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春の樹の思い

作者: 若林樹

「生まれ変わりって、信じるか?」

いつもの公園で彼はそう言った。

「もしあるなら、俺は」

そう言った彼はもういない。残ったのは少しの思い出だけ。彼との時間はまるで春の儚い樹のようにあっという間だった。すべてが散った樹を僕は見上げた。緑すらも失った樹はすべての活動が停止しているようだった。ただ、散ってしまった彼の思い出が綺麗で、僕はそれを拾い集めることにした。


校庭のさくら


「あいつは一言でいえば、変わったやつだったよ」

彼と高校が同じだった同級生が言った。彼の通っていた高校は僕らが住んでいた町からは一時間ほど電車に乗ったところにある。なぜそんな遠い学校にしたのか聞いたところ彼曰く、「近くのところが良かったけど入学できそうになかったから」だそうだ。

「クラスでも目立つほうじゃなくておとなしかったよ、でも人気はあったんだよな」

「なんだか良い意味で浮いてる感じだったな。でもまさか死んじまうなんてな」

同級生は遠くを見つめてそう言った。

「良いやつから死ぬってのは本当なのかもな」

「彼についての思い出とかってありますか?」

「あるよ、あいつすごかったんだ」

そう言って同級生は彼との思い出を語り始めた。


 俺のクラスは仲が良かった。学校の行事なんかもみんな協力的で一位をとったこともある。多少の衝突はあったけどすぐ治まった。そんなよくある青春をみんなで送っていた。俺はあのクラスが好きだった。もちろんあいつも一緒だ。

でも隣のクラスはそうじゃなかった。外から見ると普通だったんだが、その中身は酷かった。いわゆるいじめだ。おとなしいやつがいたんだが、そいつが気に入らないとかでクラスのトップがいじめてたんだ。靴や教科書なんかを捨てたり、小学生みたいに好き放題やってた。やられてるやつは抵抗してもっと酷くなるのを怖がって何もせず耐えてた。俺は何もできずに見ないふりをしていた。もちろん止めたかったが、俺は一度それで中学の時に痛い目にあった。それがトラウマで動けなかった。本当に申し訳ないことをしたと思っている。でもある時あいつが俺に聞いてきたんだよ。

「隣のクラスっていじめがあるのか?」

そのことはみんな知っていたが、知らないふりをしてたんだ。でもあいつは本当に知らなかったような顔をして驚いてた。

「そうなんだ。みっともないよな」

「そうなのか」

その時の顔は忘れない。高校生にもなってそんなことをしているやつに対してか、被害者に同乗しているのか分からなかったがとても悲しそうな顔していた。


 でもそれから突然、いじめられているって聞かなくなった。隣のクラスのやつに聞くと、どうやら今度はいじめっ子の靴や教科書がなくなるようになった。最初はいじめられているやつが仕返ししているのかと思ったんだが、どうもそうじゃなかった。そんなことできるなら初めから抵抗しているだろう。でもいじめっ子もこれで終わるわけにはいかない。いじめっ子をいじめた犯人探しが始まった、でもこれといった証拠や目撃情報は何も見つからなかった。もしその現場を見ても誰もいじめっ子には言わなかっただろう。当然の報いだからな。でも事態は悪くなった。腹を立てたいじめっ子がいじめをエスカレートさせていった。これ以上はさすがに見てられなかった。周りもこれは言うべきだってなったあたりで、いじめっ子がある日学校に来なくなった。みんな不思議に思っていた。ただそれと同じ時期にあいつが顔を怪我していた。

「ただ転んだだけ」

あいつはそう言って周りは信じたが、俺は違った。あいつは嘘が下手だし、俺は実際に見た。あいつがいじめっ子と校舎裏で二人で会話しているのを。遠くて何も聞こえなかったが、仲良さそうにしているようには見えなかった。しばらく言い争っていたと思ったら、いじめっ子のほうがあいつを殴った。それを見た時、さすがに体は動いた。でも俺が走り出そうとしたとき、あいつが殴り返した。そしたらいじめっ子が一発で倒れた。

 あいつがそんなに強いなんて知らなかった。それよりもあいつの人間性に驚いた。誰かのために体を張れるなんてなかなかできないし、あいつはそれを誰にも何も言わなかった。だから俺も見たことを言わなかった。それからはいじめもなくなったし、そのことも問題にならなかった。あいつはそのあとも何食わぬ顔で学校に来ていたんだ。それまでおとなしいやつだと思っていたが実際はすごいやつだったんだ。もっとそういった部分を出せばよかったのにと思うんだが、まあそういうところもあいつらしい。


