第三章 与えられた仕事とは (3)
(3)
「ベノル。先に言っておくが、私はもう齢17になり、一児の父でもある」
スリノア王は、王宮にあるベノルの執務室で、入室するなり胸を張った。
「はい。存じております」
王の発言の意図がわからず、ベノルはただ受動的に応えた。彼は、愛用の事務机に向かったままである。立ち上がらずに王を迎える非礼は、彼だけに許された「友人」としての特権であった。
「ならば、私の質問をはぐらかすようなことはしないであろうな?」
青年は、ニヤリとして、机に腰を上げた。部屋には二人だけだというのに、耳打ちするかのように、顔を寄せる。
「新妻との初夜は、どうだった?」
「陛下。大人をからかうのは、およしください」
狼狽を微塵も見せることなく、涼しく受け流すベノル。王は、不服そうに口をとがらせた。
「私は一児の父であるぞ。言うなれば、おまえより先を行っている。それでもなお、子ども扱いするつもりか」
「どんなに歳を取ろうとも、私はあなたを子ども扱いしてしまうのでしょうな」
「何を悟ったようなことを」
ふてくされているようで、王はこのところ上機嫌極まりない。マリアベルを、気に入っているのだ。その証拠に、二言目にはこう言う。
「ともかく、めでたいことだ。美しく聡明な、芯の強い女。おまえに似つかわしい」
「ありがとうございます。私には、もったいないくらいです」
「スリノアの英雄が、何を言う。近々、カノンを連れておまえの部屋へ遊びに行こうと思うぞ」
「歓迎いたしますが、しばらく間を置いてからではないと、彼女は目を回しそうです。田舎で穏やかに暮らしていたので、中央の雰囲気に慣れていないようなのです」
「ふむ。そういったふうには見えぬが。しかし、体には気をつけてもらわねばな。彼女には山ほど頼みたい仕事がある。まずは、早急にライト家の後継ぎを産んでもらいたいものだ。その後、害虫駆除に協力してもらう。不正を滅しようとする想いは、人一倍強いであろうからな」
王はここにきて、また耳打ちするように顔を寄せた。
「そういえば、おまえがなぜ彼女を選んだのか、聞いていなかったな」
ベノルは苦笑して、机に乗ったままの王を見上げた。我が子のような、弟のような彼の君主は、この二年で容貌が急に大人びたように感じられた。背が伸びたことも要因のひとつだが、それよりも、変化したのは顔つきだ。少年から、まさしく一人の男となったようにベノルには見えていた。妻をもち、子をなすということの重みを、彼はこの王を通じて学んだように思った。
「陛下。モディール卿の故事をご存知ですか?」
「名前しか知らん」
「建国王の頃の、賢臣の一人です」
おまえの妻の話はどこへいった、という顔の王を、ベノルは微笑でなだめて続きを語った。
「建国王は即位して間もない頃、鉄の取れる東の土地を欲していました。国民を守るための武器を作る材料も技術も、当時のスリノアには欠けておりました故。しかし、建国王の育った集落と東を制していた部族の間には、古くからの盟約がありました。簡単に言うと、相互不可侵の盟約です」
大まかにではあるが国の歴史を知る現スリノア王は、やや目を瞠った。しかし、自ら何かを述べようとすることはなく、ベノルの言葉を引き出そうと待つ。
英雄は含み笑いをし、続けた。
「今でこそ、和議や条約などの手段が国際的にも主流となってきておりますが、昔、この地は群雄割拠で、厳しい武の時代でした。国を守り豊かにするには、滅ぼすか滅ぼされるかの、まさに弱肉強食の世だったのです。そのような世で、先祖により誇りをもって交わされた盟約を廃し、その部族を侵略しようとすることは、国を豊かにするためとはいえ、建国王を苦悩させました。迷いに暮れ、建国王は戦に踏み切れぬまま、時を過ごしました」
そんなある日、王宮で建国王が永く愛用していた高価な皿を、モディールが割った。それが意図的かどうかは定かではないが、激怒する王に、彼はこう言ったという。確かに割れた皿は高価でしたが、これで王は次の皿を選ぶことができます、より高価で優れた皿を手に入れる、またとないチャンスです。
「建国王は、彼が何の話をしているのか、理解しました。そして、盟約を破棄し、領土を拡大したのです。今、スリノアの繁栄を底で支えるのは、東で取れる鉄であることを、陛下もご存知でしょう」
「ふむ。よく分かった。分かったのだが」
王は憮然としている。
「おまえの結婚話と、どう結びつくというのだ」
ベノルは、涼しく笑んで、いよいよ自身のことを語った。
「十七年前、陛下が世に誕生された時のことです。華やかな祝いの式典や、祭りが開かれました。その中で、各領主の子供たちを集め、セレモニーを行う企画がありました。私はまだ14でしたが、先王の計らいによって、その企画の指揮をとっていました」
その準備の最終段階で、ベノルは誤って、王妃が永く愛してやまなかった壺を割ってしまったのである。それも、王妃の目前で。
凍りつく場で、子供たちの中からひとつ、愛らしい笑い声が上がった。
「まるで、モディール卿みたい」
マリアベルであった。
