寅吉の女嫌い
その様子をお千代はハラハラと見つめていました。
(どうしてこの状況で夕霧姐さんは平気なんだろう?これが遊女としての格の違いなの??)
船頭といえば船主のつぎに偉い人。
そんな人相手でも臆することなく歯向かう寅吉さんも一体――。
怒鳴り合いは終わることなく、殴り合いに変わるのも時間の問題というくらいに一触即発な状態の中へ、夕霧に言われて渋々と弥彦が進んでゆく。
弥彦は又助の方へ近づくと、夕霧からの言葉を伝えているようでしたが、彼の声は大声で怒鳴り合う彼らの耳には届かないようだ。
下手なことをして、荒事ですべてを解決しているような連中に殴られるのはご免だと、後方へ下がりふたりから距離を置いて考えはじめた。
初老だが長年下の水主たちを相手にしてきた又助は、並みの老人よりとてもよい体格をしている。
お千代と歳はさほど変わらないであろう寅吉も、水主として荷運びをしているのでそこそこよい体格と背の高さである。
それに立ち向かう弥彦は、優男という言葉が似合う小柄でひょろっこい体つきだ。
持ち前の話術でどうしたらこの状態を打破できるか思考を巡らせる。
その間にも又助と寅吉の言い争いは収まらない。
激しい罵り合いの最中、ことの発端であろう重大な事柄が飛びだしてきたのだ。
「大体、アキお嬢さんの何が気に食わないんだ。それに直江屋に婿入りするのは悪い話じゃないだろ。所帯を持つのは人として立派なことだぞ」
「あの女が最初っから俺のことを嫌ってることを知ってるクセに、そんなことを言うもんだなぁ……。それに店の番頭や奉公人たちも表立っては反対してないが、裏で滅茶苦茶文句を言ってくるんだぞ!?それのどこが悪くない話なんだ?――所帯を持ってない又助さんが俺の代わりに婿入りしてくれよ!」
白熱するふたりの会話から察するに、寅吉は雇い主の娘と結婚して直江屋の入り婿にと誘われたが、相手の娘と合わないことや、店との者との軋轢からその話を蹴ったらしい――。
それでも同じ船に乗る周りの人たちが、何だかんだとお節介を焼いてるんだなとお千代は察した。
(寅吉さんも人との関わりで疲れてると言ってたからなぁ……)
今回会ったときにお千代がそばに寄りついても怒らないし、めずらしく自分を買うと言ったのはこの所為か――、とひとり納得する。
お千代はふたりの言い争いを困った顔をして見守っているようで、頭の奥底では『寅吉さんも大変だねぇ』と対岸の火事のようにどことなく冷静にみていた。
ふたりの状況はあまり変わらないのだが、さきほどの寅吉の言葉が効いたのか、又吉は少し肩を落とし芝居じみた言葉を吐きだしてきたのだ。
「わしだって若いころには所帯を持っておったわ。――だがな、冬になって船から下りて家に帰ってみたら、女房と子供は三軒先のヤモメと暮らしていたんだよ。それからというもの所帯を持つのが怖くてな……」
「それで?」
「『それで?』とは何だ!恥を忍んで昔話で情に訴えてみても、まるで暖簾に腕押しだな。はぁ、……与作が手を焼いてるわけだ」
「その程度の話で、この俺がほだされるとでも思ってたんですか?まったく、甘くみられたもんだ」
ひと区切りついたのか、ふたりは口を閉じて睨み合うだけになってきました。
その好機を逃さないようにと、頭を抱えていた弥彦は又吉の肩を強く叩き、『夕霧さんがお待ちしています』とささやいた。
すると寅吉との白熱した言い争いで夕霧の存在を忘れていた又助は、彼女の元へと素早く駆けつけます。
「長いこと放っておいて悪かったな。疲れただろう、宿に入るか」
「あい、ぬしさま」
夕霧は又助の言葉に従い、となりにいるお千代の背を軽く押すとつた屋の方へと歩いて行きます。
そして又助は弥彦に、『アレに女を宛がうのは無しだ』と言って彼の袖にチャリチャリとなるものを入れ込んだ。
弥彦は又助に一礼すると、彼らのあとをついて行きます。
その場に残された寅吉は、お千代に目もくれず踵を返して通りを南方向へと立ち去ってゆく。
「え、あっ、ええ?」
ひとりになったお千代は慌てて寅吉のあとを追うのでした――。
又助たち一行がつた屋の暖簾をくぐると、風呂上がりの与作たちが店の間で涼んでいました。
「又助さん、風呂いただきました」
「おう、みな宴会までゆっくりしときな。沖に戻る者もあとで酒と美味い飯を運ばせるから、まっ、今日明日は楽しんでくれや」」
船頭である又助がそういうと、水主たちはわっと歓喜の声を上げます。
夕霧は店の中央にある階段を登って二階へゆき、茶屋の用心棒は店先で奉公人から茶を受け取っている。
又助も店の間に腰を下ろすと、つた屋の主人から茶を受け取った。
「今宵はどの女たちお呼びしましょうか?」
一応、馴染みの遊女はいるが、遊女も水主も入れ替わりがある。
弥彦は小さな帳面を開いて又助にたずねます。
「こっちはひとり腰をやって船を降りたもんがいる。鈴虫という女が馴染みだったなぁ……」
「うちは夏の終わりに須磨が茶屋を出ました。あとは変わりなく――」
「それじゃ悪いが、鈴虫以外のほかの女たちは揃えておいてくれ」
「はい」
頼まれた注文を事細かく弥彦が書きこんでいるよこで、つた屋の主人が宴会用の食事と沖への仕出しの注文をとる。
金は船頭が船宿からでる前に心付けとして金をいくらか置いてゆき、つた屋から女たちの代金が茶屋に支払われる。
つた屋の主人との話が終わると、又助は与作に風呂のことを聞く。
与作は今は入ったばかりの若い男が風呂いることと、寅吉がまだだと答えた。
すると又助は、近くで控えていた弥彦を呼び寄せます。
「今風呂に入ってるもんがでたら、女たちを茶屋に戻してくれ」
「はい。わかりました」
そして弥彦が店の間から遠ざかると、やれやれと顔をしかめる又助に、おやっと何かを感じたのか与作が話しかけます。
「力づくで寅吉を湯女がいる風呂に入れるんじゃなかったんですかい?」
「その寅っ子とさっき会って来たんだが、おぼこのような女を連れとったわ。ああいうのが好みなんかのう」
「女嫌いというより、商売女が苦手なのかもしれん」
「あの大人しそうなアキの嬢ちゃんも気にいらないところをみると、自分に懐かないおなごはみなダメなのかもしれん……」
「それにしても、あいつに懐く女がいるとはなぁ」
与作がへーっと感心していると、苦虫を噛むようように又助はいうのだ。
「懐いてる女は、お前のみたいに沖の女らしいぞ」
「ははっ、おれは元気な女が好きなだけでさぁ。――ということは、あのお千代とかいうおなごか」
「夕霧もそんなこと言っとったな」
その後しばらく又助と与作は、寅吉の女嫌いのことについてあれこれと語り合うのでした。