 彼は昔からそうだった。自分が良いことをしている姿を見られることをとても嫌っていた。

「なんか格好悪いだろ、いかにもやってますアピールに見られるし。誰か分からないけどやってくれた、くらいのほうがヒーローが来たみたいで格好良いだろ」

彼は道端のビニール袋を拾いながらそう言っていた。「ポイ捨てするなよな」彼のその手には包帯が巻かれていた。

「怪我大丈夫か」

「ああ、大丈夫だ」

「そうか、ヒーローも大変だな」僕は笑った。

「高校生になってまでいじめなんかするなよな」

「そうだね。でもよく止められたね」

「まあな。皆の前では無理だったから。そいつだけ呼び出して止めようとしたけど。ちょっと強引になった」頬を摩って笑った。


「まさか死んじまうとはなあ」

二度目のそのセリフ、同級生も受け止め切れてはいないのだろう。

「ほかに彼について何かありますか?」

「そういえば卒業するときに俺に聞いてきたんだ。俺はどんな人だったかって。変なことを聞くなあと思ったけど、ちゃんと答えたよ」

「なんて言いました?」

「おとなしくてあんまり目立たないけど、皆から好かれる良いやつだったって言ったよ」

「彼はどんな反応でした?」

「嬉しそうだったよ」

「そうですか。ありがとうございました」

「あとあいつ変な癖があったな。会話しているときに何度も鼻を触るんだ、何度もな。こっちは気になって話どころじゃなかったよ」同級生は笑った。


 職場のさくら


 僕たちの住む町の人通りの少なくなった商店街。その並びに本屋があった。彼が高校から大学二年までの間、働いていた店だ。

「彼は真面目で明るい子だったよ」白髪の店長が言った。

「若いしイケメンだったから、ご年配に人気でね。そのおかげで店も少しだけ繁盛するようになったんだ。まさか死んじまうとはなあ」

やはり人にとって死ということは予期せぬ出来事らしい。

「よく働いてくれて感謝していたんだ。何も言えなかったのが心残りだ」

店長もまた遠くを見つめた。

「何か彼についての思い出ってありますか?」

「思い出か」

「何か変わったこととか」

「まあ基本的に少し変わった子だったけど」店長は悩んだ。

「そういえば、一度様子が変だったことがあったな」

「どんな感じでしたか」

そう言って店長は語り始めた。


 あの子は真面目だった。遅刻もしないし休んだりもしない、物覚えも早くミスもほとんどない、まさに理想的なアルバイトだった。爽やかな笑顔で明るく接客して、口数はそれほど多くはなかったが、あれは学校でも中心にいる人気者だっただろう。

 彼がバイトを初めて二年ほど経った頃、この商店街で万引きが流行ってたんだ。周りの店はみんな被害にあって、でもこの店だけまだ被害にあっていなかった。

「この店からは何も盗ませないですよ」

あの子はそう言った。確かに他の店には若い子なんていなかったし、この店から盗まれるなんて思ってなかった。でも次の日店を開けると違和感があった。ずっと居るからすぐわかったよ。本がなかった。昨日あの子と閉めた時はあった本が一冊だけなかった。あの子も心当たりがなかったようだった。あの子は自分の所為だと思っていたのか、それとも犯罪が許せなかったのか。どちらにしても犯人を捕まえようとしていた。言葉にはしなかったが静かに燃えているような目をしていた。

 でもそれから数日たったある日、あの子の様子がおかしかった。いつもより元気がなかったんだ。それを尋ねても「大丈夫です。何もないですよ」って答えるだけだった。あの子はすぐ顔に出るタイプだったから何かあったとは感じていたが、そんな個人的なことを聞くのも失礼だから何も言わなかった。

 そんな時、事件が起きた。盗みの被害にあった店にちょうど盗まれた分のお金が置いてあったんだ。この店の前にも小さな封筒があった。中には盗まれたものの代金が入っていた。でも他の店の人は複雑そうだったよ。後から払ったって一度盗まれているわけだからな。あの子も納得していないと思ったんだ。