「王妃様、左近は神話の描かれた白い磁気が流行と聞きますわ。これでようやく、買い換えることができますわね」
わずか9歳の子の機知に、王妃は怒りを忘れ、微笑んだのである。
「知性ある者は感服し、無知な者は場に合わせて笑うしかありませんでした。私はあとでこっそりと礼を言おうとしたのですが、機会に恵まれず、その後、彼女に会うこともなかったのです」
「なるほど。恩返しという言葉をおまえが使う理由が、ようやくわかった」
王は神妙な面持ちでうなずいたものの、次にはやはり憮然とする。
「だが、それほど昔の出来事が決め手であったというわけではあるまい」
「ハイボン家の謀略の問題を話すうち、彼女の魅力を再認識するに至ったのですよ」
「その後、十七年間、彼女に会っていなかったのだろう。まさか9歳の幼女を思い返して恋に落ちたわけではあるまいな。変態と呼ぶぞ」
「女性というものは9歳にもなれば、その後どれほど美しくなるかを容易に思い描かせるものです」
「ベノル」
青年に半眼で睨まれ、ベノルは観念したように苦笑した。
「彼女は、幸福の女神なのです」
「……ようやく本音を言うのかと思えば」
「陛下、私は真摯に話をしております」
王が怪訝そうに眉を寄せるのを見て、ベノルは机の引き出しから一冊の書物を取り出した。あちこちが痛み、黒ずんだその様から、相当に古いものであると推測された。
「この本は、古代語で書かれたものです。私の読みでは、五百年以上前のものかと。今のスリノアの領土と、北の大国の辺りにまつわる伝承が記載されております。ここに」
ベノルは慎重な手つきで、とあるページを開いて見せた。古代語を真面目に勉強していない王にとっては、訳の分からぬ記号が並ぶだけであったので、口を挟まずベノルの話の続きを聞く。
「幸福の女神が現れる場所についての記述があるのです。内容から、現在のノックロック領にある遺跡のひとつを指しているとしか考えられません。そして、私が学校で学んでいたときに聞いた話では、ノックロックの領主の家の女性には、代々、魔法のような不思議な力をもつ家宝が受け継がれるというのです。その家宝は、幸福の象徴であると」
「ベノル」
王は耐えられなくなり、失望すら漂わせる声でさえぎった。
「何か、辛いことでもあったのか。私で良ければ、話を聞くぞ」
あまりに深刻な王の表情を受け、ベノルは声を上げて笑い出してしまった。
王は、驚いて目を瞠る。ベノル=ライトのこんなにも屈託のない笑顔を見たのは、いつ以来であろうか。
「陛下。幸福になりたいと願う気持ちは、誰もが強く持つものでしょう。私が同じようにそう願ったとて、特別、何かおかしなことでもございますか?」
「そういうわけではない」
青年はばつが悪そうに、口を尖らせる。
「合理主義のおまえが、女神だの魔法だのと夢見がちなことを言うのが、意外であっただけだ」
「魔法は夢ではなく、現実でございます。陛下もあの戦で、ご覧になられたでしょう」
彼らは祖国を取り戻す戦の際に、一時、魔法使いを行軍に加えたことがあった。空間に歪が生まれたかのような得体の知れぬ力が操られるのは、その魔法使いが彼らの味方であったにも関わらず、底知れぬ恐怖を呼んだものだった。
「私が言いたいのは」
王は強引に話を戻したものの、続きを述べるのに少し躊躇した。
「……彼女を選んだのがそんな理由では、まるで、ノックロックの女であれば誰でも良かったように聞こえてしまうぞ」
「その通りでございます」
非難と軽蔑の眼差しを微笑で涼しく受け流し、ベノルは諭すように語った。
「陛下。私は、結婚に愛を求めるのは諦めようと決めたのです。多くの貴族や騎士がそうするように、決められた相手と、穏やかに家庭を築き、情を育んでいこうと。では、決められた相手のいなかった私はどうしたのかと言えば、夢見がちに神秘に賭け、少年の頃の恩返しができそうな女性を選んだ、ということなのです。9歳であの機知を持ちえた女性ですし、領地での善政はよく噂で耳にしておりました。陛下のように、初めはそれほど愛がなくとも、知るうちに深く愛するようになるかもしれないと。そう考えたのです」
腑に落ちぬ、と言おうしていた王であったが、自身のことを持ち出されては納得せざるを得ない。仕方なく、こう尋ねた。
「なるほど。それで、どうだ。彼女を愛することが、できそうか?」
「できるも何も、私はすでに彼女を愛しております」
ベノルは、大人の余裕を見せつけるように、穏やかに告げた。
「マリアベルは、素晴らしい女性です。すでに幸福の女神は、私に微笑んでくれているのでしょう。彼女が笑顔で温かく、私の帰りを迎えてくれさえすれば、これ以上望むことなどありません。私は幸福な男です」
その言葉と微笑だけでは、王は安堵できない。青年になった王には、すでに、ベノル=ライトを呪って離さない何かの存在を、おぼろげながらに捉えることができていた。
彼女の明るさと才知が、どうかこの男の暗闇を取り去ってはくれぬものか。
この英雄は論理明快なようで、実は非常にややこしい。それを知る王は、長年の友人へくるりと背を向け、腕組みして思案にふけるのだった。