Does this smoke connect this life to the other life?: But harsh mistresses have no answer for him.
数秒前までアルバルクが存在していた座標には、巨躯が跡形もなく消え去り、猛獣の噛み跡に似た爪痕だけが床面に名残りとしてこびりついていた。右に巨腕を備えた鬼導妖魔は袈裟に付着した埃を自ら巻き上げたにも関わらず、煩わしげに払い除ける。青白い二つの月が灯す光が魔科学の一つの極北を照らし、禍々しくも荘厳な絵図を描いた。
『…………』
黒銀は消滅した婁のいた場所を見つめている。報復の炎は無聊の慰めを得て緩やかになるどころか、なおも胸にくすぶっている。涯たして、あの男を殺すことが己におってどれほどの価値があったのか。侵食されていく己を掛け金にするほどの価値が、婁にあったのか。
悪魔への贄とは、悪魔にとっての価値と捧げる者にとっての価値が重要である。
鰯の頭も信心からという言葉があるが、代償を支払う者にとってそれが値千金に勝るモノであるならば、それは贄として覿面な効果を及ぼす。確かに婁と彼の鬼導妖魔・アルバルクは共喰いを躊躇せぬ悪魔にとっては、味はともかく素晴らしい滋養を備えているのは間違いない。
だが、一人を地獄に落とした今、黒銀の心に去来するのは、留まることを知らぬ闇だ。
『李、まずは一人だ。お前の魂がこれで少しは癒やされればいいが……』
贓物めいた機器に囲まれた黒銀は右腕に巻きつけたドッグタグの一つに語りかける。ドッグタグは何も返してくれない。当然だ。既に持ち主である李は逝ってしまった後だ。死者は何も語らない。悲哀の呻吟も、憎悪のうめきも、歓喜の騒ぎも、怒りの叫びも、なにもかもだ。それは、悪魔が現世に干渉している2122年現在でも変わらず、蘇りはおろか死者との通信すらも否定されている。
『ぅ――ッ』
集中すべき心が少しばかり離れた瞬間、悪魔は忍び寄る。失くした右腕の切断面が熱く《《燃え》》、紫幹色金の肥大した右腕の挙動が黒銀の制御から離れた。
『静まれッ! ぐっ、姫。貴様……』
〝味はやはり今ひとつであったが、なかなかに栄養があったようだぞ。妾もかなり力をつけられたぞ?〟
悪魔に直接右腕を支払った代償。呪具の無い黒銀の場合、高い融合係数を叩き出せる反面、悪魔の暴走の可能性も孕んでいる。その危険性が今、牙を剥いて操者を襲っているのだ。
暴れ馬となった鬼導妖魔はメルトダウンと呼ばれる現象を引き起こす。過去、メルトダウンによって崩壊した武漢は、その後の魔咒汚染によって完全に閉鎖されてた。現在の武漢の内状を知る者は少なく、異界化しているという都市伝説がまことしやかに囁かれている。現在、様々な地方に拡散している、地球の進化の系統樹に存在しない生物も、真偽の程は定かではないが、もとは武漢から発生したともいわれていた。
『沈まれと言っている、だろうが!』
奇怪な動きを見せる右腕は黒銀の声など聞いてはいない。むしろ、閉ざされた穴から解き放たれようとしている獣が如くに、力の限りに暴れまわっている。別の意思で蠢く指が床面を見つけ、爪を立て、紫幹色金の肩から抜け出ようと藻掻く。
――まずい。
メルトダウンの危険性が加速度的に上がっていく。メルトダウンが発生すれば、ことは白京だけにとどまらず、央華民国全土に影響を及ぼす。
右腕を除く三肢は、動く。踏ん張って、暴走する右腕を必死に留める。
〝ええい! 黒銀よ、邪魔立てするでない!〟
やはり、悪魔は悪魔だ。何故、メルトダウンという現象が発生するのかは、魔科学が発展しつつあるとはいえ、謎に包まれている。しかし、鬼導妖魔の中にいる悪魔はメルトダウンを望んでいるらしい。
『――――――――――』
黒銀は口中で呪文を唱え、紫幹色金の動きを封じる。無論、鬼導妖魔内部からとはいえ、人ひとりの呪術など本来ならば何ほどの束縛にもならぬ。だが、彼に応じた、紫幹色金を飾っていた神符の文字が光を灯す。破魔の呪法に反応した紙札が黒銀の呪力を数十数百倍にまで増幅し、模造悪魔を雁字搦めにしていく。
〝やめよやめよ!〟
更に、左手で鎖を掴み、右腕を締め上げにかかる。悪魔祓いの祝福がなされた鎖は、悪魔は灼熱に灼けたそれに感じるという。縛鎖で絡み取られた右腕は床面に磔られ、そして。
〝やめてたもれ! やめてたもれ! ああああっ!〟
悲痛な叫びをもたらしたのは、掌に突き刺さったドウジギリだった。問答無用に悪鬼を覆滅する刃の洗礼は、いかな鬼導妖魔でも逃れることはできない。アルバルクがそうであったように紫幹色金もまた、ドウジギリの刀身に刻まれた強烈な天魔祓いに触れて無事に済むはずがない。
〝やめて! やめて! 痛い……熱い……うぅ〟
呻吟とともに、暴れていた右腕がおとなしくなっていく。破魔の毒に侵され、紫幹色金の中の悪魔のすすり泣きは幼娘のようで心を許しそうになるが、相手は外法の存在だ。
『鞘に収まるんだな、姫』
答えはないながらも、これ以上の痛苦を受け入れられないとみてか、鬼導妖魔の巨躯が穴に引きずり込まれるように消えていく。秒程度で紫幹色金は黒銀の閉ざされた右腕の断面図へと去っていった。
「最初の一人でこの体たらくか……」
消耗している。婁は強敵だった。視覚の片割れを代償とした強さはさすがの一言だった。だが――。
「これが最初だ。待っていろ、皇不心」
心に去来するのは懐かしく、今は忌まわしい面影。
一つ喰らうごとに力を増していく――。なるほど、どうやら話に嘘偽りはなかったらしい。左手首に巻きつけていたドッグタグが袖から溢れる。月光を浴びて煌めきを大気に残すそれの数は、五つ。
「まずは、梁 。お前に餞を……」
煙草に火を入れる。魔の要素が混じった緑色の炎が紫煙をくゆらせる。線香の煙は此岸と彼岸を結ぶという。この微毒の煙も、そうであればよいが……。
どちらが真でどちらが偽りか、はたまたこの世ならざる映し鏡のせいなのか、二つ並んだ月は魔都白京の魔の跳梁を知らぬ顔で照らしていた。