「そうなんですか。ひとまずは一件落着ですね」

でもあの子はそう言った。自分に言い聞かせているようにも聞こえた。その時はもう燃えた目をしていなかった。それから数日たってあの子はここを辞めた。


「あの子の思い出はこんな感じかな」

「ありがとうございます」

「まあこれは勝手な想像だけどあの子がお金を置いたんじゃないかって思っているんだ。あの子は他人と違った善意を持っている。自己犠牲の考えが強かったように思えるんだ」


「もしお前の命と引き換えに平和になるとしたらどうする?」

そう聞かれたことがあった。

「ずっと悩んで結局、僕は自分の命をとるかな」

「まあそうだよな。さすがに命はな」彼は笑った。

「でも命じゃなかったら?例えばお金で人が救えるならどうする」

「その金額によるかな」

「限度はあるよな」

「何かあるのか?」

「いや、なんでもない」

彼の顔は正直だ。嘘をつくとすぐにわかる。

「でも俺は出来るだけ救いたいんだ」

「自分がやりたいならやるべきなんじゃないかな」

「だよな」

彼は遠くを見つめていた。

「よし」何かを決めたようだった。

「手伝えることがあったら言ってくれよ」

彼は手を振り、どこかへ行った。彼の顔から何かを感じた僕はその後を追った。

 彼は商店街に来ていた。僕はその様子を自動販売機の影に隠れ、少し緊張しながら見ていた。すると彼は何か封筒のようなものを鞄から取り出し、その封筒のようなものをそれぞれの店の前に置いた。何をしているのか全く分からなかった。その時、彼が突然振り返り、僕と目が合ってしまった。

「やっぱり来たか」彼は笑っていた。「来ると思ってたよ」

「何してるんだ?」

「悪いことではない」嘘ではなさそうだ。

「とりあえず、これを終わらせよう。手伝ってくれ」そう言って、彼は小さな封筒を渡してきた。

「店の前に一個ずつ置いてくれ」僕は言われたとおりにした。

「何してるんだ」商店街から離れ、いつも公園にまた来た。

「聞きたいか?」

「もちろん、君が盗んだわけではないのは分かる。でも何であんなことをしたんだ?」

商店街の窃盗事件は僕も知っていた。

「俺は犯人を見たんだ。ある日店を閉めて帰ろうとしてたら、小学校低学年ぐらいの子どもが商店街にいたんだ。挙動不審だったから一目でわかったよ。声を掛けたら俺に謝ってきたよ。好奇心でやったらしい。でも今こんな世の中だろ。もし自分がやったって言ったら、店の人だけじゃなく、周りの人からもいろいろ必要以上に言われて、学校でいじめられるかもしれない。だから俺が尻ぬぐいをしたんだ」

「いいのか?」

「良くはない、俺がやったことは正しいとは思わないし。だからとりあえずバイトは辞める」彼はため息をついた。

「俺は不器用だなあ」

「そうだね。でも少年を救ったじゃないか」

「それでよかったのか?」

「何が正しいかなんてわからないよ。少なくとも間違ってはいないんじゃないかな。君が叱ったんだろ」

「ああ」

「じゃあそれでいいじゃないか」

「滅茶苦茶だな」

「君もだよ」


「死んでしまったのもそのせいなんじゃないかって考えているよ。事故だったよね?」

「はい、そうです」

「猫かなんかを助けるためにとか考えるんだ」

「普通の事故だったって聞いてます」

「そうか。現実は残酷だね」店長は悲しそうだった。

「他に何かありますか」

「そういえば辞める時、就職に役立てるためだとかって、自分はどんな子だったか聞いてきた気がする」

「なんて答えましたか?」

「あの子は明るくて真面目だったから、そのまま答えたよ。就職も大丈夫だって」

「ありがとうございます」

「あとあの子変な癖あるよね。鼻をずっと触るっていう」

「そうですね。あれ彼の癖なんです」

「ずっと気になっていたんだよ」店長は笑った。

「ありがとうございました。また本買いに来ます」


キャンパスのさくら


 僕と彼は中学まで一緒だった。仲が良くよく遊んでいた。中学生になると彼は良いことをするようになった。コンビニの募金に協力したり、学校のボランティアに積極的に参加するようになった。ある時、僕は彼に尋ねた。

「なんでそんなに良いことするの?」

「なんとなくだよ。俺らも中学生になったし、少しは大人らしい行動をしないとな」

彼はその時そう言っていた。そして時は過ぎていき別々の道へ行くことになった。会う機会は減ったがそれでも高校生の時は月に一度は会っていた。しかし大学生になるとお互いアルバイトやサークルなどで忙しくなり、会う機会がほとんどなくなった。だから大学生の彼について僕は何も知らない。


