それぞれの思い違い
どうして弥彦が唄を書き留めているのか不思議で、お千代は書き終わるころを見計らって彼に聞きました。
「弥彦さんも唄に興味が湧きましたか?」
「これは旦那さんたちに聞かれた時や、話のネタに覚えておくといいかと思いまして……」
すこし照れながら答える弥彦に、お千代は驚きのあまりに口を手で覆います。
「――え、弥彦さんも客を取ってるんですか!?」
「は?」
唐突な質問に弥彦は一瞬思考を停止させましたが、お千代の言葉の意味を理解すると顔を赤くして首をよこに振って否定します。
「いえいえいえいえ!待ち時間の接客も僕らの仕事ですから、旦那さん方と話をするときの話題は多い方がいいんですよ」
「……そうですか。たまに沖の遊女に男はいないのかと聞く水主さんもいるんですよ。弥彦さんなら、こう可愛いらしい容姿ですからおかしくはないかな~と思いまして」
「よしてください。そういう方は役者を目指す少年がやることですよ。それに上方や大きな町ならともかく、こんな田舎の港町に陰間茶屋はありません」
「陰間茶屋?」
「男の遊女、――みたいな方が旦那さんのお相手をなさるところですよ」
「へぇ~」
男の遊女茶屋があるんだなぁ、世の中は広いんだなぁと思いながら、お千代は女将さんが書いてみせた唄の歌詞を見つめるのでした。
今日の手習いの時間が終わったころ、お千代が帰り支度をしているときに弥彦が昨日の傘のことを聞いてきました。
朝から太一のことで頭混乱していて、借りていた傘のことをすっかり忘れていました。
「一度おなごやに帰って、またすぐ傘を持ってきます!」
お千代は青ざめた表情で弥彦にいうと、彼は笑顔で『わかりました』と答えて、傘は裏口にたてかけてくれたらいいと伝えてきました。
風呂敷包みを抱えてお千代は足早に萩屋をでて、駆け足でおなごやまでもどります。
今日の天気はくもりですが、ところどころで青い空がみえていました。
まばらな人波の中を器用に走り抜けておなごやにたどり着くと、一旦荷物を置くために息をきらせながら居間にはいります。
すると小波が堰を割ったように話しかけてきました。
「お千代姐さんって太一さんといっしょになる約束をしてるんですってね」
お千代はそれを聞いて思わずむせてしまいました。
それでも手習いの道具を片付けると、小波に向かって笑顔で答えます。
「…はは。昔のことだよ。今はもうどうでもいい他人だよ」
「えー、そんな言い方ないと思います。お千代姐さんのためにこんなところまで来てくれたのに」
「それは無駄骨だったとしか言いようがないね」
「そんなこと言ってると、アタシが太一さんを奪っちゃいますよ」
「好きにすればいいと思うよ……」
お千代は小波にそれ以上は構わずに、土間に置いていた傘を手に取り飛びだして行きました。
彼女にとっては無駄話よりも傘を早く返して心から安堵したいからですが、小波はお千代が自分を避けて表に出て行ったのは、自分が太一を狙っていることへの嫉妬だと思いました。
(太一さんから聞いた通り、単純で分かりやすい女みたいだね。あんな強気なこと言って、すぐに彼のところへ向かってさ、本当に彼を私のモノにして思いっきり馬鹿にしてやろうかしら……)
くくっと薄ら笑う小波の顔を、今まで気に留めずにいた姐遊女たちはいぶかしげに眺めていました。
しかし小波に注意を促すことはなく、それぞれ自分のやるべきことをするだけだったのでした。
お千代は早足で萩屋に行き、弥彦の言った通りに裏口に傘をたてかけると、一息ついてから回船問屋がつらなる港の方へと向かいました。
そろそろ昼時の頃合いになり、港の近くで休憩をとる浜仲仕たちが思い思いの場所に座ります。
女中たちが茶を沸かしたやかんや湯のみに、間食用のにぎり飯を持ってきました。
男たちはそれに手を付けて口に運びました。
ちょうどにぎり飯を食い終え、湯のみを片手に顔の汗を手ぬぐう三郎の後ろから、背筋が凍るような殺気を感じました。
彼は振り向きもせずに殺意を放つ相手に向けて一言口にします。
「――つる、太一と会ったのか?」
その言葉を聞いて、相手は後ろから三郎の背中に蹴りを入れました。
しかし彼は女の蹴りをものともせず、湯のみのお茶を飲み干します。
「オレが里に帰った時に、ここにお前がいることはしゃべったが、あいつが来るとまでは思わなかったんだよ。金もサヨにくれてやってないって言ってたからな」
「じゃあ船宿で太一が働きだしたのは知ってる?」
お千代は怒りで声を震わせながら言うと、三郎はギョッとした顔で振り返った。
「あいつ、昨日ここへ来たばかりだぞ!?なんでもう船宿で働いてるんだ…」
「こっちが知りたいわ!」
そう言ってさらに蹴りを入れようとするお千代から距離をとり、三郎は『とりあえず落ち着け』と言ってきます。
「里がサヨたちのことで嫁が実家に帰ったり、嫁のきてがなくなってしまったらしい。それで太一がお前に帰って来てもらえばいいじゃないかと言いだしてな。オレがつるはもう遊女やってるから戻ってこないと言ったんだが、……話がまったく通じなくてな」
「そんなもの自業自得じゃない。サヨを探しに行けばいいのよ。三郎だってそうでしょ?」
「痛いとこ突いてくるなぁ。もうそんな気はないよ」
「でもあんたも太一もきっと、またサヨが現れたら同じことをくり返すんじゃない?」
お千代が睨むようにいうと、三郎は首をよこに振ります。
「サヨが現れたとしても、昔のような気持ちにはなれないと思う」
「そう…」
さすがにそれ以上のことは、お千代も口にはしませんでした。
三郎は何とも言えない表情をします。
「太一のことは絶対に何とかはできそうにないが、お前に迷惑をかけないように言うからしばらく堪えてくれ」
と、ため息をつきながら彼は言うしかありません。
太一の性格をある程度は知っているお千代も、三郎に任せても無理だというのはよく分かっているので、つかつかと彼の元へ行って、もう一度蹴りを入れて帰るしかなかったのです。




