第一章 喪失の予感 (1)
このお話は、「森と湖の国の物語」の第四部(完結編)という位置づけです。
前三作をお読みいただいていなくても楽しんでいただけるようなお話にしていくつもりですので、この第四部からお読みいただいてもまったく構いません。もし主要な登場人物たちのこれまでの経歴に興味をお持ちいただいたなら、ぜひ前三にも目を通してみてください。
初心者ですので、どんなことでもご評価、ご感想いただきたいです。
よろしくお願いいたします。
辺境の才女編
第一章 喪失の予感
(1)
星暦946年。
緑と湖の国スリノアは、後100年に渡るであろう栄華を確立させていた。
長く泥沼の諍いを続けてきたワオフ族との、和解。緊張緩和による、メルー国との貿易。城下は毎日のように市で賑わい、スリノアが誇る木製品をはじめ、上質の絹織物や海産物が、人々の目を引いた。大陸の行事の多くがスリノアで催されるようになり、王都は北の大国をも凌ぐような、大陸の中心地となりつつあった。
経済的恩恵は、各地の領主へと行き渡った。有能な騎士団によって警備隊が組織され、僻地の治安の向上も成された。商人や旅人は安心してスリノアを行き交い、物流が促進された。
こうして、スリノア全土が、好景気と周辺の羨望に高ぶっている。
……はずであった。
「姉上、姉上」
白を基調とした質素なその部屋へ、切羽詰った声が飛び込んできた。声の主は、十六の少年である。白く細い面にはまだあどけなさが残り、服装はお世辞にも高貴とは言えない。が、これでも彼は、スリノア領主ノックロック家の跡取りである。名は、ジュードという。
「あと30秒待って」
鋭く制したのは、部屋の主である。ブロンドの豊かな髪を、きつく後ろで縛り上げている若い女性。肌は透き通るように白く、面立ちには知性が溢れている。素材としては間違いなく、美しい部類に入るだろう。惜しむべくはそれが全く磨かれていないことだ。若い女性の化粧気のなさは、どこか頑固な意地を感じさせるものだが、彼女の場合は単純に、頓着せぬだけのことであった。身を包む衣服も、この昼下がりに部屋着のままだ。
今、その彼女は机にかじりつき、怒涛の勢いで紙にペンを走らせている。脳は同じく怒涛の勢いで、領地運営に関する収支計算を弾き出していた。
少年は、戸口で固まったまま、30秒を待った。指示を守らねば肝を冷やすことになると、賢い彼は知っていた。
やがて女は大きく息をつき、ペンを投げ出すように置いた。ばたりと机に伏し、薄青の瞳だけ弟へと向ける。
「なあに、ジュード」
相手がどう受け取るのかさえ頓着せぬ、投げやりな声。少年はつい余計な一言をもらした。
「姉上、明らかに30秒以上待ちましたが」
「屁理屈を言いに来たの?」
姉の目がぎらりと苛立ちに光る。ジュードは慌てて、弁解した。
「違います。二つ、報せがあるのです。悪い報せが、二つ」
机に伏したまま、女は無気力に目を閉じた。
「なによ、それは。普通はいい報せと悪い報せの二つでしょう」
「残念ながら、少し悪い報せと、かなり悪い報せの二つです」
「だったらどちらからでもいいわ。聞かせて」
彼女は億劫そうに机から体を上げ、書類を整理し始めながら弟へ話を促した。白く細い指先は無駄なくてきぱきと、紙の束を片付けていく。
「はい。では、少し悪い報せから。明日の早い時間に、テオが姉上に会いに来るそうです」
「来なくていいわ」
「本人に言ってください」
いちいち困ったように口をへの字にしながら、ジュードは話を進めていく。
「かなり悪い報せの方は、心の準備が必要ですよ」
「いつでもどうぞ」
つまらなさそうに、彼女は言い捨てる。
「悪い報せには、いい加減慣れているもの」
「そうですか。では。……つい先ほど、王宮の監査から、警告状が届きました」
ジュードは心細そうに、手の中の文へ視線を落とした。
「年間の収支をごまかしている疑いがあると、書いてあります。これが、その警告状です」
彼はようやく入室し、姉の机へ近づく。
あまりのことに声も出せないまま、彼女は弟の手から書面をむしり取った。
「な、な、何よ、何よこれは!」
「警告状です」
「そんなことは聞いてないわよ!」
いつものことだが、理不尽に怒鳴られてしまったジュードは、
「姉上。全然、心の準備ができていないじゃありませんか」
そう言って肩をすくめ、端整な眉を下げた。