 彼の大学へは片道二時間ほどかかる。電車に揺られ自分たちの住む町から大きな街を通り過ぎていく。彼はいつもこの景色を見ていたんだろう。同じ背丈の色の違う住宅街、それぞれ高さも形も違うビル、そして落ち着いている山。まるで人の一生のような街並みをずっと見ていた。

彼が所属していたサークルは環境ボランティアサークルだった。君は地球にも優しくするのか。

「先輩は良い人でしたよ」彼の後輩が言った。

大学の食堂はどこも似ている。綺麗に並べられた長いテーブルに、席を一つずつ空け等間隔に人が座っている。

「なんだか信じられないですよ。先輩が亡くなってしまうなんて」

彼の後輩は明るく言った。

「何かのドッキリで先輩は生きてましたっていうオチをまだ期待してるんですよ」

それは何度も思った。これはすべて夢で起きたら元に戻っているとも。でも何度眠りから覚めても目も前にあったのは、あまりにも無関心で残酷でハッキリとした現実であった。

「先輩はしっかりしていて頼りになる人でした。僕が初めて来たときも優しく話しかけてくれて」

ここでも彼は良い人だった。

「僕がこのサークルに入ってからも、ご飯をご馳走してもらったり、本当に良い人でした。たまに変なこと言ってましたけど、明るいし面白くてそんな変わってる部分を含めてムードメーカーでした」

「そうなのか」

「サークル活動も積極的で」

そこまで言うと彼は言葉を詰まらせた。

「すいません、まだ受け止め切れていなくて」彼は笑顔を作った。

「僕もだ」

身近な人の死をすぐに受け入ることができる人は果たしているのだろうか。

「先輩について覚えていることがあって」

彼の後輩が語り始めた。


 僕たちのサークルは主に環境を保護する活動、例えば不法投棄されているごみの回収や緑の少ない場所に苗木などを植える活動をしているんです。僕が大学一年生のある時、僕と先輩と何人かで樹を植えることになって、初めてのサークル活動で緊張していたんですが、先輩がいるというのもあって少し楽しみでした。

「なんでこのサークルに入ったの?」

しっかりと会話したのはそれが初めてでした。

「何か人のためになることがしたかったんです。自然も好きだったんでこのサークルならできると思って」

嘘偽りなく答えました。

「そうか。いいやつだな」

あの時の顔は忘れなません。すごく嬉しそうな顔していました。

「先輩はどうしてなんですか」

「同じかな」

先輩はそう答えました。嘘はついていなかったとは思います、でも何か他にも理由があるように思えました。

 そのサークル活動から仲良くなって、それからたくさんの活動を共にして先輩から色々なことを学びました。

 そして時間はあっという間に過ぎ、先輩がサークルを卒業する時が来て、最後の活動は偶然、桜の苗木を植えることでした。

「最後の活動が桜を植えるとはな」

先輩は笑ってました。

「なんだか自分の子供みたいだ」

「良いですね。最後に自分と同じ名前の樹を植えるって」

「そうだな」

一緒に活動できるのが最後だと思うと寂しくなりました。でも先輩はいつもと変わらず明るく振る舞っていたので、僕も普段通りにしていました。そんな時、樹を植えていると先輩が話を始めました。

「なんか、改めて思うとすごいことしてるなあ」

「そうですね」

「まさか地球にまで優しくするとはな」

「どういうことですか?」

「俺はお節介なんだ。困っている人とか見ると体が動く」

「格好いいですね」

「そんな良いもんじゃないけどな」

「そうなった理由って何ですか?」

「ちゃんとした理由は分からないが、中学生の時に自分の名前について考えたんことがあったんだ」

「良い名前ですよね」

「そうか?最初は嫌だったな。女の子みたいで」

「確かにそうですね。男の名前にしては珍しい」

「でその桜について調べてたら、驚いたよ。知ってたか?桜には毒があるんだ」

「そうなんですか?知らなかったです」

「周りに雑草が生えないようにするためだって。それを見て思ったんだ。今まで自分がしてきた事も誰かの毒になっているんじゃないかって。小さい頃は良い子じゃなかったから」

先輩の優しさに驚いた。

「だから少しでも良いことしようって思ったんだ」

額の汗を拭いながら先輩はそう言いました。


「これが先輩との一番の思い出です」

「話してくれてありがとう」

「僕はその時言わなかったんですけど、その毒は先輩を蝕んでいたんじゃないかって思うんです」

彼は自分を犠牲にしすぎていた。僕はそれについて一度言ったことがある。


「たまには自分を大事にしないと」

「まあな」彼は笑っていた。

「自分にも優しく。君も周りと同じ人間なんだ」

「でもこんな世の中だろ。嫌なことがあったら誰かに当たって、またその誰かが嫌な気分になる。そんなループを繰り返している。だから誰かが優しくしなきゃいけないんだよ、そのループを終わらせるんだ。そして俺がその役なんだ」少し諦めたような顔をしていた。

