寅吉の現状について
船の奥まで来ると宴会の騒ぎ声はあまり聞こえなくなる。
寅吉はお千代の手を開放すると、はぎつけに体をあずけて腰を下ろした。
お千代も彼のとなりに座り込む。
静かになるふたり。
だが、お千代が少しして音を上げた。
「寅吉さん……。ここすごく魚臭いです」
「前も言っただろう。陸奥からニシンを仕入れて、これから備後や備中、備前に播磨、そして摂津で運ぶんだよ。他にも北陸から細々とした品物を買いこんでいるが、この船の荷の大半がニシンの塩漬けやニシン粕だぞ」
宴会は甲板下の船頭や知工の部屋で行われているからあまり匂いは感じなかったが、荷の近くになるとやはり気になるほどの魚独特の発酵臭が鼻につんとくる。
「うちは上方で船の手入れをしない分、西廻りでも上方止めの船より早くここまで来てるからな。しばらくすれば、ほとんどの船がこんなもんだぞ」
「それはキツイですね……」
「ニシンは高く多く売れるからな。ま、我慢しろ」
『そのうち鼻もなれる』そういうと寅吉は、座ったままの姿勢で両手を上げて伸びをした。
昼のときのこと、さきほどのことと、周りからの縁談の圧力で疲れている様子だった。
薄暗い船の中、耳をすますと宴会のどんちゃん騒ぎが聞こえてくる。
あれからお千代からは何も口にしないし、寅吉も何も言わない。
相手の出方を伺っているような、そんな空気が流れる。
今度は寅吉がその空気を打ち破るように話しだした。
「――お前は、何も聞いてこないんだな」
ここでいう『何』とは、もちろん彼の縁談話のことだ。
昼は何も言わない方が良いだろうとお千代は判断したが、寅吉自身が口にしたのなら状況は変わる。
だが、人間関係の話にはできれば関わりたくはない。
お千代がすこし考え込んでいると、寅吉はくくくっと笑い出した。
「すまん、俺の言い方が卑怯だったな。……俺がお前に言いたいだけなんだ。面倒な話だが、聞いてくれるだけで構わん」
ああ、そういうことかとお千代は思った。
「めずらしく私を買うと言ったのは、そういうことですか?」
「いや、それは別のことで、だ。……お前に話してもいいと思えたのは、ここへ来てからだ」
「別、とは?」
「船頭に女に興味がないなら、陰間に連れて行くと脅されていたからな……」
「半ばやけくそで言ったんですね?」
お千代にそう言われて寅吉は正直にうなずく。
『仕方ないなぁ』とにんまりとした笑みを浮かべると、お千代は寅吉の肩にしなだれかかり、彼の腕に抱きついた。
寅吉はやや眉間にしわを寄せつつも、お千代の態度を叱ることはしないが苦言を呈してきたのだ。
「おい、それが話を聞く態度なのか?」
「遊女ですから~」
恥のかき捨てのように遊女だから愚痴が言えるというなら、こちらも遊女として聞いてやろうということなのだ。
それにただ聞き手に回るだけでは面白くない。
ちょっと困らせてもいいんじゃないかと、ワザと密着しているのだった。
「……まあいい」
お千代の悪ふざけをあきらめて受け入れた寅吉は、今自分を悩ませていることについて語りだした。
子供の頃から親切にしてくれて恩人でもある直江屋の勘兵衛のこと。
そして勘兵衛から娘の婿に望まれていること。
奉公時代からそりが合わない勘兵衛の娘のアキのこと。
直江屋の番頭は自分の息子をアキの婿にしたがってること。
店の奉公人の男がアキとただならぬ関係であること。
その店の現状を何も知らない者であれば、大店の婿に望まれたら喜ぶだろう。
店の内情を知り尽くしている寅吉の場合はそうではない。
――ということのようだ。
「勘兵衛さまは商才はあるのだが、人というのもにとても疎い。俺が婿養子になったら確実に店の者たちとの亀裂が入り、それが深くなることはあっても、元に戻ることが出来ないということを分かっていない……」
「寅吉さんは、人と表面上だけでも仲良くすることですら、難しいですもんね」
「そう言われると癪だが、お前の言うとおりだ。人が築いた店を継ぐより、自分で一から作り上げる方が俺の性に合っている」
大店の旦那が色里で気に入っていた遊女の息子を店で働かせるくらいなら問題はなかった。
だが婿養子に迎えるとなると話は違う。
遊女ふぜいの息子が何の力も努力もなく、店のすべてを掻っ攫っていくのだ。
せめてよその店の次男坊や三男坊なら、ある程度の収まりがついただろう……。
アキとしても大店の娘として養育され、いずれは婿を取らねばならないことは分かっているが、ひとりの女として誰かに愛されたいという欲求はある。
物語に出てくるような男性を夢見ているわけではないが、遊女の息子などもってのほか、ご免被るというわけだ。
番頭だってこれまで店のために尽力してきたことや、息子も店に奉公させ商人としてのいろはを叩きこみ、婿に相応しい逸材へと育て上げた自負がある。
今まで築き上げた功績を認められず、どこぞの馬の骨のような男に婿の座は渡せないと意気込んでいる。
アキの恋人である奉公人も、彼女への執着や、自分もこのまま上手くいけば婿になれるという下心がある。
彼女の心はこちらにあるのに、ぽっと出の男に彼女を奪われたくないと必死になるのは当然のことだ。
「ほかの奉公人だって、俺みたいなのをお嬢の婿には歓迎しないだろう。――婿になったところで、勘兵衛さまの後ろ盾がなくなったらそれで終わりだ。……恩はあるが、こんな無謀なことでは恩返しにもならん」
「私だったら、そんな店に一歩たりとも足を踏み込みたくないですよ」
「どこの店でも大なり小なり人間関係の問題を抱えてるもんだ。お前個人でも、あるだろ?」
「私の問題……。遊女だけど素人娘に見られること、とか?」
お千代が自虐的なネタをいうと、寅吉は彼女の方をチラチラと目だけでみてはーっとため息をついた。
「又助さんに言われたことを根に持ってるのか?」
「いやー、自分でもそう思うから、怒ってなんかないですよ」
「怒りはないが、気にはしているということか」
「う……」
あの言葉は真実なれど、どうすれば素人娘から脱却できるのかが分からない。
そういった心の中の引っかかりはある。
「寧ろ俺は、お前がそのままでいてくれた方が助かる」
「――どうして?」
(寅吉さんは、遊女が嫌いだから素人娘のままの方が良いということ?)
もう少し遊女らしくなりたいと願うお千代が問う。
しかし寅吉は何かを誤魔化すように、首と肩をコキコキと動かしながら答えた。
「その問いに答える必要はない、だろ?俺は、お前を買っているんだからな」
ニヤリと寅吉が笑いかけると、お千代は頬を膨らませて彼のうでを引っ張るのでした。




