアベルは胸中で毒づくも、にっこりと微笑み返す。

 「そうですわね。ジェラールは、ぐずっていないかしら」

 無難な会話。うんざりだわ、と彼女はベノルから目をそらす。うんざりしつつも、この無難さを守らねばならない。細く長く続く、矛盾の暮らし。どうにかなってしまいそうだった。

 そうしているうちに、外が騒がしくなり、ラフな服装の王が現れた。

 「カノンも連れてきたかったのだが、体調があまり良くないので、置いてきた。マリアベル、まともに話すのは初めてだな。ようやく実現できた」

 ライト夫妻と王は、応接セットに掛けて向かい合い、ワインと談笑を楽しんだ。スリノア王は二十歳になり、ますます精悍な顔つきになっていた。もはや誰が見ても、立派な君主のていである。

 マリアベルは、ふと、故郷の弟を想った。息子の顔を見せに一度実家へ戻ったのは、もう一年以上も前だ。

 ノックロックは、特に問題なく運営されているようだった。しかし、父が病気で腰を悪くし、家を出られなくなった今、一人で切り盛りするのは何かと大変であろう。

 ベノルと王の兄弟のような仲睦まじさが、寂寥と不安の念をさらに後押しする。ジュードのことが、頭から離れなくなってしまった。未だに、昔のように屈託なく接してくれることのない、彼女のただ一人の弟。仲直りするきっかけを探しているであろうことは明白なのだが、彼女が実家へ戻るときにはいつも、ベノルが傍らにいる。身重になってから以降、ベノルの妻への気遣いは輪をかけるようになっており、私は国宝ですかと問いたくなるくらいの扱いに、マリアベル本人が閉口するほどであった。弟はその様子を含めた全てを、おもしろく思わないようだった。ベノルは息子に夢中のあまり、あまり察していないようであったが。

 ベノルに名を呼ばれ、彼女は、はっとした。王の眼前に居ながら、遠くへ想いを遣っていた非礼に気づく。慌ててワインのグラスを口に運び、王へにっこりと微笑んで見せた。

 「失礼いたしました。陛下のご様子から、故郷の弟のことを思い出してしまいましたの」

 とたん、王は黒い瞳を輝かせた。本人にそのような意図はなさそうだが、彼の微笑はどこか、ひねくれた含みを感じさせる。ニヤリ、とでも表現すべきか。

 「そういえば、弟がいるのだったな。私と歳が近かったはずだ」

 「はい。陛下のひとつ年下で、ジュードという名でございます。口癖は、『姉上』」

 ベノルが、はは、と笑う。王はいよいよ、ニヤリとした。

 「私も幼い頃、口癖のようにベノルの名を呼んでいたものだ。それで、彼は今、どうしているのだ?」

 「ノックロックの領主ですわ。賢い子ですのよ。立派に務めているはずです」

 王は、ふむ、と満足げに笑んだ。彼が何かを言いかけた時、扉がノックされ、女中が現れた。

 「ジェラール様が、泣き止まなくて……」

 ベノルがさっと立ち上がり、「行ってくるよ」と部屋を出た。

 「ちょうどいい。マリアベル、貴女と二人で話をしてみたかった」

 王はほろ酔いであったが、突如、真剣な眼差しでマリアベルに向かった。王者のもつ迫力に、マリアベルは一瞬、気後れしてしまう。それを悟ったのか、王は眼差しを幾分和らげてから語った。

 「時間が限られているので、率直に話すが許せ。ベノルは貴女と結婚してから、ずいぶん明るくなった。内乱以来、彼は大きな声で笑うことがなかったのだ。それが今では、顔を上げ、口を開けて笑っている。貴女の力だ。友人として礼を言う」

 マリアベルは、驚いた。そんな変化があったとは。

 「だが、不安もある。貴女は、今夜の様子を見る限り、あまり幸せそうではない。私は、これからもベノルを頼む、と言いたい。しかし、言えない。この心情を、わかってもらえるだろうか」

 弟と歳の変わらぬ青年の、短くも情の溢れた言葉に、マリアベルは思わず、涙を浮かべた。

 胸が、張り裂けそうなほどの痛み。ふとした瞬間、ベノルは自分以外の女を想っている。大切に大切に、彼のソファの隣に、座らせている。それだけで、彼女がいるだけで、彼は満たされたように、芯から穏やかに微笑むのだ。そして、マリアベルがそこへ踏み込む前に、彼は冷静に沈着に、彼女の痕跡を消し去る。そして、いつものように優しく微笑み、マリアベルを紳士的に座らせるのだ。つい今まで別の女がいた、その場所へ。

 なんて残酷なの、とマリアベルは彼に憎しみすら抱く。しかし、その憎しみがなぜ胸に芽生えるのか、認めたくなかった。認めてしまえば、歯止めがきかなくなる。今、この時のように、涙が止まらなくなる。

 「陛下」

 マリアベルは、プライドをかき集め、涙をぬぐった。

 「私は、彼がノックロックを救ってくださっただけで、すでに幸福でございますのよ」

 努めて明るく、微笑してみせる。

 「スリノアが誇る英雄の妻が、不幸であるはずがございませんでしょう?」

 王は、困り顔で口をとがらせた。

 「まったく、大人は嘘ばかりだ」

 彼自身、もう大人であるのだが、普段ベノルに子供扱いされるが故に、こうした言葉が出てしまうらしかった。王は最後に、ベノルが戻るのを警戒してか、小さく早口にこう言った。

 「何か私を頼りたくなったら、ベノルを通さずとも私に直接言うといい」

 マリアベルは、笑顔で礼を言った。彼女もベノルが戻るのを警戒し、少し慌てていた。

 彼が戻ってくる前に、涙の痕跡を消し去らなければ。そうでなければ、対等でいられない。


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