「お前には感謝してるよ」

彼は自分の真実をほとんど話さなかった。

「あまり抱え込みすぎないようにな」

僕は言った。

「ありがとう」そう言った彼に影があった。明らかに何かをため込んでいた。僕は彼の助けになっていたのだろうか。


「そういえば変な癖ってなかった?」悲しさの混じった空気を少しでも明るくしようと尋ねた。

「ありました。喋るとき鼻を触るんですよ。それをよくみんなでからかっていました」後輩は思い出して笑顔になっていた。

「先輩は向こうでも良いことしているんだろうなあ。僕も頑張らないと」

見ているか。誰かのために行動する人がここにもしっかりいるぞ。

「今日はありがとう」

「こちらこそありがとうございました。先輩の分まで頑張ります」

そういった後輩に彼が重なった。

「ただ周りに仲間もいるから頼るように」

「はい」

こちらまで明るくなる爽やかな笑顔だった。


 家のさくら


 彼と僕は幼なじみである。彼の家は背丈の同じ住宅たちが集まっている中の一つで、どこにでもあるような一戸建てであった。僕の家もその集団の中の一つであった。僕は何度か彼の家に入れてもらったことがある。仲のいい家族に感じた。夕飯をご馳走になったこともある。その時も賑やかで楽しそうであった。普通の家族、僕はそんな彼らが羨ましかった。

 僕の家庭はそうではなかった。僕と両親の仲が悪いわけではなかった、両親同士の仲が悪く、少しのことが引っかかり、その度に争っていた。僕はそれを子どもの頃からずっと見てきた。しかし大人は子供は見ているということに気付かないのだろうか。むしろ互いのことを尊重せず好き勝手に言い合うその姿はまるで子どもようだった。これもまたありふれた家族の形なのだろう、そう思っていた。それでもやはり彼の家族は羨ましかった。外から見れば形も色も似たような家だが、実際その中はまるっきり反対だった。円滑に回る歯車と錆びだらけの歯車のようだった。

「君の家族は仲が良さそうでいいね」

僕は感じたことを言った。

「仲良さそうに見えるか。それは俺のおかげだな」

「そうなのか」

僕は軽いジョークだと思い笑った。彼も笑っていた。しかし彼の顔に嘘はなかった。

「外から見ればそうかもしれないが、俺の家も色々あるんだぜ」

彼の顔からその「色々」があまり良いことではないことが分かった。


「突然すみません」

「全然、良いのよ」

彼の母は僕を快く家に上げてくれた。

「さくらの顔が見たくて」

「いつでも見に来てくれていいのよ」

彼の写真が仏壇に置いてある。高校生の時のものだろう。脇に供え物を置き火を灯す、そして目を瞑る。思い出が瞼の裏を通り抜けていく。

「あの、さくらについて聞きたいことがあって」

「何?」

「何か変わった思い出とかありますか?」

「さくらの?うーん、あの子基本的に変わってたからねえ。たくさんあるよ」

「家族から見てもそうなんですか」

「そうだねえ。誰に似たんだろうってくらい」

僕は笑った。

「さくらが小さい頃、名前について聞かれたことがあるの。なんでさくらなのって、心の綺麗な人になってほしいからって答えたら、なんだか嬉しそうに笑ってた」

「気に入っていたんですか」

「そうよ。小さい頃はね。でも中学生頃になると、まあ色々複雑な時期だからだったかもしれないけど、自分の名前が気に入らないみたいなことを言ったの」

桜の毒について知った時だろう。

「そんなにはっきりとは言わなかったけど、なんでこんな名前にしたんだってボソッと言われたの。名前でからかわれたりしたのかなって思ったのよ」

「そんなことはなかったと思います。そういったこと僕らの学校ではありませんでしたし」

「あんまり自分のこと喋らない子だったから、それ以上は聞けなかったけど」

やはり頼っていなかったのか。

「でも優しかったよ。花言葉どおりに育ったの」

彼は自然とそうなったのか。それとも自分からなったのか。それはもう分からない。

「そういえばあの子、中学生ぐらいの時に、一度だけ家出してあなたの家に泊まったことあったわよね」

「ありましたね、突然だったんで驚きましたけど」

「あなたにだけ心開いていたのよね」

彼の母はどこか悲しそうにそして羨ましそうに言った。

「さくら、あなたに家族について言ってた?」

「言ってましたよ。口には出さないけど感謝してるって」嘘はなかった。

「それだけ?」

「はい」すると彼の母は笑った。

「あなたもさくらと同じで嘘が下手なのよ。気付いてない?」

嘘が見破られることがあるのはそういった理由か。僕はこれまでを振り返り納得した。

「隠すってことはあんまり良いことじゃなさそうね」

「恨んだりとかそういったことじゃないです」

これも本当だ。

「ただ」そう言って僕は語り始めた。


「家族の中で俺だけが異質なんだ」

彼は吐き出すように話し始めた。

「例えば俺だけ寒がりだったり、食べ物の好みが合わなかったり、最初はそんな些細なことから感じるようになったんだ」

僕は黙って聞いていた。

「それから根本的な考え方が違うと思ったんだ、家族だけじゃなく周りとも。説明しづらいけど俺はズレているんだ」

少しなら誰でもあるのかもしれない。

「そのズレを直さないと周りに迷惑がかかる。だから家族にも気を遣うようになったんだ。それがうまくいっているように見える理由だ」

「気を使わない相手っているのか?」

「お前ぐらいだよ」

彼は無理やり笑っていた。

「別に家族が嫌いっていうわけじゃないんだ。それは誤解しないでくれ。できるだけ笑顔でいてほしいんだ。嫌な思いを極力してほしくないっていうか。だって皆色んな所で傷つくだろ。家ぐらいは楽にして欲しいんだ」

彼の優しさには底がない。その時僕は尊敬とともに自らを侵すその優しさに恐れも抱いた。

「そのためなら耐えるよ」

「君はどうするんだよ。自分にも優しくしないと」

「まあ、ある程度はしてるつもりだよ」

「ある程度ってどのくらいだよ」

「お前は良いやつだな」

君のほうが間違いなく良いやつだ。

「でも自分で優しくするのも限度があるだろ、やっぱり他人から優しくされたいなあ」

悲しそうに笑う顔は今でも覚えている。

「もう俺は周りから見れば大丈夫な人間なんだ。何でも一人でやる、あいつなら大丈夫って思われている。皆は気付いていないんだ、その大丈夫な人間は他の人からもそう思われていて、全員がその人を大丈夫だと思う、そうすると結果的にその人は誰からも気を遣われなくなる」

信頼されているが故の孤独。

「でもそんなやつに気を遣うのも難しいよな。それも分かるよ」

「君は気を遣いすぎだ」

「そうだな。でももう変えられない」

彼の周りの影が大きくなり過ぎて、僕は何も言えなかった。


「あの子、そんなこと思ってたの。家族になんて気を遣わなくていいのに」

「でもやっぱり家族は特別で、家族の中だと自分は子どもになれるとも言ってましたよ」

彼の方を向くと彼は笑っていた。

「気付いてあげられなかった」彼の母は今にも悲しみに沈んでしまいそうだった。

「そしたら止めてあげられたかもしれない」

「ちょっと待ってください。さくらは自殺なんかしませんよ。自殺するならトラックに突っ込むなんて他人に迷惑のかかることはしませんし、遺書とか用意して、変な言い方ですけどできるだけ被害は抑えると思います。そもそも、さくらが自殺するなんて絶対にありません」

彼は交通事故で死んだ。大学からの帰り道、トラックに轢かれた。運転手は彼が突然飛び出してきたと言っていた。さらに当時の彼はどこか様子がおかしかった。会話をしていてもどこか上の空で心だけが違う場所にあるようだった。だから彼が自殺したかもしれないと皆は思ってしまった。しかし僕は知っていた。彼は自ら命を絶つことはない、僕はしっかりと彼の口から「死にたくない」と聞いたんだ。

「私たちが信じなきゃね」

「はい」

「そういえばさくら変な癖ありますよね?」ふと気になった。

「鼻を触る癖のこと?」

「そうです」

「あれ、父の癖なの。早くに亡くなっちゃったんだけど。たぶんお父さんの記憶もないのにそれだけはうつったのよね」

彼の父は早くに亡くなって父との記憶がないことを聞いていた。

「そうだったんですか」

「優しい人だったの。さくらの優しさはあの人から受け継いたんだろうね」

良い人から死ぬとは正しいのかもしれない。

「でも変な癖よね」彼の母は笑った。


 僕のさくら


 さくらは変わったやつだった。彼は真面目で明るくて優しいように見える。彼は僕にとってヒーローだった。僕が悲しみに足をとられ、暗闇に沈みそうになった時、必ず彼は僕の手を取ってその沼から引っ張り出してくれた。彼の周りの色んな人の話を聞いて分かった、彼が救ったのは僕だけではなかった。僕はそんな彼を尊敬し、友であることを誇らしく思った。

 しかしそんな眩しい姿だけが見えていたわけではなかった。満開で綺麗に見えるそれも、次第にその花弁が散り始めていることに僕は気付いていた。自らを犠牲にして人に尽くすその姿、それは美しく、同時に儚くもあった。彼は時折、悲しげな眼をするようになった。そのままどこかへ消えてしまいそうだった。そして僕が最後に彼にあった時、とても弱々しく以前の生命力を感じなかった。もうほとんど散っていたんだろう。それでも彼はそんな姿を悟られないようになんとか明るく振る舞っていた。だから今度は僕が彼のヒーローになりたかった。僕が彼に救われたように彼を救いたかった。でも彼は突然いなくなってしまった。残されたのはそれぞれの思い出だけであった。僕はその思い出たちを拾い集めることしか出来なかった。ただ僕にとってはその散ってしまった思い出は新しいものであった。彼を感じることができた。最後に会ったときに彼が言った言葉を思い出す。


「生まれ変わりって、信じるか?」彼は言った。その言葉に心臓が跳ねる。良からぬことを考えているのかと思った。

「もしあるんなら俺は嫌だな」僕の予想はほんの一瞬でどこかへ消えた。

「普通はお金持ちの家に生まれたいだとか、かっこよくなりたいとかじゃないのか?」

「確かにそれも一理ある。でもな、それ以上にまた苦しい思いをしなきゃいけないだろ?それが嫌なんだよ。どれだけお金があっても、どれだけ顔が良くても辛いことはあるんだ。だから俺は死にたくない」彼は本気で言っているようだ。

「でも生まれ変わったら、記憶とかリセットされるんじゃないのか」

「それは分からないだろ。何かの手違いで出来ませんでしたってなるかもしれない」

「なんだそれ、変わってるな」

「知ってるだろ」

僕らは一緒に笑った。

「でも生まれ変わるんだろうな」諦めたようだった。「桜って忙しいんだよ」まるで自分が桜の樹であるかのように彼は言った。

「どういうこと?」

「春になると綺麗な花を、夏になったら緑の葉、秋に赤くなって、そして冬で何もなくなるんだよ」

「確かにそう考えると他の樹より忙しいのかもしれないね」

「まだ、終わりじゃないんだ。また春が来れば、綺麗な色につける」白と緑、すべてが散った樹を見上げ彼は言った。

「生まれ変わるんだよ。どれだけ花が散り、葉を枯らしても」

最後の記憶。それ以来、彼との新しい思い出が芽生えることはなかった。すべてが散った桜の樹を僕は見上げた。緑すらも失った樹はすべての活動が停止しているようだった。しかし触ると樹の鼓動を感じた。枝にも蕾のようなものがある。

「生まれ変わるか」

もうすぐ春が来る。


 さくらの思い


「綺麗な緑の森があった。しかしその中に一つだけ違う色が混ざっていた。外から見れば神秘的できれいに見えるだろう。しかしその樹は周りに馴染めないことを気にしていた。周りの緑も全体を乱すその樹を疎ましく思っていたかもしれない。だからその樹は出来るだけ周りに合わせようとして緑の葉を生やした。しかしどうしても緑とは違う色が漏れ出てきた。そこで樹は考えた、自分が犠牲になれば良い。だから樹は毒を使って周りから緑を遠ざけた。そしてその樹は独りになることができた」

「それは?」

「孤独な桜の話」

「さくらは孤独じゃないだろ」

俺を見てまっすぐそう言った。

「俺のことじゃない。樹のほうの桜だ」

「そうなのか」

「多分な。桜は綺麗に見えるだろ?綺麗な色の花をつけて他の人の目を惹く。皆が寄ってくるのは桜にとって嬉しいことでもある。でも桜は周りの樹と違うことに孤独を感じているのかもしれない」

「桜の気持ちか。考えたことなかったな」

「まあ、それでも春になれば桜は咲くんだ、それが役目だからな。だからせめてお前だけでも桜を大切にしてくれ」

「わかった」あいつは頷いた。「皆、悩んでいるんだな」

「そうだな」

誰にも理解されなかった。ずっと孤独を感じていた。周りと違うことでその場の空気を乱しているんじゃないかと考えていた。俺の存在が邪魔なんじゃないかと思った。だからもっと人の役に立つように振る舞い、周りに馴染めるように自分を抑えていた。でも完全に抑えるなんてできなかった。少しずつ毒は漏れていた。独りになったと思った。

「なあ、お前から見て俺ってどんな風に見えるんだ?」

「たぶん周りの人から見ると優しいだとか気が利くとかのイメージがあると思うけど…」

でもこいつがいた。

「僕からすれば、ただの人だね」

「そうか」自然と笑みがこぼれる。

「褒めた方が良かった?」

「いや、それでいい」

「じゃあ僕はもう行くよ」

「またな」

今度あいつに「ありがとう」でも言ってやるか。



 公園のさくら


 いつもの公園が「いつもの」ではなくなったころ、僕は久しぶりにその公園に来た。時は平等に流れる。あれから時間が経ち、さくらとの別れの悲しみとも仲良くなれた。僕は地元から離れて暮らしている。今日は約束を果たしにここへ来た。さっきコンビニで買った酒をビニール袋から二本取り出す。一本は腰かけているベンチに置き、もう一本を持つ。この公園には一つだけ桜の樹がある。周りが住宅たちに囲まれているので、桜の存在がより際立っていた。時期が少しだけ過ぎており、所々少し緑が混ざっていた。休日の昼間なのに人はいなかった。

缶の蓋に人差し指をかけた時だった。周りの音をかき消すほど大きなクラクションの音が聞こえた。それに驚き音のほうを見る。すると、小学校低学年ほどの子どもが道路の車の前にいた。慌てて駆け寄る。

「大丈夫か?」少年に声をかける。

「おい、お前のガキか。急に飛び出してきたぞ。親だったらちゃんと見とけよ」運転手は荒々しくそう言い、僕たちを避けて車で去っていった。

「ケガはないか?」

少年は頷いた。どうやら無事のようだ。

「ここは危ないから、とりあえず向こうに行こう」

少年をベンチに座らせる。親がすぐに来るだろう。

「君一人?」

口を真一文字にして少年は頷く。

「飛び出したらダメだって教えられなかった?」

「だって」ようやく口を開いた。「ネコがひかれそうだったんだ」

猫を助けるために自分の危険を顧みないその姿に僕は驚いた。

「君はえらいな。そんなこと大人でもできないよ」僕の役目は怒ることではない。僕は彼のとった行動を褒めた。

「猫も感謝してると思うよ」

そう言うと少年の顔が明るくなった。子どもは純粋である。

「でも危ないし、猫も自分で避けられるだろうから、もうしちゃダメだよ」

「わかった」少年は鼻をしきりに触る。鼻を打ったのか?どうやら血は出ていないようだ。

「よくこの公園で遊ぶのか?」

「うん」頷きながら返事をする。

「友達は?」

「いない」彼は答える。聞かないほうが良かった。「いつも一人で遊んでるんだ」

少年相手に少し気まずさを感じた。

「おじさんは?」自分がおじさんと呼ばれるには少し早い気がした。

「友達は少なかったよ。でも一人だけ仲良い子がいて、いつもここで遊んでいたんだ」

「その子は?」

「今は遠いところにいるよ。君と同じで優しかったんだ」

少年と彼を重ねる。

「おじさんも今はこの辺りに住んでいないんだ」

「じゃあどうしてここに来たの?」子供の純粋な質問だった。

「約束を果たしに来たんだ」僕は純粋に答えた。

「どんな?」少年はまた鼻を触りながら質問をした。癖なのか。

「桜の下でその子と一緒にお酒を飲むっていう約束」僕は彼を見た。

「でもおじさん一人だよ」

「一人じゃないよ」

少年は不思議そうな顔をした。

「君も一人じゃない。誰かがきっとそばに居てくれる。その人を大事にするんだ」

「うん」少年は曖昧な返事をした。

「約束守れてよかったね」そう言うと少年はどこかへ行ってしまった。

 見上げた桜には緑の葉があった。散り始めた桜も儚くて良い。そしてまたこの季節になると綺麗な桃色の花をつける。そうやって繰り返していく。

 さくらに思いを馳せながら「乾杯」。そういえばあの少年、変な癖だったな、ふと思い出した。


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